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子どもを見守る
こんにちは、りょーさんです。
前回、子どもをコントロールしてもあまりいいことないから見守りましょう。でも見守るって難しいよね、どういうことだろう?ってお話をしました。見守るをもうちょっと考えてみたいと思います。
自由を手に入れると人は混乱する?
見守るってなんだろう?
「放置する」とか、「丸投げ」とかと何が違うんだろう?
おそらく多くの人は、完全なフリーハンドを手にすると混乱します。
自由な文化を持つ組織は、おそらくですが、一定の規模を超えると混乱が始まります。足を引っ張り合いだすのではないでしょうか。
30人から40人規模の学級も自由だけを与えると、おそらく学級崩壊になるのではないかと思います。
それぞれがそれぞれの価値観と欲望のままに主張し合えば、ぶつかり合い、混乱し、グジャグジャになります。
だから統治する必要があります。強い力をもって秩序を生み出すのが手っ取り早いです。権力関係を生み出し従属させる。
「指導力のある先生」「力強いリーダーシップ」なんていうときは、そんな「力」のことを指している場合があるし、それをイメージして賞賛する人もいるでしょう。僕自身はそれを手放しで賞賛したくはありません。
さて、人類の歴史を見ると、そんな権力関係はいずれ破壊されます。
強い権力関係には必ず綻びが生じます。従属する関係をよしとしない人(人々)が出て、取って代わろうとする営みが生まれます。歴史を見るとそんな営みばかりです。
時間軸を長めに取ると、人は従属し続けることをよしとしないのだと思います。どうしても「自由」を求めちゃうのです。
…話が大きくなりすぎました。
「放置」と「監視」と「見守る」
上記のような権力関係が大人と子どものなかで生じ、力の強いものによってコントロールがあるとします。
子どもたちは自我が強まり、ものごとを客観的に見るようになった頃に、それをよしとしない、反発をしていきます。
あからさまな反発をする場合もあるけども(それを反抗期と呼ぶのかもしれません)、静かな反発もあります。勉強したふりをするし、言われた時だけそれをして心の中では「あっかんべー」をします。
ここで大人は「コントロール手放す」とことが必要になります。
でも自由を与えると無秩序が生まれるかもしれません。大人から見た「好き勝手」が生まれるかもしれない。
大人が「きっとできないだろうな!」って思って、非難の眼差しを向ければそれは「監視」です。
無関心でいるならば、それは「放置」です。
「見守る」はおそらくそのどちらでもない、のです。
レールか枠か?
比喩的な書き方をすると、コントロールは「レールを用意する」に近いかなーと思います。大人が子どもが歩むレールを決めて、そこに乗れるような関与をすることです。レールから外れることは許されません。それは「脱落」です。
それに対して「見守る」は「枠を用意して、その枠内にいる限り見守る」ってことです。フチを設定するとか、そう言う感じです。その枠の中にいる限り自由である、枠の中のルール設定についても一定の自由がある、自分で決める。
そんな感じです。そしてその枠についても合意が必要です。
サッカーに喩えると
これをサッカーに喩えてみます。
サッカーはルールがあります。手が使えず足をつかうことが基本です。とても不自由ですよね。でもサッカーやっている選手たちはそのルールに不自由を感じることはないはずです。
サッカーをやっているときにそのルールが思い出されるのって、反則の笛が吹かれた時くらいではないでしょうか。
笛が吹かれるのは、手を使った時、危険なことをした時、ボールが枠外に出た時、フェアプレイに反した時ですね。
そこで活躍している選手たちは、その枠を出ない限り自由です。
監督の方針やチームの方針や関係性のなかで不自由を感じることはあれど、その選手がチームの目的に貢献し、自分の能力を発揮して活躍している限り「自由」を感じているし、誰も文句は言わないはずです。
そして、選手たちはこの枠(ルール)で参加することに合意しています。
監督も選手の一挙手一投足にいちいち口を出さない。
(口は出していますが、こう蹴りなさい、右側に蹴りなさい、などは言わない(言えない)はずです)
このサッカーのルールが「枠」であって、枠の中にいる限りは子ども「自分で決める」であって、枠の中にいる限りは大人は「信頼して任せる」。これが「見守る」のイメージです。
今回は比喩的な表現に終始してしまいましたが、「見守る」について考えてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。