今、これから(と過去の話)
中学生
14年前の夏。
私は泣かずに生まれたらしい。
先生が生まれたばかりの私のお尻を何度も叩いて無理やり産声を上げさせたことを、母や祖母から何度も聞かされた。
太陽のように明るい子になるように。
そんな願いを押し付けられた名前とは裏腹に、私はひとり、毛布の中に包まって太陽の訪れを恨んでいた。
胃がキリキリと締め付けられるように痛み、吐き気もある。
朝はいつもこうだ。
学校へ休みの連絡をする母の声が聞きたくなくて、布団から手だけを出して枕元にあるイヤホンを手繰り寄せた。
コードに引きずられるようにしてついて来たウォークマンは、数年前のクリスマスに貰ったもの。私のサンタクロースはもともと音楽が好きだったので、喜んで買い与えてくれた。
窓際に置いていたからかひんやりとしているウォークマンを試しに頬に当ててみると、そこから体の熱が吸収されていくようで気持ちが良かった。
いくら冬とはいえ毛布の中にすっぽり埋まっているままでは、だんだんと熱くなってくる。
ド派手なピンク色のこの機械を何度か操作して、最近買ったばかりのド派手な色のアルバムを選んだ。
イヤホンをつけ、音量を上げた。
少し前に知ったこのバンドは、今年メジャーデビューしたばかりらしい。
中学生の私には、ムカつくバイト先の人もいなければ、ずっと一緒にいようねと約束をした恋人だっていない。直接共感できる歌詞ばかりではないけれど、何かに怒っていたり、何かを後悔したりするこの人たちの音楽は、漠然とどこか信頼できる気がしていた。
近所のTSUTAYAに、インディーズの頃のアルバムもあるかな。
今度探しに行こうかな。
そんなことを考えていると、すこし気が楽になってくる。
そこへ、学校との電話を終えた母がやってきた。
「またお腹痛いの?病院連れて行こうか」
片方だけイヤホンを外し布団の隙間から顔を出す。鼻先が朝の冷たい空気に触れ思わずくしゃみが出そうになった。
その様子が、腹痛に辛そうな表情に見えたのか心配そうにこちらを伺う母の顔を見て、ちくり、とまた胃が痛む。
「別にいい。前もらった薬飲んで寝てる。」
病院に行ったところで、目には見えない"ストレス"とかいうよく分からないもののせいにされるだけだ。採血だって嫌いだし。
その間も私の中にだけ音楽は聞こえ続けていて、
左耳から聞こえる声が、
と何度も話しかけてくる。
胃が痛いから学校に行かないし、学校に行かないから胃が痛い。
明日には治る、明日には行ける。明日には・・・。
そんなふうに思っていても、明日が来るだけでは何も変わらないのはよく分かってる。朝が来るたびにこうやって同じことを考えていて、期待して変われなくての繰り返しにももう飽きてきた。
そんな私をみて、母はいつものように、少し困った顔をしながら優しく言うのだ。
「無理しないでね、あったかくしてね。」
目の横のしわをくしゃっと細くするその顔は、母の作り笑いだということは知っていた。本当は私のことで悩んでいて、本棚の一番奥の見えないところに"こころのびょうき”の本が置いてあることだって知っている。
もう放っておいてくれたらいいのに。
なんで私なんかに優しくしてくれるんだろう。
それは私が母の娘で、母が私の母であること以外に理由はないのだけれど、大好きな母が苦しんでいるのに、毛布の中に隠れているだけの自分が情けなくて泣きそうになる。
生まれた時こそ泣かなかったのに、生まれてきてからはずっと泣いている気がしてしまう。
少し話をしたあと、仕事へ行く母の背中を見送ってから、右耳のイヤホンをつけ直した。
アルバムはもう終盤で、私のいちばん好きな雨の歌が流れていた。
今の私にとって大事なものがなんなのか、そもそも大事なものがあるのかだって分からない。
雨に濡れただけで心の中が見透かされてしまうような気がするなんて、少し大げさだし。
それでもこの曲を聴くとなんだか安心できる。
大人だって泣くのだ。
じゃあ、子供の私がこんなにも泣いてしまうのなんて当たり前かと思って、声を出さずに泣いているうちに、また、眠りについていた。
高校生
どんなにいいことがあっても、その中にある悪いことばかりが目についてしまうのは何故だろう。
面白い映画を見ても、前の座席の人が携帯ばかり触っていたことを覚えているし、最高のライブだったのに、隣の席の人が合唱していたことばかりを覚えている。
家から近い高校か遠い高校か。私を知る人が誰もいない場所へ行きたくて、同じ中学の人がいない遠くの高校を選んだ。
こんなことなら、家から10分で着く高校を選ぶんだった。
あそこなら、小学校からの幼馴染で、話の合う友達だっていたわけだし。
片道50分の自転車通学に慣れることは一生ない気がする。
自分を変えたいから、といって選んだ高校でデビューに失敗して、もうすぐ3年。
ずっと後悔したまま。
ずっと失敗したままだ。
なんとか大学の推薦枠に入れたけれど、自称進学校の担任にはこう言われた。
「他の子は普通に受験して大学へ入るのだから、推薦受験だなんて誰にも言わないでね。みんなのやる気が下がるでしょ。」
普通の受験って何?私は大学に裏口入学でもするのか?
私1人の存在でやる気が下がるくらいなら、そもそも大学受験なんて向いてない気がするけど。
そんなことはもちろん言えず、推薦入学が罪人のように扱われ肩身が狭いまま、担任のいう通り誰にも話さずただ勉強したふりだけをしていた。
そんなことは絶対ないと思っていたけれど、万が一にもその普通"ではない"合格で友達の受験がうまくいかなくなってしまうことが怖かったから。
勉強すること、と、勉強するふりをすること、ではやっぱり違うようで、当然のようにみるみる成績も落ちていった。
いっそのこと受験生のモノマネなんてやめてしまえばいいのにとも思うけれど、そんな勇気もない私がそれっぽく"ふり"をするのに選んだ場所は図書室。学校の一番隅っこにあって、カビとホコリを感じる、少し湿った空気のこの空間が好きで、陽の当たる窓際の席がほとんど私の居場所だった。
参考書とノートを並べて、イヤホンをつける。
ずっと使っているウォークマンは、背面に貼ったキャラクターのシールが剥がれかけていて、触るとペタペタする。それがまた余計に古く感じてしまって、早く新しいものに変えたいと思っていた。Bluetooth機能もないような型落ちしたウォークマンの、所々色がハゲているボタンを操作して、緑の蛍光色の、最近入れたばかりのアルバムを選んだ。
分厚い参考書の付箋が貼ってあるページを開いてみたけれど、再生ボタンを押しただけで、頭の中はこの間のライブのことでいっぱいになってしまった。
彼らが地元のライブハウスにきた。
まるで夢のような瞬間だった。
でも、同時に、こわかった。
こんな何もないところで、縁もゆかりもないところでライブをやって、楽しいのだろうか。来てもらって言うのもなんだけど、こんな田舎に来るくらいならもっと栄えた街でやるほうが儲かるんじゃないか。とはいえ、この会場はイマイチ盛り上がらなかったからと、もう来ることはないというのも寂しい気がしてしまう。ライブが楽しみなのか、不安なのか。来て欲しいのか、欲しくないのか。もはやよく分からない。
ライブ中はそんなことをぐるぐる考えてしまったけれど、それでもやっぱり幸せだったし、終わってからいつまで経ってもフワフワした気持ちになっている自分が少し恥ずかしくもある。
彼らを好きな人間はこの町に自分しかいないんじゃないかと思っていたけれど、全くそんなことはなくて、ぎゅうぎゅうに詰められたライブハウスには好きな人を好きな人が集まっていて、当たり前のことなのにそれがなんだか不思議だった。
ちょうど流れた一曲目はそんな歌詞だった。
しばらく参考書を眺めていると、ふと、この間のライブでやらなかった曲が流れた。
思わず、他の会場では演奏していたのになと考えてしまった。なんで私が行った時にはやらなかったんだろう。聴きたかったなあ。
どんなに幸せでも、その中にある僅かな後悔を見つけ、そればかりを反芻してしまうのは悪いところなのは分かっている。
見えないふりをすれば良いのに、片隅に落ちたゴミや汚れが気になって仕方がなくなる。
楽しく過ごせた瞬間もあった高校生活だけれど、違う高校へ行った幼馴染がもっとずっと楽しそうで、あの時他の道を選んでいたらと、他人と比べてはわざわざ不幸せになる思考へと向かっていってしまう。
私はずっと変われないまま、私をずっと嫌いなままだ。
勉強したふりをしながら、過去のことを未練たらたらに考えながら、将来のことに不安を感じながら、グラウンドで走り込みをする陸上部を眺めながらと、いろんなことを同時に進められる器用な脳は、耳から聴こえている音楽をことごとく聴き流していたようで、気がつくとアルバムは終わっていた。
そして次に流れた曲は、苦労して手に入れたミニアルバムの一曲目。
ぼーっとしていたともいえる頭に飛び込んできた音で目が覚める。
なんだか今日のウォークマンは、やけに私に寄り添ってくれる気がする。
私が嫌いな私は、きっとこれからも嫌いなままなんだろうな。
たまに良いことがあって、でもやっぱり嫌いなことも増えていって、そうやってこれからも生きていかないといけないのか。
それってすごく面倒くさい気がする。
ただ、こんなにも情けない私だけれど、どんなことがあってもこの古びたウォークマンとこの音楽だけは、ずっと私の近くにいてくれたと気づいてしまった。
古くなったなんていってごめんね。
思わずそう言いたくなってしまって、無機質な四角い機械をそっと撫でた。日が当たる場所に置いていたから少し温かくて、やっぱりペタペタした。
(契約)社員
以前に少しだけ一緒に過ごした、最悪な男を夢に見てしまって、急いで目を覚ました。
ひどく汗をかいていた。
これは良い夢だからもっと寝ていようだとか、最悪な夢だから早く起きようとか、寝ているはずなのに意識できることが不思議で面白い。
けれど、今日は後者で、面白いなんて思う暇もなく一刻も早く現実に戻りたくて、瞼を無理やり開けた。
なにもかも、電車で隣に座った他人の香水が、たまたまその男と同じものだったせいだ。
そういえば、こんな歌詞の曲あったっけな。
あんなに好きだったのに、最近はライブに行ってないなあ。
そもそもこの状況では行く行かないの話ではなく、やれないという方が正しいか。
寝ぼけた頭が、次から次へといろんなことを考えだす。
そっと隣に目を向けると、規則正しく動く布団の山が1つ。
そのリズムになんだか安心して笑えてきた。
よかった、ちゃんと隣にいる。
枕元に置いてあった時計を見ると、夜中の3時を指していた。
彼は、私の過去をあまり知らない。知らないというか、知ってほしくないことを言っていない。
だから、たまにひどい夢を見て眠れなくなることも知らないままだ。
もしかしたら嘘の匂いは残っていて、とっくにバレているのかもしれないけれど。
今の彼と知り合った頃に付き合っていたその男は、何もかもが合わなかった。
好きな本も、趣味も、食べ方も、喋り方も。
なんでそんなやつといたのかと言われると、自分でもよく分からないし、じゃあ今の彼ともよくわからないまま一緒にいるのかと言われてしまってもうまく答えられる気がしなくて、申し訳なくなる。
とにかく、そんな思い出したくもないやつほど何故かずっと私の中に居座り続けるのだ。
だんだん腹立たしくなってきて、こうなるとすぐに眠ることはできないし、汗がべたべたして気持ちが悪いからと、シャワーを浴びることにした。
愛おしい寝息を止めてしまうことがないようにそっと布団から這い出し、風呂場へ向かう。
シャワーがお湯になるまでの少しの間、私はいつも鏡の中の私と見つめあう。
なぜだか分からないけれど、小さい頃から、風呂場の鏡で自分の裸をみると無性に虚しくなってしまう。私が思っているより私は可愛くないし、お尻に肉だってついているし、それが裸で見てくるんだからもっと惨めだ。
最近はもっぱらマスクばかりをつけているので肌も荒れやすくなっていた。顎のあたりにできたニキビは何度も潰したせいで痕になっている。
楽しいことがなくなってしまった、わけでもないけれど、マスク越しで吸う空気や画面の向こうの出来事、イヤホンを通じて聴く音、私の経験その全てがフィルターを通している気がする。
だから余計に、過去に経験したことやその時の気持ちが繰り返し頭の中を流れてしまう。おかげで、良い夢や悪い夢をよりリアルに見てしまうんだと思う。
例えば、
もうライブに行けないのかな。この間、ツアーの中止も発表されたし。
そう考えた日はライブに行く夢を見てしまうのだ。
これが本当の、夢にまで見た、じゃないか。
今日だって寝る前にうっかり、
同じ香水だったな
と考えてしまったせいで悪夢を見たのだ。
これは別に、夢にまで見なくていいのに。
中学生の時に私の体と心を苦しめていた"ストレス”とは違う、目に見えない何かが少しずつ、確実に溜まっていっているのは分かっていた。
だからこんなに夢をたくさん見てしまうんだと思う。
惨めさや悔しさ、忘れたいこと、よく分からないこの気持ち。
全部まとめて洗い流してしまいたくて、いつもよりも熱いシャワーを頭からかけた。
今、これから
今ここに1人でいる。
千葉県のこの会場は、あの合わない元カレとカウントダウンのイベントで来たことがあった。
1番小さなステージで見たよく知らないあのバンドは、今何をしているのだろうか。
1曲も知らなくて、隣の人に合わせて見よう見まねで手を挙げてみたりもしたけれど、それがまた空しくて、取り残されたような気持ちになったことを覚えている。
薬指の指輪が電車の窓から差し込んだ夕日に照らされて申し訳なさそうに光る。元カレとの思い出に浸りやがって、と言われているような気がした。
ごめんね。
買うつもりのなかったグッズまで入った袋を片手に会場へ向かう。
受付を済ませ、ごった返す人混みのなかから座席をなんとか見つけ出して、本当に合っているかどうか何度も確かめてから座った。
大きな会場で、自分の座席が決められているのは安心する。
AとかBとか、ブロックだけ割り振られてあとは好きなところへどうぞ。
順番だけ決めといてあげるからあとは好きな場所でどうぞ。
という3年前の当たり前よりも、「あなたの席はここだからね」と教えてくれる方が親切だし、なによりここに居ていいんだと思えるから。
と思っていたら、前の座席の女の人が後から来た別の女の人と少し話して席を代わった。どうやら間違えていたみたいだった。
その恥ずかしさが痛いほど伝わってきて、もう一度自分の座席を確かめた。
大丈夫。
私はここにいて良いのだ。
うっすら流れていたBGMがどんどん大きな音になり、それが止んで照明が暗くなる。
何度経験しても、この瞬間には心臓が飛び出てしまいそうになる。
そして、そこからあとは一瞬で終わってしまうことも分かっている。
永遠に続かないからこそ価値があるのだけれど、ライブに行く度に、この一瞬が、永遠に続いて欲しいと思ってしまう。
14歳で出会ったころの曲から、最近出たばかりの曲まで。
何にでもなれると思っていたあの頃、
何者でもないと知ったあの頃。
世界で1番幸せだと思っていたあの頃、
世界で1番不幸せだと思ったあの頃。
親にも友達にも彼にも言えないこと、
私とクリープハイプだけが知っていること。
最後の曲を聴いた後、また次に会う約束をしてライブは終わった。
帰りの電車で、溜まった仕事のメールに返信をする。
また明日から始まってしまう日常を憂鬱に思う。
カバンからイヤホンを取り出して耳につけた。
さらに古くなったウォークマン。
強めに押さないと反応しなくなってしまった再生ボタンを押して、聴きかけのアルバムから流れて来たのは、今日のライブで演奏しなかった曲。
いつものように〝やらなかった“ほうを気にしてしまって、少し落ち込んだ。
電車が揺れて、隣に立つサラリーマンと肩がぶつかる。
その勢いで外れてしまった左耳のイヤホンをもう一度付け直した。
そういえば、後ろの座席の人ずっと喋ってたよな。あのグッズ買いたかったな。
小さな後悔がじわじわと押し寄せてくる。
でも、今日はなんだか全部どうでもよかった。
許せてしまう気がした。
私の普通はこれなんだと思えたから。
いつも通り普通の生活をして、嫌なことがあって普通に落ち込んで、楽しいことがあって普通に元気になる。
これが普通に幸せってことなんだろう。
出会ってからずっと、普通に近くにいた音楽。
変わった私もいればあれば変わらない私もいて、それが普通なんだ。
だから私は、次の約束まで、これからも普通に生きてゆく。