レディネスについて
こんにちは!りょーさんです。
子育てや教育に携わっていると、それぞれが固有の経験をします。
また自分が育っていくなかで固有の経験をし、固有の価値観を育てています。
私たちはそこから「教育観」を持つことになります。
「これが正しい教育のあり方だ」「子育てはこうあるべきだ」というものですね。
そして子どもたちにもそれを当てはめて考える。
これは正しいのでしょうか。
…いや、正しいんです。というか価値観の伴わない子育てなんてないんです。
でも、この正しさ、なかなか厄介なのです
なぜか?
これらは状況や目的に照らしてみると、正しかったり間違っていたりしているから。そして間違うときはたいてい、大事な視点を見失っている。
今日は、そんなお話を書いてみたいと思っています。
経験から生まれる教育観とは?
自分の経験に照らした教育観、例えばこんな感じです。
「自分は部活やってそれで根性がついたから、あの子にもやりきってほしい(やり切ることで根性がつく、根性は大事だという価値観)」
「自分は塾に行って成績があがったから、今あの子は塾に行くべきだ(周りが努力の機会を作れば成果が出るっていう価値観)」
「自分は一人でコツコツ頑張って成果を出してきたから、子どもたちもコツコツ取り組ませることが大事だ(地道さが成果を出すっていう価値観)」
「自分は辛くても学校行っていたから、あの子も辛抱して学校に行くべきだ(つらさと向き合えば誰もが乗り越えられるという価値観)」
濃淡はあれど多くの人たちが自分の経験から、こういった価値観を持つ。
まあ、、、どれも正しいです。その人にとっては。
今まさにそこに生きている子どもは「私」ではない
でも目の前にいる、今まさに何かに直面している子ども一人ひとりひとり、、、その子自身にとっては正しいとは限らない。
今まさにそこに生きている子どもは「私」ではないのです。
確かに、ある子にとっては、それがきっかけになることもある。
ある子にとっては大人による抑圧に感じることもある。この抑圧によって、子どもたちは傷つき、心を閉ざし、動機を失っていくことだってあります。
なぜそのような一見正しい関与が大人による「抑圧」になってしまうのでしょうか?
レディネスという視点
「レディネス」という概念を引っ張り出してみます。
レディネス(準備性)っていうのは学習(何かを身につけること)に対しての心身や状況、経験値、環境などの前提が整っているか?ということです。
すべてのチャレンジや学びに対して「レディネス(準備性)」が整っているかどうか?はとても大事なことです。
僕たちは、ハイハイをする赤ちゃんに階段を上る練習はさせません。生後2ヶ月の赤ちゃんにも箸を持たせる練習もさせないでしょう。
これについて「なぜか?」を考えるのは、それほど難しいことではないはずです。
おそらく「まだ早い」って直感的にわかるはずです。レディネスが整っていないのです。
そして、さまざまな段階をすっ飛ばして、箸を持つことを可能な限り早めるってことは不可能です。
脳と体の発達を待ちながら、段階的に手先の使い方を経験的に学んでいくことで、ようやく箸が持てるようになる。
そしてその成果が得られるのはいつなのか?その時期は一人ひとり違う。
おそらくレディネスが整っていないうちに「できるようにさせよう」というアプローチは、その行為自体を嫌いさせてしまうでしょう。
その大前提は「意思」
子どもが今、塾に通うべきかどうか?習い事を始めるべきかどうか?部活を続けるべきかどうか?を考えるときは、なぜか、このレディネスについての視点を見逃してしまい、大人の価値観を前面に出してしまう。
もちろん、なんでもかんでも「まだ早い」ってやってしまうと、子どもがチャレンジする機会を失ってしまうこともあるから、難しいのですが。
ここで大事なのは、子ども自身の意思です。本当の気持ちです。子どもが「したい」「できる」という感覚を持てているか、それがレディネスの必要条件かと思います。
意思を蔑ろにした「正しさ」はただの「押し付け」なのです。
いやはや、書いていていろいろ反省点が思い浮かんだぞ、、、笑
最後まで読んでいただいてありがとうございました。