メンタルが死にかけたけど仕事は辞めなかった話。

 2019年9月、遂にメンタルが限界を迎えた。社会人になって10年目、この会社に入って8年。遂にやめるときが来たのかと思ったが、5カ月経った今もわたしはまだ辞める踏ん切りをつけていない。というのも、ストレスが祟って体調が不安定なため、辞めてしまうと病院に通う収入がないし、社会保険も切れてしまう。嫌になったから辞めるわ!という健全な勇気がなかったし、無職になるのが怖かった。

そもそもなぜこんなことになったのか、と言うと、わたしは子供の頃からともかく、保育園や学校という社会が大嫌いな子供だった。うっすらとしか憶えていないが、保育園では友達がいなかった。けれど両親を心配させないように遊んでもいない女の子の名前を出して、楽しかったと嘘を吐くような子供だった。具合が悪くても具合が悪いと言い出せない子供だった。それが今やもう、ちょっと具合が悪いと会社を休む人間である。有給休暇は消化してなんぼなんだから!と心に決めて、今年は今年分の有給休暇を使い切った。それはさておき、とにかくわたしは学校が嫌いで、行かなくて済むなら行きたくなかった。高校のときに学校が嫌いだというテーマで作文を提出したこともある。人付き合いが苦手で、友達を作るのが苦手だった。小学校、中学校はまぁまぁ虐められていた。無視されたりとか、そういう些細ないじめだったけれど、あのときは結構な感じでつらかった。そんなわけで、わたしは今もいじめは犯罪だと思っている。そんなこんなで培われた学校に行きたくない病は大人になっても治らなかったし、今も毎日会社に行きたくない。行きたくなさ過ぎて毎朝行きたくないの歌を歌って母に笑われている。でも行きたくない気持ちは変わらない。

わたしは大手ハウスメーカーで内装担当をしていた。していたというかしているというか、今はそこで毎日パワーポイントと戦っている。そもそも製菓専門学校を卒業して最初に入った会社がクソ中のクソで、あれに比べたら今の会社は天国みたいな場所だ。製菓の世界はともかく労働時間が長かったが、その会社は個人店ではなく会社だったので、労働基準法と言うものが一応存在していた。なのでわたしたちパティシエは1日8時間労働、という名のもと、タイムカードを偽って朝5時から遅いときは深夜2時まで働いていたし、翌朝また5時から働くという今の世間もびっくりな労働環境だった。なので体力もなければやる気もなかったわたしは、1ヵ月でノイローゼになって、毎日深夜に母に泣きながら電話をし、心配し過ぎたおばあちゃんがぶっ倒れた。父が心配して飛んできてくれた。今もそのときのことを思うと泣きそうになるし、なんなら泣いている。死んだらもう行かなくて済むんだ、と思うような環境だったが、わたしはそれでも辞めたいと会社に言い出せなかった。言い出せる雰囲気じゃなかったが、とりあえず1日体調不良を理由に休んで、その間にぶちぎれた父がその会社に啖呵を切った。今思うと相当なモンペだが、たぶんこのままだとわたしが死ぬと思ったのかもしれない。

それでそのあと色々あって、今の会社に入った。誰もが名前を知るような会社だったし、インテリアコーディネーターと言えば当時、柴咲コウが出演していたユーキャンのCMが流れていて、物凄く華やかなイメージを持っていた。そもそも専門学校の授業でインテリアデザインというものがあって、そこそこに興味があった。が、実際やってみると物凄く地味な作業の連続だったし、ストレスフルな職場だった。これにはかなりの個人差があって、人とのコミュニケーションが得意な人には天職だ。でもできるだけ人と関わりたくないわたしにとってはまぁまぁつらい仕事だった。入ってからずっと別の仕事にして欲しいという願いを出し続けては、まぁがんばってよと言われ続けていた。傍から見ると結構優秀な感じで仕事をこなしていると認識されていたらしいわたしは、もちろん外してもらうことなどできなかった。というか単純に人手不足だった。何故ならわたしの下に入って来る人間がなんらかの理由でやめていき、残されるメンバーはいつも同じなのである。

でもまだわたしのメンタルは生きていた。どんなにストレスを受けていても、メンタルはすぐに折れるわけではない。じわじわと積もる積もってあるとき、突然再起不能になるのである。わたしの場合は精神的というよりも、身体の方に不調が出た。胃がなんとなく痛いな、から始まって、それから食欲が全くなく、常に胃もたれが続いている状態だった。幾つもの病院を回っては、ストレスで済まされた。顔が痺れて来たときは流石に両親がビビッて夜間救急に連れて行ってくれたが、そこで医者に言われたのは君のは病気っぽくないなぁだった。そのときのことはまた別に書こうと思う。今は幸い名医に出逢って、身体の方の症状はなんとか上手く付き合えている。体調不良を4年くらいやっていると、人間ご飯が美味しく食べられるうちはまだ大丈夫だとわかった。美味しいもの食べてリフレッシュできる人間は、どんなに落ち込んでいても病んではいないし、メンタルが折れてはいない。ご飯が食べられなくなって突然体重が減り始めてからが本番である。

正直この会社に入ってから8年間、毎日仕事辞めたいと思いながら働いてきた。最初の会社の上司と辞める辞めないの話をしているとき、シェフが当たり前のように「俺も前の店にいたときは毎日辞めたいと思ってた」と言った。どんな状態だよそれ、と思っていたが、今ならその気持ちがわかる。とりあえずその日1日8時間、我慢して働いていれば金が貰える。会社に所属していればどんなに使えない人間でも給料が発生する。そして会社都合で社員をクビにすることができない。そこそこ優秀な人材であるわたしは、いつか内装業務に戻れるだろう日を期待する上の人たちの判断により、とりあえずの猶予期間を与えられた。というか、色々あってこの会社、社員の心身の健康に関しては滅茶苦茶にフォローが手厚いのである。わたしが所属している支店自体はとてもいい雰囲気だし、同僚の人たちとの仲も良好だ。働きやすい環境だ、と誰もが言う。だからわたしは仕事が嫌で会社に行きたくないわけじゃない。なんで行きたくないのか、と問われても困る。健全な精神状態を持っている人間には、たぶんこの気持ちは一生わからない。一生わからない方がいいと思う。わたしにだって、なんで行きたくないのかわからない。人間なんてそんなもんなのである。

会社に入って4年半のキャリアを経た頃、とうとう展示場を建て替えることになって、内装担当に選ばれた。それがそもそもの発端である。その前から同じ部署のお局さんが苦手で、相当なストレスが溜まっていたわたしは遂に辞めようと思った。担当になるらしいですよ、と教えてくれた先輩に辞めますと実際相談もした。辞めたいと泣いた。でも辞められなかった。ストレスマックスで産業医との面談になった。彼は普通に内科のお医者さんだったがどうにでも診断書を書いてあげるよどうする?と言ってくれた。ただそれでもわたしは辞めなかった。わたしはともかく自分に振られた仕事は責任もってやり遂げたい、という面倒臭い性格なのである。しかもこの展示場担当になったことを正式に知った経緯がクソ過ぎる。上司は元より誰もわたしにその事実を伝えないまま、書類に名前を書いて勝手に提出しやがったのである。それを教えてくれたのがそのとき一緒に仕事をしていたその展示場の営業さんだった。そのときがわたしの本格的な体調不良の幕開けである。

展示場の打ち合わせをしている間ずっと、胃痛と気持ち悪さと戦っていた。展示場は本社の設計部の担当者と支店の担当者とで打ち合わせをするのだが、その担当になった内装の方がとにかく怖いと有名で、それにとにかくビビっていた。結局凄く優しかったのだが、今になって担当変更を申し渡された人もいたという話を聴いて、本当に何事もなくてよかったと思っている。それが終わったのは年末で、わたしは数々のドクターショッピングを経て今の主治医に辿り着いていた。ストレスが原因であることは、展示場が終わった途端に一時的な元気を取り戻したことではっきりした。胃は軽い胃炎だった。けれど結局、調子のよいときと悪いときは繰り返される。当時お局さんに調子が悪いなら課長に報告して欲しい、あなたの仕事までフォローする余裕はない、と言われた。いやマジで言われた。仮にもこの人は上司である。とにかく人手が足りない自転車操業なので、体調が悪かろうが休めなかったし、仕事量が減るわけじゃなかった。というかみんな忙しすぎてフォローできない。だからわたしはずっと、今自分が抜けたらヤバいから頑張ろうとやってきた。この考えが駄目だった。仕事を辞めたくても辞められずにメンタルを壊す人は、おそらくこういう考え方の人だと思う。でも意外と自分がいなくてもなんとかなるものだと知った。おそらく新しく来た係長がめちゃくちゃに優秀だから。これがあのお局さんのままだったら、絶対に無理だった。

そして来る昨年の9月、わたしのメンタルが死んだ。体調不良が続き、汚い話で申し訳ないが便に血が混じったのである。過敏性腸症候群を患っているわたしだが、血が出ると流石にビビった。というか毎月の生理で血に慣れていても、身体の中から血が出ると人間誰しもビビる。半年に1回検便をしていて異常はなかったが、ビビったわたしはそれを写真に撮って主治医に見せた。そして大腸内視鏡検査をすることになった。その予約をしに病院に行った日、わたしは午前休を取っていた。午後から会社に行くつもりで家に帰って、そこで突然会社に行きたくないと泣いた。メンタルがぼろぼろな上にもしかしたら悪い病気かもしれない可能性に押し潰されて、もう駄目だった。いきなり号泣したわたしに母は苦笑いしていたが、おばあちゃんは行きたくないなら行かなくていいと言ってくれた。うちの家族、とてつもなくわたしに甘い。なんだかんだ文句を言いながら、めちゃめちゃに甘やかされている。それでその日、係長と課長宛てにもう限界ですメールを送った。そうしたら思っていた以上に心配され、あっさりと打ち合わせ業務から外された。とりあえず検査が終わってからどうするか、という話だったのだが、わたしの知らないところでいつの間にか、営業さんに向けて課長が内務になる話をてくれていたらしい。ということを、後になって知った。そういう報連相がうちの会社にはちょっとだけ足りない。

幸い、検査での異常はなかったし、メンタル面はまだ少し不安定だが、どうにかこうにか生きている。というか、生きているだけで偉い、と思って生きることにした。失敗しても誰も死なないし、大丈夫!と友達が言っていて、わたしもそれを口癖のように唱えるようになった。失敗しても誰も死なない。それはとても大切なことのように思う。死んでしまったら全部終わりだ。係長とお話をしたときに、たった1度きりの人生を仕事が嫌だなと思って過ごすのはもったいない、と言っていた。だからわたしは今、社内でかなりの自由人だ。でも、それでいいと思っている。仕事や嫌で死んでしまうくらいになったら、すっぱり辞めて逃げようと思うけれど、今は未だここにいるつもりだ。

だって色々と、この会社手放すには勿体ない。



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