見出し画像

シュンペイってこんな人

はじめまして。俊平です。


現在24歳。日本列島のど真ん中にある富山県に生を受けて、親からもすごーく愛されて育ったいわゆるゆとり世代な人間です。


僕の幼少期時代⇩

画像1


僕は小さい頃から「ヒーロー」に憧れを持っていました。


でも仮面ライダーや戦隊モノとかではなく、アメコミが大好きで


よくスパイダーマンの真似事や絵を描いたりいつも友達とヒーローごっこをして遊んでいました。


画像2


小学校、中学校では野球をしました。

ですが特段上手いということもなく、
とにかく努力努力!と野球に打ち込んでレギュラー争いを何とか勝ち取りレギュラーを獲得し、試合に出ることができました。
ポジションは一番打球が飛んでこないライト。


画像3


小中学校で培った体力が認められて中学校のマラソン大会や1500m走では学年一位になりました。

頭はかなり悪かったですが、その体力だけは見込まれ、高校は駅伝部強豪校のスポーツ特待生枠で入学をしました。


こうやってみるとここまで順風満帆に見えるかもしれませんが、、、

高校では中学の友達とも離れてしまい、


もともとすごくおとなしい性格で、初対面の人と会話をすることが苦手だったので、そのまま打ち解ける事ができず、クラスでは「かなり暗い人」でした。


クラス内のグループができてきた時もどこにも属せないような一番つらいカースト底辺でした。


昼休みが苦痛すぎて死にかけたくらい。


さらには高校時代の初恋の人からは
「あさい君って全く喋らないしほんと暗いよね」

と言われ、かなりショックを受けた思い出があります。


画像4



それからとにかく部活一筋で取り組み、
3年間の厳しい練習に励みながら駅伝選手として
活躍することができました。

短髪の短パンランニング小僧⇩

画像5



高校2年生後半から進路に悩み、今まで勉強すら
したことがない自分はどうにかこの体力を活かしたい!そう考えていたのと 

「ヒーローになりたい」

という幼いころの夢を思い出し、
消防士を目指すことを決意しました。

画像6

高校卒業後は、消防士をめざす公務員養成の専門学校へと進んでいきました。


専門学校では、特に力を入れたのはサークルの活動で駅伝やマラソンのサークルがあったため数々の大会やフルマラソン、100キロマラソンに出場。


専門学校では公安系職種を志すのメンバーの中で
一番体力があったためサークルのリーダーとして
活躍をしました。


体力には自信があった僕ですがこの世界、
やはり甘いものではありませんでした。


「消防官」になるためには体力以外にも
消防官としての資質、知識、基礎学力が
特に重要視されることを知ります。


これまで勉強を避けてきた僕にとって
辛い以外のなにものでもありませんでした。
特に数学が苦手で。。

親にお願いして家庭教師を雇ってもらい
苦手な分野を克服しようと打ち込みました。


自分なりに勉強を頑張り、試験を受けましたが試験にはあえなく撃沈。

2年間に渡る公務員の採用試験すべて不合格で、心が折れ消防士になる夢は諦めてしまいました。

画像7


それから専門学校卒業後、1年間はアルバイトで生計を立てるほとんどフリーターのような状態になりました。


アルバイトは「学童保育」のアルバイトをしていました。

試験に落ちたことを引きずっていましたが
子どもと関わる事の楽しさや子どものエネルギッシュさやまぶしさに僕自身魅力を感じてこれを仕事にしていきたい!!!


そう考えるようになりもう一度親の了承をなんとか得て、保育の専門学校に進学させてもらいました。

画像8


専門学校では「保育士」を目指す学校のため
生徒のほとんどが女性を占めて
約90名の全学生のうち男性はなんと6名でした。


一見良さそうな環境に思えますが、そんなこともなく気の強い女性が多い中、僕自身ノリについていけない部分や元のおとなしい性格もあり、
クラスにはなじめず下に見られたり
いじられ役に回される事が多かったです。


専門学校の学園祭の出し物で女子90名の前で
小栗旬のものまねをやった時の僕。⇩ 

画像9


しかも年下女子の前だったので
死ぬほど恥ずかしかったです。


学校の治安はマジでこんなのでした。
(画像はイメージ)⇩

画像10


環境にはなじめませんでしたがクラスの価値観が合う優しい彼女もでき、

励ましあいながら専門課程を学び実習を乗り越え
ることができました。


2020年3月に専門学校を卒業。
晴れて保育士の資格を取得しました。

画像11



これまで頼ってきた親の元を離れて東京という舞台で頑張りたい!その思いから親の反対を押し切り、上京することを決意しました。   

画像12

彼女とは遠距離にはなるということで
話し合いの結果、別れる事になってしまいましたが、、、



新しい環境で全てを切り替えて今度こそ上手くやるぞ!!!そう意気込んでいました。


しかし、社会はそんなに甘くなく、、、厳しい女性社会の環境で男一人で仕事をする辛さを思い知ります。



同じクラスを担任するベテランの女性保育士とは全く意見が合わず、
毎日のように怒鳴られる日々が続きました。
(画像はイメージ)

画像13

仕事ができず自信もない。保育士になる前の
「子ども達の頼れるヒーローのような存在になりたい」というイメージからは遠く離れていき


想像以上の責任感の重さと上司からの圧に負け、子どもを見ることよりも上司の先輩の目線を気にしてしまう自分になっていました。

そんな仕事をする様子を見てさらに目を付けられるようになり、

「子ども見る気ないならやめてくれる!?」
といわれる始末でした。


そこからコロナによる影響が重なり
2ヶ月間の閉園。子どもと2メートル間隔をあけて関わるように言われ、子どもともまともに触れ合えなくなる日々。

仕事に楽しさを見出せなくなり

気持ちもどんどん沈んでいき、、、


体調不良を起こして、いつしか僕は
仕事に行かなくなりました。


画像14

そのまま逃げるように退職。
今までお世話になった人や家族全てを裏切る形で
新しく始めたこともまた挫折。


挫折挫折の繰り返しでさらには収入も0になってしまいました。


将来への希望も見いだせず、このまま何もできずに挫折しかない人生のまま僕は死んでいくんだろうか・・・


こんな思いが頭を巡る度に現実逃避をするように
家に引きこもる生活が続きました。
仕事でかろうじて貯めた残金63万円を切り崩す日々。


そんな生活を繰り返す中で、もう一度冷静に自分を見つめ返しました。収入も0、この先の将来にも希望がない。


うすっぺらく口だけでなんにも変われない自分、挫折ばかりの自分、、、。


このままじゃ本当にまずい、、、、!!!
初めて本気で自分と向き合うようになり



また保育士として復帰をしようかそんな風に少し考えましたが、


それだと大きく自分は変えられないし実家に帰ろうにも東京に出てきたのに半年で帰るなんて惨めすぎる!!!


そんな依存ばかりする自分にはなりたくない。


そしてこれまで深く考えてこなかった将来のことや老後の問題だって不安がありました。


何より

ずっと自分は挫折ばかりの人生なのか

親に頼ってばかりで親孝行もできないままなのか

ずっと何も成せず誇れるものがない人生のままでいいのか

これからもずっと我慢我慢の人生でいいのか

そして何も出来ない自分が本当に惨めでした。

ここで自分を大きく変えないと
希望の未来は見いだせない!そう強く思いました。


そして僕は何か本当に自分を大きく変えられるものを探しインターネットで「自分を変える方法」と検索をしました。


そして検索していくうちに「起業」について調べるようになり最終的に今僕が行なっているビジネスに出会いました。


 そして、、、

あるメンターとの出会いが僕の運命を変えました。


画像15


これが僕の本当の人生のはじまりのきっかけとなった訳です。



...という事で僕は今、

ひたすらFacebookなり、Instagramなりnoteなり、Twitterなどでビジネスを猛勉強中です!



やればやるほど、
結果もどんどん出始めてきて、

実際に30万、100万円と収益化できるようになりました。もちろん楽ではありませんでしたが、

どんな凡人でもやればできるんだという事を今も実感していますが、


慢心せず、上には格上が存在するので
さらにさらに登っていくつもりです!


以上不束者の自己紹介になります。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


こんな僕をどうぞ、よろしくお願いします。


画像16

(理想の彼女をつくるため、奔走中です。)

@以前の僕のように、こういった悩みのある方

・自分を本気で変えたい!!
・好きな事をもっと続けたい!
・今の生活や収入に不満がある!
・お金や時間や場所にしばられたくない!
・つらい人間関係から解放されたい!


そんなあなたの力になれたら幸いです。

浅井俊平が行っているビジネスの内容や収益化方法について知りたい方はこちら▼

・ダメ男と彰された頼りない男子代表取締役だった僕が最速で7桁収益化できた理由




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?