8.成長を見守ること:なくなったら困る100のしあわせ
20代も後半に突入し、結婚・出産の話題が定期的に舞い込む年齢になったのだと実感する日々。
妊娠した友人には、少しずつお腹が大きくなっていく出産前から、出産後の赤ちゃんとの毎日まで、日常を写真に撮らせてもらっている。
子どもに関わらず、大切な人の記録をちゃんと残そうと意識するようになって、はっとしたことがある。それは、写真という手段で思いを伝えることもできるということだ。わたしから見えるあなたはこんなに素敵なの、と伝えられている気がするから。
一瞬一瞬を逃すまいと、何度もシャッターを切る。みんながみんな、なんだか初めて見るような顔をする。それがくすぐったくて嬉しくて。
蹴ってくるよとお腹をさするときも、髪の毛があったりなかったりする赤ちゃんの頭を撫でるときも、みんなまぶしいくらい愛おしそうな顔をしている。
言葉を大切にしていたいと常々考えているわたしだけれど、この時ばかりは、言葉などなくとも表情や目線や仕草なんかで愛は伝わるのだな、とたしかに思える。
そういう場面に立ち会うときに必ず両親の顔が浮かぶのは、わたしもきっとこんなふうにと思うからなのだろうか。
今日と昨日が全然違う毎日の中で成長を見守るということが、どれほどしあわせなことなのかを知った。同時に、もし自分の子どもならと考える反面、わたしにはこんなことできないかもしれないと強く感じてしまう瞬間もあった。
世の中のお母さんは想像していた以上に手探りの中奮闘していて、"嬉しい・楽しい・しあわせ"ばかりの毎日ではないだろうけれど、大切なものを見失わずその手を離さなければ、たぶん大丈夫なのだと思う。
お母さんでいるだけで、本当に、本当にすごいから。
写真を撮らせてもらうたび、自分と子どもの写真がないから嬉しいと言ってもらえる。毎日必死に子育てしているのだし、女性に比べ男性は普段から写真を撮る習慣があまりないこともあるのだろう。
世の中のお父さんには、お母さんと子どもの写真も撮ってあげてねと全力で伝えたい。着飾らなくても、何気ない風景でも、それは何年後かに財産になるのだから。
例えば物心ついた娘がそれをこっそり見つけた日には、両親に改めて感謝したりするものなのだ。
わたしの父は幼い頃の写真を見て今でも、むしろ今の方がしょっちゅう「この頃は本当にかわいかったんだよ」とにやにやしている。
わたしはいつもちょっと睨みながら、「今はどうなのよ」と笑う。
"母親"という肩書きが加わるのはお腹に子どもが宿ったその時だとしても、わたしたちは急にお母さんになれるわけではない。お腹がみるみる大きくなって、体の変化に戸惑いながら数ヶ月を過ごし、出産という壮絶な痛みと最上の幸福を経験して、てんやわんやの日々の中急激な成長に驚いて、、、
親になった友人をそばで見てきて、時に迷ったり悩んだりしながらも、子どもの成長と一緒に少しずつその子の親になっていくものなのだと知った。なんだか少しだけ切なくて、かけがえのない時間。
微力なわたしにできることは多くはないといつも思う。でも、すきな人のしあわせの一片を守ることはきっとできる。そしてそれはわたしのしあわせにも繋がっているのだ。
だから、儚く尊い一瞬を、これからも一緒に。