毒親育ちの私、相手の優しさに勘違いする
私は毒親育ち。
母はいつだって父にモラハラ。
私と障害者を抱える妹の前で、
毎日のように父を罵倒していた。
そして母は、
いつも私と妹を比較し私を苦しめたのだ。
「障害者の妹は、
生きているだけで数十万ものお金を生み出してくれている。
それに比べてお前は、
月に一万程度しか生み出せない」
要は、
生産性がないと遠回しに言われていたのだ。
そんな母のもとで育ったせいか、
私は幼少期からとんだ勘違い野郎に育ってしまった。
それは、
ちょっとでも優しくされたら相手を好きになってしまうという、
ストーカーもどきのような感情。
きっと私は、
愛に飢えていたからこそ、
他人の優しさを素直に受け取りすぎていたのかもしれない。
優しくされたら、
この人は絶対に私を好きだと確信する。
ちょっとでも目が合おうものなら、
両思いだと思い込むおめでたい脳みそ。
いくら愛に飢えすぎていたとはいえ、
他人からの親切心でここまで勘違いぶっこけるのもおめでたい。
とんだすっとこどっこい野郎だ。
さらには。
私に対する他人の気持ちがわからなくなると、
私は試し行動をとる。
どこまで許してくれるのか、
そしてどこまで私を必要としてくれるのか。
わざと裏切ってみたり、
好きなのに嫌いだとほざいてみたり。
嘘に嘘を積み重ねて、
自爆したことだってある。
それでも私を好きだと言ってくれる人がいた。
なんだか、
心がギュッと絞られたような気がした。
きつく絞られた濡れ雑巾も、
同じ苦しみなのだろうか。
いっそのこと、
私のことなんて大嫌いになってよ。
どうせあんたは、
いつか私を裏切って逃げていくんだから…。
親から愛されない私は、
他人から愛される資格なんてないんだ。
泣いた。
声を出して泣いた。
愛ってなんなの?
おいしいの?
私にとって愛とは、
子どもの時に無理やり飲まされた風邪薬より苦く感じる。
甘いから大丈夫だよって言われたシロップだって、
よく味わってみたら苦味があるんだから。
もし愛といういうものがお砂糖のように甘く幸せなものならば、
私の感じている愛はいったいなんなんだ。
甘みを感じたって、
後味は苦いんだから。
好きになればなるほど苦しくなり、
好きになってくれればくれるほどゲロが出そうになる。
真っ暗な押入れの中に閉じ込められ、
食事中にはビンタされ、
真冬の雨の中ベランダに追い出され、
育児放棄され。
実の母親から、
産まない方が良かったなんて言われたんだから。
そんな私は、
ちょっとの優しさがお砂糖たっぷりの愛情に感じてしまうのだろう。
でも、
どこかで疑いの気持ちを持っているから、
甘みの中に苦味を感じてしまうんだ。
他人の優しさがたまらなく幸せに感じる一方で、
お砂糖が不足すると不安になって孤独になってしまう。
他人からの優しさは、
いつだって私を苦しめた。
お砂糖が足りなくて気が狂いそうな私は、
自らお砂糖を探す方法がわからない。
だからお砂糖を少しでも与えてくれた人には、
またお砂糖をくれるのか試し行動をしてしまう。
そんな私も今は、
自分がお砂糖を与える人間になれたらいいななんて、
微かな夢を抱いている。
お砂糖の甘さを知ってしまったら、
もっともっと欲しくなる。
だけど、
お砂糖は適度に摂取することが大切。
そのことに気づけたのは、
いい大人になってからだよ。
毒親育ちや虐待サバイバーの人は、
いつだって優しさという愛に飢えている。
だから人間不信にもなるし、
心を許した相手にはとことん依存してしまうんだ。
それが悪いとは言わない。
それで幸せなら、
それでいいんだよ。
でも、
お砂糖を求める人にお砂糖を与えてはいけない。
お砂糖を半分こしたい人に、
お砂糖は与えよう。
愛ってそんなものだから。
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