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名作/芥川龍之介『羅生門』勝手読み3

前回の森鷗外『舞姫』同様今回の芥川龍之介の『羅生門』も、高校国語の教科書に多く採用され、高校一年生時に習うことが多い作品です。この定番と言っていい作品の定説を知っておくと、テスト対策になると考え、採用しました。
しかしテストになりやすい点は、逆に形式的で二元的な理解を生みやすく、その先入観も一方で解体しておきたいとも考えています。そこで今回も『勝手読み』させていただきます。
ご一読いただけると幸いです。

目次
1 あらすじ
2 定説1、2
3 勝手読み


1 あらすじ

「ある日の暮れ方、都のはずれの、荒れ果て、引き取り手のない死体が捨てられる羅生門の下に、長年仕えていた主人から隙(ひま)を出され、仕事のあても行き場もないまま、一人の下人が途方にくれていた。このまま餓え死にするか、盗人(ぬすびと)になるか、どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、餓え死にをするばかりである。今夜はここで明かそうと二階に上がった下人は、捨てられたいくつもの死体から一本ずつ髪の毛を抜く一人の老婆を見つけ、驚く。下人の心からは、恐怖が少しずつ消え、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。下人は、逃げる老婆を力ずくでねじ倒し、問いただすが、「かつらにしようと思うのじゃ」という老婆の平凡な答えに、下人は失望する。さらに、餓え死にしないためには悪いことも許される、という老婆の言葉から、下人の中で悪へと踏み出す決意が固まった。下人は老婆から着物をはぎ取り、死骸(しがい)の上へ蹴り倒して走り去り、(雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いだ。)下人の行方は、誰も知らない。(NHK 10min.box 現代文から引用 )


2-1 定説1(定期テストの傾向)

【羅生門の出題傾向】a  この作品の背景となっている京都の町や羅生門の描写に注目し、そこに描かれている当時の社会状況についてまとめる。
b  下人が羅生門の下に至るまでの経緯をふまえ、門の下での下人の心情について考察する。
c   楼に上ってからの下人の心理推移を考察する。
d  下人は老婆の言葉をどのように受け止めているかを考察する。
e   下人はその後どうなったと思うか。続きの物語を作ってみる。


a   平安時代の末期に作られた「今昔物語集」という説話集の中の物語で、これを元に羅生門という作品は生まれたのです。(今昔物語集の「羅城門登上層見死人盗人語」と「太刀帯陣売魚姫語」の内容を交える形で書かれた)
羅生門の主な登場人物は、主人に暇を出された下人と、盗みを働く老婆の2人です。作品の舞台は平安時代の京都にあった羅生門。羅生門は朱雀大路の南端にあった大門で、羅城門とも表記される。この高さ70尺(約21m)、幅10丈6尺(約32m)もあった羅生門だが、地震や辻風、火事や飢饉などの災いが続いて荒れ果てており、鬼が住むといわれるほどだった。

b   主人に暇を出されて(仕事をクビになって)羅生門で途方に暮れている下人には、どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。選ばないとすれば__下人の考えは、何度も同じ道を低徊したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来るべき「盗人になるより外にしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

c  ともかく寝る場所を探そうと門の楼へ登ると、女の死体の髪を抜く老婆の姿を見る。その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。__いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかという問題を、改めて持ち出したら、おそらく下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木切れのように、勢いよく燃え上がりだしていたのである。合理的には、それを善悪のいずれかにかたづけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。

d    捕まえた老婆の生死が自分の意志に支配されていると意識した下人は、憎悪の心が冷めていく。しかし老婆の平凡な答えに失望し、侮蔑に加えてまた憎悪を抱くようになる。その気色を感じた老婆は延命を望んで話を続け、この死人も生前に生活の為の悪事を働いていたこと、だからこの死人も大目にみてくれるはずだ、という事などを話す。その話を聞いた下人の心には、悪事を働く勇気が生まれてくる。この老婆を捕らえた時の勇気とは、全然反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、老婆の着物を剥ぎ取り、夜の闇に逃げ去っていった。

a~d 「四季の美」(羅生門のあらすじと内容解説|心理解釈や意味も|芥川龍之介|テスト出題傾向)


e 実は、『羅生門』が最初に書かれた時の最後の一文は、現在のものとは異なっていました。現在採用されているテクストは、「下人の行方は誰も知らない」となっており、下人がこの後どうなるのかが明記されておらず、曖昧な終わり方になっています。しかし、最初は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」となっており、下人はこれから盗人として生きていくことを思わせる形になっています。現行の物に改稿されてから、下人は盗人になるのか、改心するのか、それとも全く別の第三の道を歩むのか、解釈は読者に委ねるような終わり方になりました。これは研究者の間でも意見が分かれていて、決着がついていません。

2-2 定説2


1  突如現れるフランス語
2 にきびの意味 
3 なぜ下人は髪を抜くことに怒りを覚えたのか?
4 色に注目 
5 動物に注目
6 善悪とは?


1 『羅生門』を読む人を苦しませるのは、なんの前触れもなく出てくる「Sentimentalisme」という単語です。フランスの単語で、「サンチマンタリスム」と読みます。これは英語で言う「センチメンタル」で、感傷におぼれる心理のことを言います。では、なぜ「下人の感傷に影響した」ではなく「下人のSentimentalismeに影響した」なのでしょうか。結論から言うと、まだ「Sentimentalisme」の日本語訳がなかったからです。。『羅生門』は、「Sentimentalisme」を実践した小説ということができます。

2  羅生門は、都と外界の境界になる場所です。人を殺して捕まるのも、盗みをして罰せられるのも、都が天皇によって秩序を保たれているからです。逆に言えば、天皇の権力が及ばない都の外の世界は、盗みも殺しも何でもありの無法地帯です。つまり、危険な外界に一番近いところが羅生門というわけです。当時の都の人は、京都の外は野蛮人が生活するところと認識していました。これを理解すると、下人が「秩序(京都)と無秩序(外界)の間(羅生門)で悩んでいる」という構図が見えてきます。その上で、にきびの描写を追っていきましょう。前半から中盤までは、下人はにきびを手で触り、気にするそぶりを見せていました。しかし、老婆の「餓えをしのぐためなら悪も許される」という老婆独自の理論を聞いた下人は、「不意に右の手をにきびから離して」老婆に襲い掛かります。犯罪に手を染めるか餓死するかで悩んでいた下人は、老婆の言葉で「餓えないための手段」としての盗みを正当化し、盗人になる決意をしたのでした。このことから、にきびは煩わしい「秩序」を意味していたと言えます。盗人になるのを妨げていたのは、「秩序を守らなければならない」という下人の良心です。にきびから手を放し、秩序というしがらみから解き放たれた下人は、盗人に一歩近づいたのでした。

3   羅生門の上で死体の髪の毛を抜いていた老婆を見た下人は、激しい怒りを感じます。「死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった」とあることからも、下人がいかに死体の髪の毛を抜くことを悪だと捉えているかがよく分かります。これには宗教が関係していると考えられます。仏教の教えが広がる京都では、死体に手を加えること(死体損壊)はタブーです。現代の私たちでもその感覚は同じです。下人の態度は、常識人として当然の反応と言えます。ではなぜ老婆は平気で髪を抜いているのでしょうか。生きるか死ぬかの瀬戸際で揺れる彼女には、倫理を保つ余裕がなかったからです。羅生門の上でのやり取りには、下人の「秩序(倫理)」と老婆の「無秩序(非道)」が混在しているのです。

4   所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。冒頭部分の引用です。丹塗(にぬり)とは、社寺を赤く塗装した状態を言います。そして、当時の蟋蟀(きりぎりす)は現在のコオロギですので、色でいうと緑ではなく黒です。また、丹塗りというのは赤く塗る前に黒で塗装する工程をはさみます。よって、「所々丹塗りの剥げた」というのは、「丹塗りの赤から下地の黒が見える」という状態を指しています。ここから、赤と黒の対比を見ることができます。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。さらにこの部分にも、夕焼けの赤と鴉(からす)の黒の対比が現れています。このことから、『羅生門』のテーマカラーは赤と黒であることが読み取れます。

5   下人は、死体だけがあると予想していた羅生門の上に、思いがけず人がいて得体のしれない恐怖に駆られます。そこにいたのは「猿のような老婆」でした。下人は、その老婆が死体の髪の毛を抜いているところを目撃して怒りを覚え、彼女の「鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕」をねじ倒しました。そして何をしていたのかを問い詰めると、老婆は「鴉(からす)の啼くような声」で「髪を抜いてかつらにしようと思った」と言いました。下人は、おそらくもっと突拍子もない理由が出てくることを想定していました。晩秋の雨の夜に、羅生門の上で死体の髪の毛を抜くなんて、どう考えても異常なことだからです。しかし、老婆の答えはごく普通なことでした。下人はこの時、老婆の「普通さ」に失望し、同時に彼女を下に見るようになります。そしてその後の老婆の言い訳が「蟇(ひき。蛙のこと)のつぶやくような声」で言われていると描写されています。このように、老婆の様子は猿→鶏→鴉→蟇に変化していることが分かります。同時に下人の心情も、異様で不気味なものへの恐怖から、平凡な弱者への軽蔑に移っていると捉えることができます。つまり、下人の心情が「恐怖→軽蔑」へ変化するにつれて、老婆の見方が「猿→鶏→鴉→蟇」になるという関係が見えてくるのです。先ほどの「赤と黒のコントラスト」と同じで、作品の読みに直接関わってきません。しかし、芥川が意識的にか無意識的にかは分かりませんが、色と動物をそのように書く傾向がある、ということがここから分かります。

6   「善悪とはなにか」を考えさせられる小説だという印象を受けました。善と悪は必ずしも切り分けられるものではなく、見方によって決まるのではないかということです。例えば、干魚だと言って女が売っていた蛇は「味が良い」と評判でした。もしかしたらそれを買っていた人たちは、女が亡くなったせいで美味しい「干魚」を食べられなくなってしまったことを悲しんでいるかもしれません。「蛇を売っていた」という背景を知っている人は女を「悪」とみなしますが、それを知らない人は「善」とみなすのではないでしょうか。また、下人は死体の髪の毛を抜く老婆を「悪」としました。しかし老婆は「餓えから逃れるためなら悪事を働いても良い」という独自の考えを用いて、自分を「善」だとします。さらに老婆から衣類をはぎ取った下人は、老婆と同じ考えで自分を「善」とします。しかし、被害者の老婆からしたら下人は「悪」でしょう。このように、同じ出来事でも角度によって評価が変わってくるのです。特に、私が気になったのは、「勇気」という言葉の使い方です。「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。「勇気」という言葉は、普通プラスの単語にしか付きません。ですが、ここでは「盗人」というマイナスの言葉にかかっています。芥川は、「勇気」というプラスと合わせて使うことで、「盗人」というマイナスを帳消しにしているのではないかと私は考えています。芥川は、あくまで中立の立場です。何が善で何が悪かについて、芥川は一切触れていません。この作者の姿勢が、「善悪」は簡単には決められないということを裏付けていると思います。『羅生門』は、「何が正しくて何が間違っているのか、全人類に共通の線引きなんかできるのか?」という問いに堂々と「ノー」と言ってくれる小説だと私は思います。もっと言えば、下人が「悪」とした死体の髪を抜く行為を、老婆がご都合主義で「善」としたように、その人の都合によって変わってしまいます。そういう危ういものが善悪なのだと感じました。(「純文学のすゝめ」から引用)

3  勝手読み

  芥川をめぐる定説には大きく分けて2つある。1つは『芸術至上主義』的態度であり、もう1つは『厭世主義』である。『芸術至上主義』に関しては、歴史上の古典作品から「歴史的事物」を素材として採用し、精緻な時代考証と文体によって、人間のエゴイズムなどを剔出する作品への固定化した評価である。これは、後の『文芸的なあまりに文芸的な』という作品による、物語否定と文体表現称賛からも根拠づけられているとされる。定説2でも指摘された「にきび」や「色使い」「動物」の描写にも計算された意図とその精緻で巧妙な二元化のための描写が巧みに織り込まれているとされる。
また、『厭世主義』は、作品論的見地からというよりも昭和2年の自殺から逆算された見解とも取れなくはない。たしかにこの『厭世主義』は、「シニシズム」と同様に捉えられ、『侏儒の言葉』の「最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」という言葉から理解されるに至り、結局自分の生命存在すらも、「冷笑」するかのように自殺したとされる。この態度は、今作『羅生門』にも見られ、「歴史的事物」から「飢え死にか盗人か」という究極の選択に迫られ、この2項対立が、それこそ定説2の「秩序と無秩序、倫理と非道」へと還元され、最後は「生きるためには仕方がない」という、【髪を取られる死者にも、髪を奪う老女にも、そして下人にも】通じる論理で、下人が老女から着物を奪う。そしてその「無秩序、非道」を選択した下人が無秩序の野に放たれると言うのであろう。さらに当初は、当人と限定されたものが、後に修正される通り、下人の進退は曖昧化される。ここにこそ、「厭世主義」的シニシズムの真骨頂である客観的(傍観的)態度が読み取れるとされ、さらにここにこそ、「状況次第で変わる善悪」の指摘にもつながるのであろう。

 しかし、ここで勝手読みさせていただくなら、「善悪、秩序無秩序、倫理非道」という二元化は無意味である。
勝手読み的には、下人の葛藤、引いては芥川の葛藤はそこには無く、むしろ、外界の対象世界に当然のように存在するように見える「生か死か」の現実は、同様に内面世界にも当然存在していることに気づいた者の「淋しみの認識」のみがあるのだ。実存世界の現実にあわせて、分かりやすく言い換えるなら、「生死の境」にある羅生門では、「倫理秩序の有無」など全く存在せず、「ただ生きる」という意識のみが存在する。つまり『羅生門』という作品内の、「羅生門」という場所の上階でなされる、老女を介した下人の「義憤倫理から暴力非道」への変節は、いわば上階と下階(現実世界)区別を前提にしてこそ起こる、「形而上的な上階」にしか存在しない「葛藤」だったと考える。さらに、冒頭の場面で下人が「飢え死にか盗人か」で悩むとされるが、間違いである。
「勝手読み」で言うなら、下階(現実世界)では、その両者の混在、もっと言うと、その2項の分裂はなく、誰もがただ「生きたい」だけである。だから、上階の葛藤が終わり、下階を通り、野に放たれた下人は「ただ生きているために生きている」状態であると考える。
勝手読みをまとめると、「下人はただ生きていた。羅生門で一刹那葛藤したが、また、現実の生きる世界でただ生きている」と言えるのである。

今回の勝手読みのモチーフは、永井均『転校生とブラックジャック』(岩波書店2010年)でした。







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