ひどく荒れた雨の夜でした。
夜はもうすっかり深いのに、夕方に降り始めた雨は収まるどころか、さらに強く降り続き、古びた丸太造りの壁越しには激しく打ちつけられる雨と吹きすさぶ風の音が聞こえました。小さな窓は堪らずガタガタ震えています。ランプのささやかな灯りに照らされたカウンターの中、外の荒々しさを耳の奥でぼんやり聴いていた宿屋は夜のようなため息をつきました。小さな町の片隅にある宿は特別賑わうこともありませんでしたが、特別寂しくなることもなく、細く長く営まれていました。とはいえ、冬に差し掛かる今は、お客が一番少ない時期でした。けれど、宿屋のため息は、ひまな仕事のせいではありませんでした。どんよりとした気持ちでもう一つ重いため息をつこうとしたその時、急に扉が叩かれました。
ドンドンドン!ドンドンドン!
あまりに強く叩くので、宿屋は扉が壊れてしまうのではないかと思いました。
「はいはい。今すぐお開けしますよ」
宿屋はあわてて椅子に沈み込んでいた体を起こし、扉に向かって言いました。宿屋が扉の鍵を開けると同時に大きく扉が開き、全身ずぶ濡れの男が飛び込んできました。
「ああ、ありがとう!ああ、助かった!なんという幸運! わたしはなんてついているのだろう」
男は髪も服も雨と風でもみくちゃでしたが、声は澄んだ空のように弾み、顔は太陽のように輝いていました。宿屋は一瞬、朝日がやってきたのかと思いました。
「やあ、主人。こんな夜更けに訪ねてしまって申し訳ない。今夜一晩泊めてはもらえないだろうか」
朗らかに問いかけられ、宿屋ははっとして頷きました。
「あ、ええ。はい。もちろんございますよ」
宿屋はにこやかに答えてから、棚を開けて乾いたタオルを探しました。
「ああ良かった。本当はもっと先に進むはずだったのですが、この天候で予定が狂ってしまいました」
濡れた外套を脱いだ男は笑いながら、宿屋に差し出されたタオルで頭を拭きました。
「それは災難でしたね。この季節にこれほど荒れることは滅多にないのですが」
宿屋は気の毒そうに言いましたが、旅人の笑顔は残念がるどころか、この状況を心から楽しんでいるように見えました。
「これも旅ならではの醍醐味です。何が起こるか分からないからこそ、旅は面白い」
「そんなものでしょうか。何はともあれ、身体が冷え切ってしまったのではないですか。食堂の暖炉がまだ幾分か温かいはずです。よければ、夜食も幾らかご用意いたしますが」
宿屋の提案に、旅人はぱっと顔を輝かせました。
「ああ!それはありがたい。実はおなかがぺこぺこなのです」
「残り物で申し訳ないのですが」
「こんな深夜に食事をいただけること以上の幸せはありませんよ。どうやら、私はとてもよい宿に行き着いたようだ」
あけすけな男の誉め言葉に、宿屋はとても気恥ずかしくなりました。そわそわと落ち着かない気分で首を横に振りました。
「そんな滅相もない。さ、直ぐにご用意しますから、その間にお部屋で着替えをされて下さい。わたしの服で申し訳ありませんが、濡れた服よりはましでしょう」
宿屋は早口でまくしたてると、急かすように旅人を部屋に案内しました。それから食堂の暖炉に火を入れ直し、厨房で夜食の支度を始めました。冷え切ったシチューを温めながら、宿屋の心はひどくざわついていました。嬉しいような悲しいような楽しいような苦しいような、胸の奥がポカポカしてチクチクして、ふわふわしてぎゅとするのです。こんな気持ちになったのは初めてでした。それでいて、ずっとあったような気もしました。この気持ちが旅人のせいなのははっきりしていましたが、どうしてなのかが分かりません。考えている間にシチューはほっこり温まり、具の少なさがいくらかましになりました。宿屋は用意していた皿にシチューをよそい、少し固くなったパンを添えて食堂に運びました。
「ああ、ありがとうございます」
小さく燃える暖炉の前には、着替えを済ませた男が寛いだように立っていました。改めて見ると、男は宿屋と変わりない年齢のようでした。けれど、快活な物言い、清々しい佇まいが男をずっと若々しく見せていました。
「すみません。お待たせしてしまったようで」
「いえ、私もやってきたばかりです」
男は相変わらず笑顔のまま、宿屋が用意した食事の前の席に着きました。
「本当にありがとうございます。こんな深夜にも関わらず、温かい食事までご用意くださって」
「いえいえ、そんな。たいしたおもてなしもできませんが。食器はそのままで構いませんので」
当たり障りのない笑みを浮かべ、宿屋はそのまま食堂を出ようとしました。
「主人」
男の声が、宿屋の背中を呼び止めました。
「図々しいお願いなのですが、もしよろしければ、少しお話をしませんか」
「ええ、それは……それでは、お言葉に甘えて」
宿屋は自分の言葉に驚きました。身体はこの場から早く立ち去ろうとしていたのに、口から出た言葉はまったくの逆でした。どうしてか、まだこの場にいてもいいような気がしたのです。今更断る勇気もなく、宿屋は観念して男の向かいの椅子に座りました。初めは他愛のない世間話を交わしていましたが、自然と男の話になりました。男は旅人でした。もうずっと長い間旅を続けていました。男の旅は好奇心と冒険心に溢れた旅でした。未体験の驚き、胸躍る楽しみ、震えるほど刺激的な挑戦、飛び上がりたくなるような達成感、満ち足りた幸福感。それは見渡す限りの自由な生き方でした。宿屋は身振りと手振り、身体全体で語る男の姿に目を細めました。
「貴方は本当に、旅を楽しんでいるのですね」
「ええ。ありがたいことです」
屈託なく感謝する旅人に、宿屋は複雑で不思議な気分になりました。尊敬と羨望、嫉妬と後悔、明るい気持ちとくすんだ気持ち、そして、どこか少しの懐かしさがあるのです。二人の間には、雨と音と沈黙が流れました。雨は相変わらず煩くて、風は激しくうねり、宿屋の心はざわざわと波立ってゆきました。
「……わたしも貴方のような人生を送れていたら」
ぽろりと宿屋の口から、後悔が零れ落ちました。
「よければ、あなたのお話をお伺いしてもいいですか」
旅人の言葉には同情も憐れみもありませんでした。旅人の声に宿屋は促されるように、宿屋はこれまでの身の上をするすると話しました。宿屋は宿屋の親の間に生まれました。宿屋の両親の前は宿屋の祖父母が営み、代々、宿を受け継ぎ営んでいました。誰に強制されることもなく、けれど、宿屋になるのは当たり前の成り行きでした。宿を継ぎ働き始めた宿屋の毎日は、慣れない仕事であっという間に過ぎてゆきました。ようやく慣れた頃には、幼なじみとの結婚、子育てで、あっという間に毎日が過ぎてゆきました。
「まだまだ落ち着かない日々ですが、毎日やることは変わらず、平凡な日々が過ぎてゆくだけです」
宿屋はため息を吐きました。自由に飛び回る旅人の人生に比べ、一度もこの地を離れたことがない自分の人生はなんてつまらない、見栄えの悪い人生なのだろうと思いました。
「わたしも貴方のように選べていたら、きっと今よりもっと……違う人生だったのかもしれません」
宿屋は力なく笑い、さりげなく旅人から目を背けました。
「けれど、わたしは特別でもない平凡な人間だから仕方ありません」
「私は特別ではありませんよ」
黙って聞いていた旅人は、ふいに言いました。 暖炉の火に照らされた旅人の顔は柔らかく、けれど、きっぱりとした面持ちでした。
「楽しいこと嬉しいことと同じくらい、大きな失敗もたくさんの間違いも犯しました。それでも幸せでいようと、ただ幸せになると決めて行動しただけなのです」
宿屋は顔を赤らめました。なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだろうと思いました。薪の爆ぜる音が妙に煩く聞こえ、耳から追い出そうとしました。すると、まだ宿屋ではなかった頃の自分が急に思い出されました。そこには旅人になり自由を謳歌したいと夢見、希望を抱く青年がいました。けれど、旅人になれるだけの強い衝動も、自由になるほどの熱い情熱も青年の中には足りませんでした。羽ばたくことを願いながら、飛び出すことを恐れ受け取るだけの道を選んだのは、誰でもない自分でした。
(ああそうか。わたしには嫉妬する資格さえなかった)
自らの過去に、宿屋は胸が締め付けられました。
「人生の選択肢は無限にあり、どんな理由も未来を引き留めることはできません」
投げかけられた旅人の言葉は、まったくその通りだと宿屋は思い
「そうして私は旅人を選んだのです。そして、あなたは宿屋を選んだ。どちらも、とても素晴らしい選択だったと思います」
「え?」
肩を落としていた宿屋は目を大きくして、大きな声を出しました。
「あなたの選んだ道を、私は心から尊敬します」
宿屋は何を言っているのだろうと思いました。まさかと思い、とんでもないと思いました。
「貴方は思い違いをしています。貴方はとにかく、わたしが宿屋を継いだのはそんな前向きなことではなく、ただわたしが弱くてふがいなくて意気地がなかっただけで……」
宿屋はしどろもどろに説明しながら、自分の言葉の威力に打ちのめされました。自分の未熟さとはこんなに残酷なのかと悲しくなりました。
「あなたこそ、思い込みをしてはいませんか?旅人を選ぶのは前向きで、宿屋を選ぶのは後ろ向きだと。宿屋は不幸で、旅人は幸せだと」
宿屋の言葉が力尽きると、旅人はするりと問いかけてきました。
「それは……」
「そう思うならば、今からでも旅に出ることだってできますよ」
「今さらそんなこと無理ですよ」
宿屋は、今まで積み上げてきたものを壊すことはできないと思いました。
「それは、今の中に大切なものがあるからではないですか。旅人になるよりももっと大切なものが」
宿屋の問いかけに、宿屋の言葉は止まりました。そうではありませんとはいえず、かと言って、そうですとも言えません。宿屋が後にも先にも行けなくなると、旅人はさらに問いかけました。
「そもそも、幸せとは、そんな了見の狭いものでしょうか?」
どきりと、宿屋の胸が大きく鳴りました。
「幸せとは何かに限定されるものではなく、もっと広く深く温かく、すべてを包み込むくらい、おおらかなものではないでしょうか」
真綿のように柔らかく優しい言葉は、太古からの理のように尊く重厚で、驚くほど鋭く的確に、宿屋の中心を射抜きました。
「大切なのは職業でも環境でもなく、幸せでいようとする想いではないでしょうか」
(ああ……)
宿屋は頭のてっぺんから足のつま先まで、全くその通りだと思いました。それでも、どうしても心から納得することもできませんでした。宿屋のどの過去を見返しても、そのような真実は見当たらなかったからです。味わったことのない真実はどれだけ真っ当で善良であっても絵空事のようで、それはまるでガラスケースに入った置物のようでした。見えているのに触れない、感じたいのにどんな感触なのかまるで分らないのです。
「貴方の言うことは、きっとその通りに違いありません……」
宿屋は歯がゆくて仕方ありませんでした。心の奥底から悔しそうな宿屋に、旅人は優しく微笑みました。
「大丈夫。今はまだ分からなくても。きっとあなたはこれからなのです」
その言葉にはどこにも証拠がないのに、不思議なことに、随分と説得力がありました。
「これから?これからとは?」
いつ?どうやって?宿屋は、はやる気持ちで尋ねました。けれど、旅人は問いには答えず、ふわりと窓の外を眺めました。
「ああ……。もう朝ですね」
宿屋は旅人を問いただしたい気持ちでいっぱいでした。それでもしぶしぶと旅人の視線をたどると、窓から美しい朝日が贈り物のように差し込んでいました。嵐だった夜は完全に明けていました。
「ずいぶんと長話をしてしまったようです」
旅人はもう何度見たか分からないほどの笑顔を宿屋に向けました。
「大丈夫。心配ありません」
ゆるぎない旅人の笑顔に、宿屋はそれ以上尋ねることができませんでした。
「ありがとう。あなたと話せてよかった」
やがて寝静まっていた宿泊客たちは目を覚まし、宿は静かに動き出しました。旅人は少し休むと言って部屋に戻り、宿屋はそのまま朝食の支度を始めました。あとから起きてきた妻は、宿屋がいつもより早く支度を始めていたことに少し驚きましたが、そのほかはいつも通りの朝でした。やってきた宿泊客に食事を出し、宿を後にする宿泊客を見送りながら、宿屋は先ほどまでの出来事を思い返しました。まるで夢のようなのに、一つ一つの出来事が鮮明に残っていました。
「そしてあなたは宿屋を選んだ」
ふと、旅人の言葉が頭の中で響きました。
「とても素晴らしい選択だったと思います」
もてなしを感謝されたことはありましたが、宿屋を素晴らしいと言われたのは初めてでした。まさかと思い、とんでもないと思いました。けれど今思い返すと、本当に少しだけでしたが誇らしい気持ちになったのです。この地ならではの四季を感じ自然の恵みを分かち合う毎日。旅人たちの疲れを癒し活力を得る場となり、感謝と笑顔をもらう毎日。大切な幼なじみだった妻と助け合い笑いあえる毎日。新しい命を授かった喜びに、更に賑わい笑いあえる毎日。宿屋は今までの日々を改めて振り返りました。苦しいことや辛いことは、この毎日があったから乗り越えられました。むしろ、この毎日の為にあったのかもしれません。宿屋ははっとして、辺りを見回しました。この毎日のどこがつまらないのだろう?宿屋のなにが平凡なのだろう?無味乾燥だった日々は一瞬にして色鮮やかに花開き、夢のように光り輝き、宿屋はあまりの眩しさにくらくらしました。
(なぜ、今まで分からなかったのだろう)
突然の喜びと戸惑いに宿屋は震えました。そして、これまでの人生の隅から隅まで思い出しました。宿屋になってからの時と、宿屋になった時と宿屋になるまえの時。
「……ああそうか」
宿屋は見つけた答えに目を見張りました。そこには、自分を責め続ける宿屋がいました。故郷を出なかった弱い自分、旅人になれなかった情けない自分、なりたいものになれなかった不甲斐ない自分。そんな自分が手にしているものはガラクタばかりで、価値があるとは到底思えなかったのです。後悔と自責の念が宿屋の視界を曇らせ、今あるものの本当の価値を見えなくしていたのです。
「なんだ……そうか。そうだったのか」
腑に落ちた途端、宿屋の肩がふわりとゆるみました。なんだかおかしくなって、くすくすと笑ってしまいました。旅人になりたかったのは幸せになりたかったからなのに、旅人という過去の願いが、いつの間にか、今の幸せの足かせになっていたのです。
「なんだかとても楽しそうですね」
不意に声をかけられ振り向くと、食事を食べ終わった宿泊客が席を立ったところでした。
「ああ。はい。ちょっと思いだしたことがありまして。昨晩はよく眠れましたか?」
笑顔の宿屋は、テーブルの上を片付けをしながら言いました。
「はい。昨晩はかなり荒れていたようでしたが、温かい部屋のおかげでよく眠れました。身体も休まり、良い旅が続けられそうです」
「それは良かった!こちらこそ、ありがとうございました!どうぞ、よい旅をしてください!」
自分でも驚くほど軽やかな声で宿泊客を見送っている宿屋がいました。身も心もすっかり解放された宿屋は何もかもが清々しく、後片付けさえ楽しく感じました。今ここにいるだけで幸せだと思いました。宿屋は食堂をすっかり片づけ、食器をぴかぴかに洗い上げ、今日という日の素晴らしさに感謝しました。けれど、本当は今までもずっと素晴らしい毎日だったのです。ようやく、そのことに宿屋は気づきました。なんて勿体ないことをしたのだろうと思いました。けれど、気づけなかった分も一緒に、これからの日々をたくさん楽しみ大いに感謝し、隅まで味わいたいと宿屋は思いました。
「ご主人」
声に振り向くと、昨晩の旅人がいました。すっかり身支度を整え、旅立ちの出で立ちで立っています。宿屋は満面の笑みで旅人を見ました。
「もう、行かれるのですか」
「はい。昨晩は、本当にお世話になりました」
旅人も微笑み返し、深々と頭を下げました。
「この宿に泊まった事は、私にとって一生の思い出になるでしょう」
宿屋は大きく首を振りました。
「いいえ。それはわたしの言葉です。わたしこそ、貴方にはとても大切なことを気づかせていただきました。今のわたしは宿屋であることがとても幸せになりました。幸せすぎて、いくらお礼を言っても足りない位です」
旅人を見ているだけで、宿屋の心は感謝が溢れて止まりませんでした。
「こんなことを言うわたしはおかしいと思われるかもしれませんが、貴方のおかげで、わたしの世界は一変したのです。ずっと変わらなかった景色と私の心は、一晩ですっかりきれいに変わってしまいました。あなたは一体、どんな魔法を使ったのですか」
きらきらと目を輝かせて宿屋が尋ねると、旅人は少しだけ驚いたような顔をして、でもすぐに、ふっと口元を柔らかく緩めました。
「きっとそれは、私がもう一人のあなたで、あなたがもう一人の私だからでしょう」
「え?それは一体どういうことですか」
宿屋は頭がこんがらがってしまいました。
「私のことをもう少しお話しましょうか」
そう言って語り出した旅人の話に、宿屋は本当に驚きました。旅人はかつて宿屋の息子で、歩んできた道は宿屋のそれと何から何まで全く同じだったのです。ただ一つ違っていたのは、旅人を選んだことでした。
「旅人を選んだ私の人生は本当に幸せで、後悔はひとつもありません。ですがもし、宿屋になっていたら私の人生はどうなっていたのだろうか。ずっとそう考えていました」
旅人は深く感じ入った様子で宿屋を眺めました。宿屋が旅人に憧れていた一方で、旅人もまた、宿屋に特別な想いを抱いていたのです。
「そうだったのですか……」
宿屋は、ひそかに感じていた旅人への懐かしい気持ちの理由が分かった気がしました。
「あなたは私の想いを形にしていた。そのことに私は感動し感謝していたのです」
旅人は宿屋の手を強く握りました。
「ありがとう。私のもう一つの人生をあなたが生きていてくれたと思うだけでなんだかとても嬉しかった。そして、貴方が夢見ていた人生を私が生きていたことが、なんだかとても誇らしかった」
宿屋も旅人の手を強く握り返しました。
「わたしも貴方に感謝を伝えたい。ありがとう。貴方のおかげでわたしはわたしの幸せに気づくことができました。そして、貴方が旅人であることは、まるでわたしが旅人であることのように幸せです」
旅人の想いと宿屋の想いがじんわり溶け合い、二人は微笑みあいました。
「私はこれからも幸せでいます。どうかあなたも幸せでいてください」
旅人の言葉に、宿屋は強く頷きました。
「ええ。わたしは幸せでいます。わたしの為に。貴方の為に。わたしと貴方の幸せはつながっているのですから」
旅人は満足そうに頷き「では」と、荷物を手に取り歩き出しました。
「どうか良い旅を!」
宿屋はありたっけの感謝を込めて、旅人の背中に言いました。
「ありがとう。あなたも素晴らしい一日を」
旅人は今までで一番幸せそうな笑顔で振り向いてから、朝日の中へ旅立ってゆきました。
「ああ、いい日だ」
宿に差し込む太陽の光を浴びながら、宿屋はしみじみと言いました。今日はとても幸せな素晴らしい日になると思いました。明日も、明後日も、そのあともずっとずっと―――。