よりみち読書会01『震美術論』感想
前作(『日本・現代・美術』)を含め、大きなテーマは「悪い場所」である。戦後日本に(のみならず、近代からずっと)続いてきた「反復と忘却」は、日本の美術史という枠組みを成立不可能にしてきた。
そして、災害が繰り返される日本列島という成り立ちもまた、日本美術史の成立を阻んでいる。というか、その「繰り返される災害」という視点でこそ、初めて日本の美術というものをくくれるのではないか。
ヨーロッパ史から地質学、数学の話から宇宙論まで、あまりにも話が広がっていくので、読んでいて「あれ、美術の話は?」と冒頭から混乱。まとめもないので、結局何を言いたかったのかが掴みきれずに読み終わってしまったのだが、読書会で話をするうちに、「従来の日本美術とは違う《震災美術》という枠組み」を提示し、その可能性について探っていた本だったのだな、とようやく気付けた。
読書会の音声データを録っていたのだが、聞き返していて、「そういうことか!」と腑に落ちた瞬間の自分の声が印象的だった。難しい本や、ややこしい本であればあるほど、一人で理解するのは難しい。わかったつもりが、間違った解釈だったりすることもしばしばあるだろう。恐ろしいことに、一人で読んでいると、間違っていることにすら気付けない。
なんとなくの感想を、具体的な言葉にすることによって自分の頭の中の整理にもなるし、疑問に思った部分についての解釈を議論することもできる。テーマに詳しい人がいれば、文脈の解説も頼めるし、なんなら参考文献まで教えてもらえる。
……もしや「読書」というものは、読書会ありきなのでは?今更ながらそんなことを思った。しかし、昨今乱立する「読書会」は多々あれど、平等に発言が可能で、相手の意見を否定せず、なおかつ、同じ読解力レベルで話ができる「読書会」は、そうそうないような気がする(今まで何度、マンスプレイニングに泣かされ、マウンティングに巻き込まれたことか)。
今回の読書会の最後に菊地さんが言っていたのだが「読書を何のためにするのかと言えば、視座のアップデートのためであるし、よりよい共同幻想をつくるため。それは生きやすさにもつながる」と。そのことの理解なくして、いくら本を読んでいても消費でしかない。
この今の日本は確かに「反復と忘却」のなれの果てだ。でも、それにあらがって何かを積み上げるには、読書という行為(そして読書会という行為)は、有効な手段の一つなのかもしれない。