テクノロジーと、人、社会が混ざり合う場所
テクノロジーは、それだけでは完結しない。
テクノロジーは、媒体だ。
テクノロジーを通して人が混ざり合ったり、地域や社会と混ざり合ったりする場所があれば、そこから大切な何かが生まれるのではないだろうか。
10代のためのテクノロジーの居場所
わたしは、テクノロジーで自由に創造することできる、10代のための居場所を開設するために準備を重ねている。場所は、福井県あわら市の田園風景に佇む「新郷小学校」。5年前、少子化のために休校となった学校だ。(居場所の開設に至った経緯についてはこちらから↓)
この施設の名称は、「まぜテクネ」。この居場所を通して、人や地域、社会を「まぜまぜ」したいという想いと、テクノロジーの語源であるアテネ語「テクネ」を合わせたものだ。「まぜてくね〜」というゆるいニュアンスも入れ込み、テクノロジーにあまり触れたことがない10代も気負わず来てほしいという願いを込めている。
そんな「まぜテクネ」のコンセプト文案は以下の通りとした。
ロゴのイメージも、この居場所のコンセプトと合致するよう、グラフィックデザイナーのヤマダさんと試行錯誤した。テクノロジー関連は、色味としては原色系やクールな配色が多かったり、フォントとしてはゴシック体が多かったりするのだが、今回のロゴは「ゆるさ、接しやすさ、人間らしさ」が伝わるデザインにしたいと考えた。
そして、完成したロゴイメージがこちら。やさしく淡い雰囲気の色味と、手書き風の柔らかなフォントを使用し、これまでのテクノロジー施設にはない、人間的な温かさや優しさみたいなものを想起させることがねらいだ。そこに、混ざり合いというコンセプトに沿った、さまざまなグラデーションを加えた。
「習い事」としてのテクノロジー
わたしは開設予定の居場所の他に、2年ほど前からいわゆる「習い事」としてのプログラミング教室を運営している。この教室は、普通のプログラミング教室とは違い、自己肯定感の向上を一番の目的としている。
いわゆるカリキュラム形式のレッスンではなく、個々の興味に応じて教材を選定する。講師側の意図ではなく、本人の意思や想いを尊重する。教えるのではなく、スタッフも子どもと共に学び、彼らが何かしら「できた」時には精一杯共に喜ぶ。この教育理念や関わり方は、わたしが3年続けている発達障害専門の小児科クリニックでの、ICTを用いた療育経験から着想を得ている(ICTを用いた療育についての記事はこちら↓)。
わたしの教室に通う生徒の半数程度は発達障害があると保護者から相談を受けているのだが、継続率が非常に高く、子どもたちは各々のペースで好奇心を探求している。何より嬉しいのが、子どもたち自身が「どうしても来たい」と言って教室に通ってくれていることだ。「やらされてる感」が全くない教室だと自分でも思う。
わたしは習い事としての教室で、子どもたちが「個」として学びなるような場所をつくってきた。彼らと「一対一」の関係性の中で、思う存分にテクノロジーを探求できる環境を構築してきた。これは、週1回60分のレッスンで出来る、現段階での最大限だと思う(時間が一般的なプログラミング教室より短いのも、発達障害的傾向のある生徒の集中力持続時間を加味してだ)。
定義されない何かを発見する「居場所」
では、これからつくろうとしている「居場所」はどういった立ち位置なのだろう?習い事としての教室とは、一体何が違うのだろう?
その問いに対する答えの一つは、テクノロジースキルの習得に向けたレールを敷かないことだ。習い事としての教室は、自己肯定感の向上を最大の目的とし、子どもの意思や想いを尊重するとはいえ、60分のレッスンの中で何かしらスキルの習得を目指している。それは、保護者からレッスン料という対価をいただいて運営するにあたっての、最低限のマナーとも言えるだろう。
15分おきにアクティビティを変える子どももいれば、レッスンのはじめにスクラッチの課題を提示する子どももいる。画一的なカリキュラムはないものの、発達段階や興味関心に応じて、その子に応じたオーダーメイドのレッスンプランを作る。
しかし、開設する居場所においては、「この期間中にこれくらいのスキルを習得してもらいたい」という大人側からの意図は一切排除したい。この居場所では、習い事での教室のように、「自己肯定感の向上を目指す」というぼんやりとした目標すら定義しない。
ただ、この居場所に来た10代に、自らの選択で、自らのプロセスで「大切な何か」を発見してもらいたい。それが結果としてテクノロジースキルであっても良いし、全く違うものでも良い。わたしたち大人は、彼らが発見した何かを尊重し、それを大切に扱いたい。
混ざり合う場所をつくる意味
さて、ここでもう一度、わたしが「混ざり合う」場所をつくりたいと述べたところに戻ろう。
テクノロジースキルの習得だけならば、「個」あるいは講師との「一対一」の関係性の中で完結できる。しかし、スキルだけではない何かを得ようとした時、そこには「混ざり合い」が必要だと思う。
例えば、「人」との混ざり合い。居場所に通うようになった10代が、共通の関心対象であるテクノロジーを通して同世代と仲良くなるかもしれない。その過程で、「友達」という大切なものを得ることもあるだろう。大人たちとの出会いも10代に重要な何かを与えるきっかけになり得る。10代が大人たちと交わす他愛もない会話の中で、将来の人生に希望が生まれるかもしれない。「大人って(良い意味で)意外と適当なんだな」とか、そういうことでいい。彼らの人生が自由で主体的なものになる、何かしらのきっかけがあるといい。
そして、「地域や社会」との混ざり合い。この居場所から、テクノロジーを活用して地域課題を解決するプロジェクトができるかもしれない。地元の農作物を活用した食料品のパッケージデザインを作ろうとか、駅前で小さなプロジェクションマッピングをしてみようとか、何かしら地域や社会と繋がってほしい。そういった経験の中で、地域に貢献している感覚が得られるかもしれない。そのことによって、自分に対する肯定感と、地元に対する肯定感の両方を生むことができるかもしれない。
ただ、スキルでない何かを得ることは、スキルを得ることよりも時間がかかる可能性が高い。もしかしたら何も得られない可能性だってある。ロードマップを敷けないから、それを得るのにどのくらい時間がかかるかわからない。そしてそこには、「対価性」というものが存在しない。
友達をつくるのにお金を払う人なんて誰もいないし、大人と話をするのにお金を払う人もいない。地域や社会とつながることに、お金を払う人も稀だろう。そんなことは、学校や家庭で得るものだと主張する人もいる。けれど、学校や家庭の環境は平等ではない。外からは平等に見えたとしても、本人がどう捉えるかは本人次第だ。学校や家庭だけでは、こと足りない10代も大勢いる。
「習い事」だけではなく「居場所」をつくることの意味は、ここにある。
「対価性」を求めない場所だからこそ、得られる大切な何かがあるとわたしは思う。ただそれは、あまりにぼんやりとしていて実体が分かりにくい。それが10代にとって「とてつもなく、かけがえのないもの」だとしても、世間には理解されないかもしれない。そこに対価なんて、少しも乗せられないかもしれない。けれどそれは、もしかしたら対価性があるものよりも、本人の人生にとって重要なものになり得る可能性だってある。
そんなものを得られる場所がつくれたら、それはお金では決して計れないけれども、大きな価値を生むのではないだろうか。だからわたしは、「混ざり合う」居場所をつくりたい。
スタッフコミュニティも混ざり合い
わたしは、この居場所をつくりあげるスタッフである大人たちの中でも、「混ざり合い」を生み出していきたい。そうは言っても、わたしはコミュニティ運営に関しては全くの素人だし、人前で話すことも下手だ。知っていることも多くない。
だからこそ、各々の得意分野を活かして、この居場所をつくりあげたいと思っている。今この居場所の立ち上げには、9名のメンバーが関わってくれている。彼らはわたしの苦手な掃除をしてくれたり、プレオープンイベントの企画を練ってくれたりしている。中学生の娘さんと一緒に、定例会議に参加してくれた人もいる。
望んでくれるのであれば、この居場所に関わる大人もテクノロジーを学べる環境を構築したい。テクノロジーを楽しむ大人の姿を、何歳になっても学び続ける大人の姿を、わたしは10代に見せてあげたい。そして「まぜテクネ」は大人にとっても、子どもと関わったり、地域や社会と関わったりできる「混ざり合い」の場所でありたい。
おわりに
「混ざり合い」を構築することには、想像以上に労力がかかる。個や一対一での学びでは起こり得ないトラブルも発生する。それでもわたしは、この居場所をいわゆる「落とし所」に落としたくはない。もう少し先を目指し、もう少し先でしか見えないものを見てみたい。
わたしがたった一つ、10代に何かを求めるとしたら(いや、求めるというより、助言に近いだろうか)、なんでも良いからアウトプットしてみてほしいということだ。そのアウトプットは、どんなに小さいものでも、どんなに完成度が低いものでもいい。小さな小さなアウトプットでも、居場所に来た10代と人々、そして社会や地域を繋ぐ何かになる可能性があると思うのだ。
「まぜテクネ」は、テクノロジーを通して心を開ける友達や大人を見つけたり、テクノロジーを通して地域貢献したりできる場所でありたい。テクノロジースキルを習得することのもう一歩先の未来を、わたしはこの場所を通して見てみたい。
テクノロジーは、それだけでは完結しない。
テクノロジーは、媒体だ。