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『僕のさいしょの恋愛詩の対象が、いま、夜の東京にいると思う』
僕のさいしょの恋愛詩の対象が、いま、夜の東京にいると思う
ベテランちの画像ツイートで何気なく眺めたとき。そして今、何気なく眺めたときに確かな速さで購入を決めた歌集『4』をようやく捲り、ふとまたこの言葉が現れたとき。憂鬱な朝の自転車を漕ぎながらこの言葉を頭で繰り返し唱えるとき。やりきれなかった1日の終わりに枕元でこの青い本を取り留めもなく眺めるであろうとき。
自分のからだがこの言葉から受け取る感覚のやわらかさ、果てしなさ、やるせなさ、あたたかさ。いつだって等質だ。自分はこの言葉をいつだって、初めて触れるときの高揚と、何度もみたもので心を落ち着かせるような懐かしさと一緒になぞっている。
その均質さが、「東京」というある種の無個性で、均一化されていて、小さいのにあまりに大きい都市と感触と心地よく自分の中に残る。
わたしも、会ったことないけれど切実に会いたいと思うような誰かが確かにどこかにはいることを、ずっと思っている。そうか、その人は夜の東京にいるんだね。すごく腑に落ちるよ。そうか、夜の東京だよな… いつか繰り出しましょうか
「恋愛詩の対象」という表現。シンプルなようで、意識が朦朧としそうなほどうつくしい響き。かくかくしているその字面や音が、やっぱり「夜の東京」の中にいると思えば、手放しにうつくしいと捉えてしまう。ああ、それでいて妙に収まりがよくて、やっぱり唱えてしまうな。何故かわからないけれど、憂鬱な朝に。
よく考えたら青松さんの述べた「恋愛詩の対象」は多分青松さんの中では実在している(ことを実際に確かめている)人のことで、自分のような救いのない空想のこととはまた別の意味があるんだろうな。だとしたら、それも握りしめていたい。この歌を唱えるときに特定の誰かの顔が頭に浮かぶその景色があまりにうつくしいから。
自分の今までの恋愛は、対象と言う言葉を使うには印象が薄いような生半可な感覚だったし、どちらかといえば今自分の自信のなさと恋愛を混同するような苦しい感じの日々だけど、いやだからこそ、この歌のうつくしさに全自分がよりかかって眺めて唱えて唱えて唱えたい。