泉鏡花『外科室』論


 


 『外科室』に登場する伯爵夫人は、鏡花のイデーを体現した人物=鏡花の頭のなかにある理想像を形象化した人物であるが故にリアリティは希薄である。
 麻酔無しの手術を夫人が求めそれに応じる医師高峰の描写には、常識を超越したところで発露した鏡花流の愛の形が垣間見られるが、斯様な愛の流露には、前述した様に鏡花が理想とするような観念性が布置されているだろう。手術現場という非日常的空間に於いて生まれる至高な愛は鏡花にとって至高の美であったのだろうか。この美は滅び行く者が絶命する瞬間に放つ凄絶で悲愴な美しさであり、さながら恍惚とした殉教者の陶酔美である。
 ところで、三島由起夫は鏡花作品の女性像について「女性は保護者と破壊者の両面をつねに現はし、この二面がもっとも自然に融合するのはカーリ神のごとき女神でなければ日本的妖怪に於いてである」と述べるが、この「破壊者」的女性は、自己犠牲的女性像をも包含しているであろう。
 三島は死に逝く人間の美を描破した。そして高峰に対する懸想を秘匿しながら、愛する者の刀(メス)によって己の体躯を掻切られ絶息するに至った夫人からは、三島的な滅びの美学との紐帯を感取することができる。そして、これこそ正に至純なる愛の美そのものである。
 鏡花が渇望する理想の女性像とは滅びを内在させた儚き女性である。しかし、その脆さは一方で永遠でもある。『夜叉ヶ池』では、竜神の化身として具現化された白雪姫は、かつて村に住み村民のために人身御供となった末、夜叉ヶ池に身を沈めるという非業の運命を遂げていた。このように、献身ゆえの愛から死を選ぶ女性が永遠の環に回帰していく構図が鏡花作品には存在する。
 『外科室』は悲劇譚の様相を示すが、かかる初期作品の内には既に鏡花の理想的女性像が胚胎している。畢竟するに、その性質は日常から離れた破綻的空間に於いて発現する愛という名の美である。

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