自分の声を聴くところから
こんにちは、りょーさんです。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
年始早々に大きな地震と、それが元となるような痛ましい事故がありました。
痛ましいことがあると、もやもや考えてしまいます。
何かできることはあるのか、いや無力だな、ああでもなー、、、なんてことを逡巡する。そんな方々がたくさんいるのではないかと思います。
まずは日々当たり前のことを当たり前に過ごすのも大事かもしれません。そして「忘れないでいる」ってことも。もちろん無力を噛み締めつつです。
子どもたちが不安がっていたら声を聞いて支えようとしする視点も必要だし、自分たち自身が心を穏やかにする視点も大事です。
広い視点で世界を見ると
ただ現実を見て据えていくことも大事。
世界を見渡すと、悲惨な戦争や紛争があり、それがよりよくなっているようには見えず悪化している感じがします。世界大戦の足音すらするという人もいます。確かに、そのようなリスクを孕んでいると思います。
さまざまな選挙の結果が示す「民主主義的な社会の良さを脅やかす」ようなイベントも多々あります。
国内的にも災害があり、子どもたちをめぐるネガティブな出来事とニュースもたくさんあります。
悪い意味での昭和的な慣習が残存していて、それがいわゆるマイノリティと呼ばれる人たちを苦しめています。
これらをざっくり言い換えると「自律」「参画」「権利」「尊厳」「多様性」という近代から現代にかけて生み出されたはずの理念は、今なお未成熟で脅かされているってことです。
僕から見た社会や世界は、さまざまなことにおいて安定せず、民主主義という視点でみても資本主義という観点でみても環境問題から眺めてみても、大きな枠組みとしては持続性もなければ、持続するための代替案も持っていません。
かといって一人ひとりの力やミクロな素敵な取り組みは依然小さいままで、力を持ちきれていません。
そのように考えると暗澹とした気持ちにもなりますが、楽観的な視点も大事です。僕たちにできることをするしかない。
今ある現場を守り押し進めるしかないって思います。その範囲は小さいですがでも必要なことです。
「微力だけど無力じゃない」を信じて、やれることを丁寧に取り組んでいく。
もっとポジティブに語ると、それでもなお自分の人生を楽しむってこと大事では?自己犠牲を前提としないで誰かを支えるって営みは大事では?小さな半径でいいからそれを守ろう!ってことです。
その側面で言うと、自分は「やるぞ」って気持ちしかないです。
「風の谷」戦略
『風の谷のナウシカ』というマンガがあります。
どれだけこの世界が絶望的でも、奪い合いの世界だとしても、ナウシカが育った「風の谷」の人々は、善良で、世の中の大きな破滅の流れに棹さすことなく、大事なものを守り続けます。
僕たちができることは小さい「風の谷」を守り育むことです。
いずれ「風の谷」がボコボコとタケノコのように生まれるかもしれない。
(社会学者の宮台真司が「風の谷戦略」って言っていました)
気づいている人はいます。「このままじゃ持たないよな」ってこと。
(例えばそれを『ポスト資本主義』という言葉で表現する人もいます)
まずは自分の声を聴くところから
教育や社会が子育てするといいう観点からすると、このような「風の谷」はたくさんあります。
そこに願いと祈りを込めて、繋がっていくってこと。あるいは自分の現場を育むってことが必要なのではないかと思います。
そして、それらの「風の谷」はきっと、「子どもたちの声を聴く」ってことをしているはず。そのために「自分自身の声を聴く」ってことから始めているはず。
「自分の声を聴く」って大事なんだよな。
自分の中にある、モゾモゾする感情・感覚。
嬉しい悲しい、楽しいつまらない、元気疲れた、ワクワクしょぼん、せかせかホワっと、すっきりモヤモヤ。
それらに耳を澄ませる。感じたことを丁寧に認めてあげる。「確かにそう感じたんだ」って一旦胸を張る。
余裕があば、他者の声にも耳を傾ける。
それを「聴き合う」ことができれば、僕たちはおそらく原理的に子どもたちの声も聴けます。
子どもたちの声がもっともっと聴かれるならば、「しんどい子どもたち」はもっと減っていくはずです。貧困だってヤングケアラーだって、もっと政策に反映されるはずです。諦めずに済む子どもたちが増えていくはずです。
そのためには、自分の声を聴く、そこから誰かの声に耳を傾ける。そこから始める。
風の谷戦略が有効であるとしたら、そういう取り組みが地道に続けられるってことなのかな、って思うのエス。
最後まで読んでいただきありがとうございました。