子供は親の所有物じゃない
写真は、摘み取られ、これからワインになろうとしているぶどうたちです。
ナパバレーは只今収穫の真っ最中。ワイン造りにおいては、一番大切な季節です。
ここナパは、ナパバレーの一番南に位置し、いわゆる郊外と呼んでいい小さな町です。
人口の76%が白人、アジア人は3%ほどしかいません。
ぶどう畑の続く美しい景色、ほどよい田舎ののんびり感もあり、ワイン産地ならではのおいしいレストランもあったりして、とてもよいところです。
でも!しかしながら、田舎は田舎なのです。
アメリカの田舎で子育てなんてなんだかよさそう!というだけでやってきて難なく乗り越えられるほど理想的なことばかりではありません。
ここには、日本語補習校はありません。
英語は、家庭で英語を話している子供に比べたらどうしても劣るし、日本語は、親から吸収するだけではとてもとてもあやしいものになってしまいます。
もしも完璧なバイリンガルに育てたいと願うのであれば、親子共々相当の根性と忍耐力が必要になることでしょう。
日本語で遊べるお友達もいなければ、一緒にがんばって漢字を覚える仲間もいないのです。
どこに軸足を置くのか?もしもこんな田舎での子育てを考えている方があれば、まずはその覚悟を決めなければならないでしょう。
私たち夫婦は当初、日系移民二世として生まれてくる息子に、アメリカと日本の”いいところどり”をして欲しいと期待していました。
アジア系初の大統領を目指すか!とか、サッカーワールドカップに日本代表で出るかアメリカ代表で出るか迷ったらどうする?とか、それなりに親ばかな夢を見たりもしていました。
しかしです。現実はそんなに甘くはないのです。
息子がまだ小さかった頃、ひらがなの練習帳に一緒に取り組みました。
とうもろこしの絵を見ながら
私:と、う、も、ろ、こ、し。一文字ずつ書いてみようか。みんな上手に書けたね~。じゃ、これなーんだ?
息子:こーん!
文字数すら違うじゃーーん!
...こんなことの繰り返しです。
小学校3年生になった最近では、息子にドヤ顔でアメリカンジョークを言われても、「ごめん。どこがおもしろいのか全然共感できない...」となり、こちらの親父ギャグは完全にスルーされるというような家庭内文化ギャップは日常茶飯事です。
そんなわけで私、どこかの段階であきらめたのです。
日本から遠く離れたこのアメリカで、日本人のDNAを持って生まれ、日本人に育てられているというだけでも、親の勝手で大変な運命を背負わせているというのに、これ以上何を望む?と。
人様を傷つけたりしないで、健康に育ってくれればそれで充分だ!
この子のために私がしてあげられることなんて本当にとっても少ないということを、それはもう実感としてがっつり理解したのです。
だって、息子がティーンネイジャーになった頃、「Hey yo」とか言いながら彼女が現れて、どかどかと土足で家に上がってきてソファに寝っ転がり、息子にマッサージなどさせる姿も想像できてしまうのですもの。
この子の人生はこの子のもの!
わかってはいても実はなかなか飲み込むことのできないその思いを、こうして素直に体の内側に入れることができたのは、この極限の地で子育てをさせてもらっているおかげかもしれません。
アメリカでは、どんな小さな子供相手でも、何かをして欲しいとき、例えば静かにしていて欲しいとか、ここで走らないで欲しいといったことを伝えたいとき、「Can you ~ ? 」「Could you ~ ?」とお願いし、「please」をつけちゃうこともあったりして、そしてちゃんとできたら「Thank you!」と言う人を多く見かけます。
命令形ではないのです。
うんざりした顔をしながら言っている人も多いので、パフォーマンスでもあるだろうと思います。でも、そうだとしても、親にとっても子供にとっても、お互いを尊重しているのだと認識できる意味で、よい言い方だなぁと思っています。
日本では、親子の間でも、教育現場でも、つい上から下へ物を言ってしまいませんか?
「~しなさい!」と命令形で。
それは所有の感覚ではないかなと。
こんなに大切に、手間をかけて育てているのだから、私の理想通りになりなさいよね!
どうして私の言うこと聞けないの?!
もう、はなからはっきりとした上下関係があって、下の者は上の者に従うのが当然という前提があるのですよね。
その意識、少し変えていってもいいような気がしています。
子供にだって人格はあります。その子なりの考えを持っています。
親は、長く生きている分言えることはあるのかもしれないけれど、それが必ずしも正しいこととは限りません。時代は変わっているし、親が育ってきた頃と今とでは、環境も変わっているのです。
上からものを言うためには、いつも上の立場に立ち続けなければなりません。そうすると、相手の意見など聞いている場合ではないし、万が一間違っても自分の非を認めることもできなくなります。
そして、従ってもらえなかった場合、怒りを感じてしまいます。
こうした意識が虐待を生んだりしてはいないでしょうか?
私は、息子に対して、自分の人生は自分で切り開いていってもらわねばと開き直る方向へ舵を切った後、気持ちがかなり楽になりました。
いつも上から見張っている必要がないので、キリキリしなくてすみます。間違ったときにはすぐに謝れるし、わからないことは教えてもらえるし、迷ったときはどうしたらいいか相談もできるのです。
私が絶対的な存在ではないことがわかると息子の方もしっかりしてきて、今ではもうすっかり「自分が助けてやらなきゃこの人なんともならない!」くらいに思っているようです。
それはそれで、ありがたいな~と思ったりして。
しかし私もまだまだ開き直りが足りないらしく、ぐあーっと頭にきてしまうこともあるのですが、そんなときも、冷静になった後、謝って、どうしてそうなったかを話し合うこともできるのです。
「子供は親の所有物じゃない」
こうして書けば、当たり前のことのようにも見えます。
でも、実際には、そう思いきるのはとてもとても難しいのです。
愛すればこそ、大切に思うからこそ、つい...
ついつい「つい」がたくさん出てきてしまうのです。
それでも私は、子供を一人の人として認め、尊重し、向き合って、共に成長していける親を目指して歩んでいきたいと思っています。