「2人のローマ教皇」感想
さて、少し間が空いたのですが折角見たので感想をつらつら
NETFLIXの作品をちゃんとNETFLIXで見たの初めてかな。
アイリッシュマンもローマもマリッジストーリーも映画館だったしな。
https://www.netflix.com/jp/title/80174451
ということで、「2人のローマ教皇」。
思ったより手堅い作りの佳作という印象。
上記で挙げた作品は割と映画という概念からはみ出している部分が大きいのに対して、本作は所謂ロードショーに近い感覚。
確かにややセンシティブな題材かつ大入り大ヒットするタイプでないとは思うけど。
以下2点に絞って、感想を垂れ流し。
メイクってすごい!
自分は普段は映画見るときにお話の筋とか演技とか構成みたいな所にフォーカスして見るタイプなのだけど、衣装とかメイクも作品の一部だと感じさせられたように思う。
良く言う「映画とは総合芸術だ」みたいな言説が納得できるような感じ。
本作は徹底的にジョナサン・プライスとアンソニー・ホプキンスの演技で見せている要素が大きいし、抜群だと思うけど、メイクが2人の演技の凄みを際立たせているんじゃなかろうか。
その場面によって変わる顔色や皺の深さや目の窪み方のような所で苦悩とちょっとした光明を行ったり来たりする心情に立体感を与えていると感じる。
最近の実話(ベース)の作品では、どこまで本人に近づけるかという観点が大きくてボヘミアンラプソディー・チャーチル・スキャンダル(これは見てないけども)、どれも本人そっくりであることが価値があるみたいな言われ方をしていたように記憶している。
それが間違っているとは思わないし、没入感や本物を知っている人の違和感を拭うという点で効果覿面なのだろう。
でも、それだけがメーキャップの持つ力なのではないと気づかされた。
人の上に立つ人の原罪
思い切り話を変えて、物語について思う所。
自分はクリスチャンではないし、人間が生まれた時から原罪を背負っている、というような考え方については正直理解できない所が多い。
ただ、「人の上に立つ」とか「人を導く」という事は、ある種の原罪性を帯びているのかもしれない。
ここでは2人の教皇の立ち位置、つまり「保守派」と「進歩派」のどちらが正しいとか、間違いであるということは論じない。
むしろ、ベネディクト16世もベルゴリオ(後のフランシスコ)もスタンスは違えど、いずれも十字架を背負っている。
誰かを救おうとすることは、誰かを救わないということなのだと思う。
全ての人間を救済することなど、人間の御業ではないのだろう。
だから僕個人は2人の抱える「罪」は人間である以上どうしようもないものだと思うのだが、誰であれ他者を救済する立場にある人間が背負わなければならない、という点では原罪と呼べるものなのではないか、そんな考えがよぎった。
僕はそこまで高尚な人間ではないから、「人の上に立つ」という事に真摯に向き合っていないし、できない。
誰かを切り捨てざるをないときには「仕方ない」で済ませてしまうだろう。
しかし、それを正面から原罪として受け止め、苦悩する在り方は普遍的な求道者の姿勢として尊敬に値する。
思想信条に隔たりがあろうとも、最も理解し合える関係になったことに納得し、それで劇中で少しでも2人が救われたことに安堵した。
2人は教皇であり、救いを与える者であると同時に救われたいと願っていた。
お互いがお互いに救済できる人間を得た結末は「ああ良かった」素直にそう思えるのだ。
蛇足的な何か
改めて僕はクリスチャンではない。
さらに作品自体も史実からは大きく離れている事も多いようなので、いつものようこれに基づいて事実としてのカソリック(と軍事政権下のアルゼンチン)については論評は控える。
ただ、この作品を世に出すことを容認できること自体(流石にシスティーナを使わせることはなかったみたいだけど)が、カソリックが時代を超えて連綿と続いている強さというか逞しさなのかもしれないと想起させられたことだけ最後に付け加えておく。