今、看護師のわたしが思うこと
世界が誰も想像しなかった姿になって一年が経とうとしている。
一人の看護師が今思うことを、恐れずにここに残したい。あくまでわたし個人の思いとして受け取ってもらえたらいいなと思う。
わたしは大病院に勤める看護師だ。コロナ患者さんと接することはほとんどない病棟にいるけれど、対応に追われる日々であることに変わりはない。
わたしの働く病棟はもともと部屋数が少ない上に、コロナの影響で患者さんの他病棟・病院への移動が簡単でなくなっているので、すぐに新規の入院を受けられなくなる。入院が滞り始めて、残酷な椅子取りゲームみたいだと思った。タイミングが合わず入院できなかった人がいたとしたら、どこに行ったのか、適切な治療が受けられたのか、わたしには知る由もない。
医療崩壊は目前と叫ばれてきたが、必要な人が必要な時に必要な医療を受けられない可能性があるのだとしたら、それはもうすでに医療崩壊なのではないだろうかとずっと考えてきた。
わたしたちはいつからか"最前線で戦う人たち"と感謝される存在になった。
何にせよ今まで通り働くよりほかないわたしには、なんだか人事のように感じられた。
コロナが流行り出して、感染症は他の病気と少し様子が違うように感じている。
普通病気になれば周囲は回復を願い本人をサポートするはずだが、人にうつす・うつされるという特徴がそれを阻むどころか差別や中傷を生むこともあるようだ。どんな経緯であれ病気になってそんな扱いを受けるなんてあっていいものかと思ってしまう。
感染対策について基本的な指針は示されているものの、その強度は人それぞれの基準に委ねられている。各々の"正義"に基づいた行動。それは時として、悪びれもなく簡単に、そして深く人を傷つける。
軽率な行動と批判されていても、その行動の裏にどんな理由があったのだろうかとよく考えている。世の中の物事のほとんどが、白と黒の2色では到底塗り分けられない。
名の知れた人が数十人規模のパーティーを開催しただなんて聞いた日にはさすがにわたしも耳を疑ったが、意見を持つことと本人を直接傷つけることは別次元にあると思う。
差別や中傷の存在を知るたび、自分は絶対に感染しないというその自信はどこから湧くのだろうかと疑問だった。自分が自分のしている行為の対象になるかもしれないという恐怖はないのだろうか。
そんなことを考える余地もないほど追い詰められているのかもしれないけれど。
ただ感染症に限らず、無知と想像力の欠如はそれによって無自覚に人を傷つける可能性があるとわたしは思っている。これは他でもない自分への戒めでもある。
おそらく多くがそうであるように、または暗黙の了解なのかもしれないが、わたしの働く病院も例に漏れず"会食は全面禁止"となっている。会食には大人数のパーティーのようなイメージがあったが、複数人での食事は会食にあたるのだそうだ。それはつまり、本当の本当に誰とも会えないということ。
期限は、"当面の間"。落ち着いたら解除されるらしいが、何をもってそれを判断するのだろうか。"一日の感染者が何人以下"なんて基準が示されているわけもなく、本当に"当面の間"なんだろうなと思う。
自粛が長引き、医療従事者に関わらずほとんどすべての人が、急激で長期的な生活の変化に耐えられなくなってきているだろう。わたし自身、これまでの人生で前例がないようなストレスのかかり方で、限界の淵を彷徨うような時期も何度かあった。
自殺が増えていると聞いても驚きはしなかった。2020年の自殺者は11年ぶりに増加したそうだ。
今この状況で、例えば友人との食事で感染してしまったなんて人がいても、わたしはもうその人を責めることはできない。わたしたちが必死に耐えてきたのが1〜2ヶ月なんて短い期間ではなくなった今。
"会食で感染"ひとつとっても、我慢の末の今日だけはという日だったら。心待ちにしていた特別な一日だったら。いつでも少人数を心掛けている人だったら。常に感染対策に気をつけている人だったら。そんなふうに想像しては、もう限界だよねと呟いてしまう。
"3密を避けて""会食は控えて""移動は控えて"と再三言われてはきたものの、わたし自身は正直、感染するかどうかは運だとも思っている。同じような生活をしていても感染する人としない人がいるのは紛れもない事実で、どんなに気をつけていようがなるときはなるのだ。
だから対策しなくてもいい、自粛しなくてもいいではなく、万全の対策をしても誰でも感染する可能性はあるのだから、なってしまったら周囲は全力で回復へのサポートをしていこうと考えたい。
ただこれらは、わたしがコロナ患者さんの病棟に勤めているわけではないから言えることなのかもしれないと思う自分もいる。
総じてわたし自身の保険のための考え方なのだ。気をつけてはいるが、それでも万が一感染してしまった時のための。
正直、コロナに感染するのと同じくらいかそれ以上に、感染して責められることを恐れている。
それから、"医療従事者へ感謝を"という風潮にずっと違和感を感じていた。それはたぶん、職業関係なくみんながみんな、不安や絶望を抱えながらも必死に戦っているのにという思いからだろう。
例えばコロナに感染するかもしれないわたしたちの不安と、仕事がなくなって明日生きていけないかもしれない不安は、比べられるものでも、どちらがより重いというものでもない。
こんな世の中になって、わたしの大事にしている豊かな暮らしのための営みたちもことごとく不要不急のラベルを貼られた。
お腹も心も満足するような飲食店や、心をリセットできる美容院、空間自体が癒しな美術館、定期的に行かないと気が済まない旅行とその先々での出会い、、、すべてがすべて憚られた。
けれどそういった心を健やかかつ穏やかにしてくれる存在にこそ、尊い価値があるのだとわたしはずっと信じている。
むしろそういうものものが、わたしのありきたりで平凡で愛すべき日々を支えているのだから。
もちろん生活を支えてくれているものはもっともっとある。わたしたちはみんな、到底想像が及ばないほど無数の仕事と思いに囲まれて生きているのではないかと思う。
看護師という仕事に感謝してくれる方々がいるとするなら、同じようにわたしからも感謝を伝えたい。
早いのか遅いのか、世界の様子が変わりはじめてもうすぐ一年。たぶんもう、みんながみんな余裕などないと思う。見えない敵に過敏になるしか対処の仕様はないし、何よりこんなに長期戦になるとは誰が予想しただろう。慢性的な心身疲労はピークなどとっくに超えている。
自分と同じように自粛しない人がいればいらいらするし、感染対策が乏しければ近づかないでほしいと感じるかもしれない。自分と大切な人を守らなければならないし、職場にも迷惑をかけられない。
さわることに敏感にならざるを得ない今、近づくことをためらってしまう今。
どんなふうに目の前の人にふれるべきなのか。
どんなふうに人と関わるべきなのか。
こんな世界で、わたしたちはどんなふうに、互いの優しさを持ち寄ることができるのだろうか。
いまだ正解などわからないけれど、人が繋がることを諦めたくないし、そうして生まれる温もりも忘れたくない。
この数日でワクチン摂取が開始された。そのうち、そんなこともあったと振り返ることができる日がくるのだろうか。1年かけてゆっくりと、でも確実に生じた人と人との間の溝は、果たして元通りになるのだろうか。
これからやってくる未来がどんな姿をしているかなんて、それこそ想像もつかない。
今わたしにできることは、自分と周りの人の心身の健康を守ること、いつも通り元気に働いてご家族に会えない患者さんを少しでも支えること、身の回りの大切なものがなくならないように今まで以上に大事に抱えて過ごすこと、、、それぐらいしかないと思う。
そして、すべての人がそれぞれ我慢したり諦めたり受け入れたりしては、しんどさややるせなさを手放せずとも、変わらぬ日常を送ろうとしていることを忘れないでいたい。
わたしたちはまだもう少しの間、暗闇から小さな光をかき集めるような日々を過ごし続けることになるのかもしれない。
ただ、その先にきっと、この長く深い暗闇の終わりはあるのだとわたしは信じている。
絶対に、絶対に終わりはあるのだ。