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お別れと、"してあげられた"記憶について

今日、患者さんのご家族に、一生宝物にしたいなと思えるものをいただいた。

その方は、病状改善のためにできることはもうなく、お看取りの方針で内科的治療を行っていた方だった。
ここ数日だろうというシビアな病状説明は、入院したその日にご家族にされていた。

最初は現状を受け入れられずにいたご家族も、時間が経つにつれ、着実に今の状態を理解し、気持ちの整理をしているようだった。

わたしは患者さんの全身状態を観察したりしながら、入院前の生活や、どんな方だったのかを伺った。
「冗談言ったりよくしてたんです」
「入院すると看護師さんと楽しそうに話していて」
とにこにこ話されるご家族の様子から、仲良しだったんだな、声が聞いてみたいなと思いながらケアをしていた。

ご家族が毎日一人暮らしのご本人を訪れて、夜はたわいもない話をしながら一緒にごはんを食べていたそうだ。
そんなささやかで穏やかな日々を送っていたのに、病は突然やってきてしまった。
まだまだ一緒にやりたいことも、伝えたいことも、たくさんたくさんあっただろうけれど、意識がない今は見守るしかない。

こんな状況のとき、何か"してあげられた"と思える体験が、ご家族を少なからず救うことがあるのではないか。

今日は、お風呂には入れないけれどせめてと、手浴と足浴をご家族と一緒に行った。
わたしの提案を「やりますやります!」と答え、積極的にやってくださるご家族。

「こんな手足の隅々まで洗ってもらって、高くつきますよ」
なんて冗談を言ったりしながら見ていて、ご家族が本当に楽しそうで満足げだったのが印象的だった。

終わってから、それを見ていたご家族のおひとりが、メモ帳にせっせと描いていた絵を見せてくれた。

そこには、ベッドに横になる患者さんと、ケアをしているご家族とわたしが。

ご家族もすごく喜んでいたのだけど、それを写真に撮って保存したあと、メモ自体はわたしにくれたのだった。

夜勤の看護師に申し送りをした直後から、呼吸状態や循環動態が確実に悪化していた。

最後までは病棟にいられなかったが、おそらく先は長くないはずだ。

本人に意識がなかったりすると、もちろんその人の希望をご家族から聞いたり想像したりするのも、できるだけ安楽に過ごしてもらえるようにするのも大事だけれど、"もしかしたら"という気持ちを捨てきれないご家族に、どうやって状況を受け入れお別れの準備をしてもらうかという、ご家族の病気の受容への援助がとても大切になってくると思う。

最期に何か"してあげられた"体験ができる場は、思いを表出する機会になる。
その上、お別れの瞬間やその先ずっと、後悔や深い悲しみや"何をしてあげられたんだろう"という、ないまぜの気持ちと戦うための記憶のひとつになると思うのだ。

ただ手や足を洗ったということがどこまで響いているかはわからないけれど、ご家族の喜ばれる姿に、看護とは何なのか、そんな根本的で深い問いを改めて考えさせられた。

この先、患者さんを、ご家族を、今日のことを、あの絵を見るたびにきっと思い出すんだろう。

ご本人は本当にここまでよくがんばったと思うし、少なくともわたしが想像できた限りでは、愛に溢れたしあわせな日々だったのではないかなと思う。
ご家族にとっても、悲しい、つらいだけでなくて、できる限り「でもよかったよね」と納得できるお別れになっていますように。

2018.12.15