中国神話の話 堯帝
羿射九日を書き進める中で、どうしても説明が必要なところ以外はまあまあ省略して書いている。
中国神話は日本ではあまり馴染みがないゆえに「この人誰やねん」ってなる人(神)が突然当然のように出てくるのだが、いちち「これは○○でー××の子でー△△した人なのよー」って書いてるとどうしてもリズムが悪くなり、間延びの原因となる。
(テセウスの話の時の反省でもある)
なので物語中で当然の様に出てくる伝説上の人物は、いったん置いといて「あーこんな人もいたのね」レベルでの説明に留め、細かな解説は単独でnoteを作成し書いてきゃええやんという結論になった。
まずは前回登場した中国の伝説の王の系譜三皇五帝に連なる帝の一人『堯帝』について。
堯帝の出てくるお話はこれ
お話のまとめ記事はこれ
三皇五帝の時代
中国の王朝はどんな順番かご存知でしょうか?
私は童謡『もしもしかめよ』のリズムで子供の頃覚えましたが、知ってますかね?
「もしもしかめよーかめさんよー」の節で「いん・しゅう・しん・かん・さんごく・しーん」
ってやつです。
もっと細かく言うのであれば殷(商)と周(封神演義の時代)が来て、戦国時代からの秦(キングダム)が続き、再び乱世があり漢王朝(項羽と劉邦)そして漢王朝が滅び三国時代へ続き最終的に晋が建国される(三国志)とまあそんな流れなのですが、殷や周は実在が確信されている王朝ですが、未だに「実在してるのだろうか?」と呼ばれていた王朝があります。
それが「夏王朝」です。
そしてその半ば伝説視される夏王朝の成立前の時代にも王はいました。
というより帝です。皇と帝の時代。
この「本当にあったかどうか分からない神話の時代」を三皇五帝古国時代と呼びます。
夏王朝とそれ以前の違い
夏王朝は『禹』というとても優れた指導者が前代の舜帝(しゅんてい)に見いだされ、禅譲され王として即位しました。
それまでは自身の周りに優れた人材がいれば、自身の息子でなくとも禅譲する形で帝としていましたので、世襲形式を絶対視はしていませんでした。
ですが夏王朝では基本的に王位は世襲とし、王の一族が連綿と連なっていきました。
世襲を絶対視するか否かが古王国と王朝の差と呼べるかと思います。
即位まで
堯帝は嚳帝(こくてい)の次男として生まれ、嚳帝は次代の帝として堯帝の兄である長男の摯帝(してい)を後継者としました。
父の死後、兄の摯が帝の間は陶、次いで唐を治政を任じられていた。
*現在の中国山西省の臨汾市あたり。旧くは『堯都』と呼ばれ堯帝の故郷とされていた。
その後、兄の帝は盆暗だったためか謎の死を遂げ、その死後兄の後を継ぎ帝となる。
*この時代の王様には珍しい謎の死。たぶん宝貝による神罰的な何か。
その仁は天のごとく、その知は神のごとく
『めちゃめちゃ良い人で、めちゃめちゃ頭が良い(意訳)』
こう呼ばれるほど善政を布いたのだろう。
現在でも残っている実績としては天文を観察させ、一年が366日、三年に一度閏月を設ける暦を作ったそうだ。
そんな遥か昔に精度の高い暦を作成ってだけで相当凄い。
またこの偉業に付随してか、太陽や天道にまつわるエピソードもある。
『羿射九日』で出てくるのが堯帝なのも、太陽にまつわる話だからだろう。
他にも息子の丹朱(たんしゅ)のために、戦術戦略、人の使い方を学ばせるため囲碁を開発し贈った。
だが丹朱はそれをただの遊び道具としてしか見いだせず堯帝は「この子は王にしたらあかん」と悟った。
質素倹約に努め、身内に甘い裁定を下すことなく平等な政を行い、また民や部下からの意見を汲み取ることが記されている。
また汲み取りすぎたせいで失敗したお話も中にはある。
私の作中では「トップ自らボトムアップを徹底する名君」と表現したが、堯帝を語る中で一つのエピソードを紹介したい。
鼓腹撃壌
堯帝が国を治めて数十年。自分ではよく出来た平和な世の中だと思うが、周りの官に聞いても褒めるばかりで真実かどうかわからない。
本当に国が治まっているか不安になったので、自分で確かめるためにこっそりと変装をして宮殿を出る。
町を歩いていると道行く子供が自分を褒め称える歌を歌っているのが聞こえる。
これは大人が自分への機嫌取りの為に歌わせているに違いないと疑ってかかるが、ふとその横を見ると大人達も歌に合わせて腹太鼓を叩き大地を踏みしめ楽しそうに踊っている。
そんな姿を見た堯帝は自分の政治は間違ってなかったと納得し、これからも穏やかな治世となるよう決心した。
とまあそんなエピソード。
「本当に俺の政で大丈夫かな?」と疑い自分で調べに行っちゃうくらい小心者。
変装して市井にまぎれて意見徴集するってもう"め組"に居候する徳田新之助改め暴れん坊将軍みたいな話。
実在性
堯帝が実在してたとすると紀元前2000年ごろの話らしい。
さすがに資料がなく、その実在性は伝説視されている。
*遺跡は見つかっているが盗掘などもあり、実在が確定するほどの確度はない。
だが多くの史料や神話・民話に残されているため、善政を布いた堯帝はいたんだろうなと私自身は思っている。
これは余談ですが、紀元前2000年というと、ギザのピラミッド(紀元前2250年ごろ)とかクレタの宮殿でミノタウロスが徘徊(紀元前2000年~3000年)とかの話。
日本なんてまだギリで石器時代くらいなので、他国の進歩ってやっぱすげーと思わざるを得ない。
磨いた石器で稲作やってたころに中国では一年は366日とか決めてたって文化の度合が違い過ぎる。
禅譲
盆暗だった鯀(こう)というオジサンの息子だったが、超優秀だった舜(しゅん)に王位を譲る。
舜は固辞し、周囲の官吏とともに堯帝の息子である丹朱を次代の帝として推したが、堯帝はそれを拒み強引に舜に政をさせた。
数十年の後に堯帝は完全に引退し、数年後崩御する。
残された民たちは堯帝が亡くなったことを悲しみ三年間喪に服したといわれる。
喪が明け、周囲に推される形で舜は帝となり『舜帝』となった。
一方、盆暗のドラ息子だった丹朱は王位を継げなかったことに憤慨し暴れまわったせいで南方へ国外追放となる。
南方にもともといた三苗人と組み反乱を起こすが、舜帝によりあえなく鎮圧される。あわれ丹朱。
舜帝は堯帝の優れた治世を引き継ぎ、仁徳に溢れた政を行った。
この二人の模範とすべき王の姿勢として『堯舜』と呼ばれる。