【志大学校 中村祐木】前編 失われた家族愛と存在理由を探し求めて 初回記念 連載インタビュー①
まえがき 少年性の中に眠る野心を探る
人生は顔に出る。戦い続けた人。戦ってこなかった人。
それぞれの生き方に上も下もないけれど、
誰かのために、何かの為に表に立って戦い続ける人の顔つきは
やはり一味も二味も違う。
それは精神年齢という、そんな生易しい表現ではなく、
人生の不都合を受け止められる器の大きさと強さなのではないだろうか。
今回は、志大学校を創業された中村祐木さんにインタビューをさせていただいた。
中村さんから迸るエネルギーを目の当たりにした人は、
きっと彼のことを忘れられなくなるだろう。
生きること、人を愛することに実直で、
仕事や生き方そのものが、青春の輝きを放っていく。
そんな姿に女性も男性も憧れてしまうほどの魅力がある。
しかし、中村さんの魅力の本質は別のところにあるようにも感じる。
それは一言で言えば、小学生男子が放っていた「ほとばしる少年性」。
カレーライスを口いっぱいに頬張るような愛くるしさだったり、
テレビゲームの攻略に熱中する無邪気さだったり、
カッコよく見せたいのに、照れ屋な一面もある矛盾だったり。
そんな純粋な少年性をいつまでも忘れないのが中村さんの魅力だ。
中村さんは、どんな想いから志大学校を創業したのか。
そして、どんな戦いの果てに現在の人間的魅力、人生の器を深く作り上げてきたのか。
中村さんの中で暴れまわる純真無垢な少年性と、人々の幸福を切に願い行動する“たぎる想い”を感じ取ってもらえたら、きっと、この物語は皆さんの新しい人生へ踏み出す一歩へと生まれ変わるだろう。
中村さんのインタビュー音源から伝わる熱量を受け止めながら……。
第1章、幸せな家庭の崩壊からすべてが始まる
僕は、小さい頃から喧嘩っ早くて、いつも自分よりも大きい相手に向かって戦いを挑んでいました。
幼稚園の頃、いじめられた経験があって、「男の世界は舐められたら終わりだ」って早いうちから経験したのが大きかったのでしょうね。
あぁ……。でも本当は、親父もお爺ちゃんも暴走族だったし、きっと、‟血は争えない”という言葉が正しいのかもしれません。
―中村さんはそう言うと、バツが悪そうに、はにかみながら話を続けた。
それでも、苦しかったかと言えば、実はそうでもなくて、小学生の頃は勉強も好きだったし、3枚目キャラでおちゃらけて、皆を楽しませることが好きだったので、友達も多かった。その時はまだ、家族みんな仲良くて、家族旅行にも行った記憶があります。
そんな状況が一変するのは小学6年生の頃、突然、両親が離婚することになったんです。親の離婚を唐突に感じたのは子供だったからで、親同士は僕が気付く前から、そのことをずっと意識していたのだと思います。
僕が中学に上がる頃には、親父は家にいなくなり、母親は心の病に侵されるようになっていき、幸せな家庭はいとも簡単に崩壊しました。
今思えば、ドイツの哲学者ハイデガーの言うところの「存在論的不安」というやつだと思います。親父は不在で、母親は生活していくための仕事と自分自身のことで精一杯になって、僕には親からの愛情を受け止められる時間が無くなってしまったんです。
そのことで、自分の存在する意味が分からなくなってしまいました。なぜ自分は存在しているのか、自分は誰かに愛されているのだろうか。自己肯定感も未来も自分の存在理由も、何もかもが見えませんでした。
それから、同じように恵まれない環境に身を置く仲間たちと一緒に過ごすようになり、喧嘩に明け暮れる毎日が続きました。結局、それも自分という存在を認めてもらいたいだけの単なる我儘に過ぎなかったんだと思います。
それでも、仲間といるときは、青春のように輝いていて、僕はその頃から仲間たちから恋愛や人生相談を受けていました。自分の人生が一番うまくいってないのに(笑)。
仲間たちの相談に乗っている時は、誰かの存在意義になれる気がして、それがただただ嬉しくて、いつも仲間のために生きていたんです。
夜は親のいない自分の家がたまり場となり、毎日仲間たちとどんちゃん騒ぎをしていました。その時間が唯一、寂しさを紛らわせられました。でも、そんなひと時も、永遠には続きません。
皆には帰る場所がある。夜も更けてくれば、一人、また一人と自分が愛される巣に帰っていく。
そんな皆を見送ると、僕はまた、独りになりました。仲間たちとぎゅうぎゅう詰めでテーブルを囲んで、笑い転げていた時間が全て噓だったように静まり返って、自分は本当に独りなんだと改めて思い知るんです。
僕は本当に羨ましかった。帰るべき愛に満ちた生活が。そして、そこに流れているであろう親からの言葉や眼差しや鬱陶しい小言でさえも。
僕にとって夜はいつも長く感じました。
そんな不良仲間との生活がいつまでも続くはずもなく、僕はある日突然、留置所に入れられることになったんです。
第2章 絶縁したはずの親父の背中
中学3年の時です。僕は留置所にいました。最低限のトイレや寝床があるくらいで、こんなにも血の通っていない、心の落ち着かない空間があるのかと僕は最初、そんな風に感じました。
そして何より、そこで強いられる共同生活に、僕は心が完全にやられてしまいました。
その場所で、僕は殺人や、女性への強姦で捕まった人たちと一緒になったんです。その事実が本当にショックで……。
僕はどれだけ喧嘩をしても、「人として踏み外してはいけない一線は絶対に超えない」ことだけは、心に決めていました。
女性を傷つけたり、人の命を殺めたり、そういう取り返しのつかないことをやったら人として終わりだと。けれど、社会から見たら、僕は彼らと同列の人間でしかない。
本当に落ちるところまで落ちてしまった……。
心の中でそう呟くと、なぜか、可愛がってくれたお爺ちゃんとおばあちゃんの顔を思い出して、自分の人生が中村家の血を汚してしまったと、心の底から涙がこぼれました。
「何やってんだろう。俺は……」
そして、数日経ったある日、絶縁していたはずの親父から小包が届くんです。開けると、そこには一冊の本が入っていました。
それは、京セラの創業者・稲森和夫先生の名著「生き方」。
何もやることがなく、仕方なく本をめくり始めたものの、偏差値28の僕には読める文字がほとんどありませんでした。そんな自分でも、唯一読めた言葉が僕の胸に刺さったんです。
青天の霹靂でした。読書によって、人生を変えようと思えた初めての体験です。
僕はもう一度、やり直せるのだろうか。
もし、僕が社会で全うに生きられるチャンスがまだあるなら、一所懸命、仕事をしたい。
汗水を流して、一生懸命働きたい。誰かのために、人生を捧げられる人生を送りたい。
出所後、全ての人間関係を断ち切って、3年ぶりに親父のもとへ向かいました。
第3章 東京の輝きに影を潜めて
久しぶりに会う親父は相変わらずの仕事人間。その点は尊敬できましたが、親父には、すでに別の家庭がありました。その事実を改めて目の当たりにして、どこか分かり合えないわだかまりも感じたのを覚えています。
親父は鹿児島にある加工肉店を紹介してくれました。そこで、修行をして来いと。僕は仲間たちに別れを告げて、鹿児島に行くことを決めました。
東京最後の日。
仲間たちが「中村祐木 最後の相談会」と称して、集まってくれたんです。人生や恋愛のアドバイスを求めて、30人くらいが列をなし、皆を励まし、皆に見送られる形で、僕は東京を後にしたんです。
鹿児島では丁稚奉公として、働かせてもらえることになり、捌き、成形、検品の仕事をやらせてもらいました。本来であれば、まだ高校生に上がるくらいの年齢。
若輩者にもかかわらず、喧嘩っ早い性格は変わらず、よく先輩たちに嚙みついていたんです。それでも、「面白い、若いのが来た!」と、皆、面白がって、可愛がってくれました。
そこでは、先輩たちや社長に社会の、大人の世界を教えてもらい、
「仕事とは」「働くとは」。
そういう姿勢をみっちり教えてもらいました。皆さんには今でも感謝しています。
ただ、自分の中に空いた穴は、どれだけ働いても塞がりませんでした。それは、不良仲間と一緒にいた時から、空いている穴。
愛とは何か……。
自分は何のために生きているのか……。
僕は3年間、加工肉店で働かせていただいた後、自分が人生をかけてやるべき仕事、埋まらない愛の所在を探したくなり、再び東京に戻ることにしました。
ただ、なんとなく、ビッグになりたい。その想いだけで、イベント会社を設立しました。何か大きいことを成し遂げたら、自分も変われると思ったんですね。
しかし、集客のやり方も経営の方法も分からないままの無謀なスタート。どんどん事業は破綻していき、仲間にも裏切られ、また僕には何もなくなってしまったんです。
路上生活や友人の家に泊めてもらいながら、こんなお金も、人脈もない自分でも生きていけそうな水商売を始めました。
僕は一滴もお酒が飲めないんです(笑)。
それでも、僕は、中村祐木という名前や自分という存在に、いかにブランドをつけるかを考えて、ひたすらにお客さんを笑わせて、満足させて、楽しい時間を一緒に作っていくことに専念しました。
それが功を奏して、多くのお客さんから指名を貰えるようになり、そのお店でNo.1のプレイヤーになったんです。
眠らない街、新宿。
新しい仲間とつるんで生きる生活は刺激に溢れていました。新しい自分の居場所を見つけたように感じて、自分が誰かのために、幸せな時間を一緒に作り上げている実感もありました。
でも、やはり何かが足りない。心に空いた穴がいつまで経っても塞がらない。僕は次第にマンションの自分の部屋に引きこもるようになりました。
自分という存在が分からなかった。
愛が分からなかった。
自分が何のために生きているのか分からなかった。
感情も涙も枯れて、自分が生きている心地がしませんでした。あらゆる気力も失われ、今思い返すと、いわゆる鬱病のような状態だったのだと思います。
最低限の携帯代と家賃を支払うために、最小限にお店へ出勤する日々を過ごしました。そして、その日も、僕はSNSも上手く活用しながら、お店に遊びに来てくれるお客さんを集めていたんです。
そして、ある女性と出会いました。
続く…
事業紹介 志大学校
ここまで読んでいただきありがとうございます。
中村さんの事業が気になった方は志大学校のHP、そして志大学校で学ばれている学生のレビューを覗いてみてください。
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