希望の明日へ
前回の投稿は結構長くなってしまいました。
映画『BPM』がHIVをめぐる問題を根底にした作品であったこともあり、個人的にも思い入れが深い作品となりました。
映画とは関係ないため、前回は敢えて書かなかったことがあって。どうかもう1回だけ、このテーマについて書かせてください。つらつら的になるかもしれませんが、ご勘弁を。I just have to let it come out...
私は幼いころ、将来は音楽家になるか、国際公務員になるか、はたまた外交官になるか、そんな選択肢を念頭に置いていました。音楽家とそれ以外はだいぶ違うね、なんて思われそうですが、海外に目を向ければ、多くのアーティストが世界に存在する問題の啓蒙や問題解決に向けて積極的にコミットしています。僕としては、だからというわけではありませんでしたが、誰かの力になりたい、そういった思いにおいて、私の内面においてそれら全ては始めからリンケージを持っていました。
さて、アメリカの高校に通っていた時、僕を受け入れてくれた、大好きなアメリカの家族がいました。
また僕にはその家族とは別に実は最初に暮らしていた家族がいて、そこではあまり相性が良くなかったのか、その家族との関係性においては当時、様々な問題を抱え、自分なりに内面で苦しんでいて。
そんな中、手を差し伸べて僕を迎え入れ、守ってくれたのが、次の家族でした。
その家族のいわゆるホストマザーとファーザー、この両親は再婚同士で、結局深くは聞けませんでしたが、そんな経緯から1つの家に3つの名字が存在する家庭でした。それでも皆大変に仲が良く、他の国から来た僕が加わっても変わることなく、分け隔てなく本物の家族のように扱ってくれ、田舎ですし派手なことはなくとも、一瞬一瞬が、ちょっとしたことが本当に暖かい木漏れ日のかけらのように幸せで、それは今思い返しても宝石のような宝物。
そんな中ある日、ホストマザーが家から出る日が徐々に減り、ついには一日中だるそうにリビングの椅子に寝込んだまま過ごすように。
最初は風邪か何かだろうか、と家族の皆は思っていたのですが、日が経つにつれ、余りにずっとこの状態が続くため、彼女を病院に連れて行くことに。
結果判明したこと。以前病気で入院した際に受けた輸血が元で、HIVに感染、HIVポジティブを宣告されました。
当然感染するような環境に日常いるわけではない彼女と、そして家族。それが突然そうした人為的な経緯によって、最も望まないものを体内に得ることになってしまったのです。その直後、市役所から家族へ、家から(市外へ)退去するよう通達が届き、トレイラー(アメリカ名物の移動式家と言えばお分かりいただけるでしょうか)をファミリーの祖父祖母が所有していた関係で、そこに移ったり、ホストマザー、ファーザーの親戚へそれぞれ子供たちは分散して、それ以降家族が1つ屋根の下に再び集まることは、残念ながら現在に至るまで叶っていません。
結局彼女は、宣告から1年が経過するタイミングを待たずして、余りにも早く向こうへ旅立ってしまいました。私はその時一時帰国しなければならず、日本に一時的に戻ってきていた為、お別れに立ち会うことが叶いませんでした。だってまさか、あんな早く逝ってしまうなんて。
その後、家族から色々その時の状況を手紙で(まだインターネットは普及していませんでした)知らされ、いくら仕方がないとはいえ、哀しみは勿論、無力感に苛まれ、時に重力に負けそうになり。
でも、彼女を思い出すにつけ、心に浮かんでくる彼女はいつも力強く、ゆえに心優しく、信念と行動が直結し、かと思えば時にはリビングで笑顔で踊り、常に前向きな姿。
悲しむ事は必要な事でもあれど、死を「点」と取るか「永遠」と取るかは別にしても、その瞬間のフレームに佇み続けるより、彼女が歩んできたそんな力強い歩幅、そしてそこで残したものを大切にし続けて歩く方が、何より大事なんだろうと思うように。というより、思い出すにつけて彼女がそう言っているようにも思え、そしてそう思うことが何より彼女も喜ぶと納得でき、またそう受け入れる事で、残した歩みの流れを僕も僕なりに活かし続けて行ける、そう思うようになった、高校のシニアの時でした。
そしてそれ以降も誰かの役に立ちたい、その思いで彼女の人生を抱きしめ、これから何か他の人達の助けになることがあるならば、活動してゆこう、そう決めたのは、彼女の影響が非常に強く介在しています。ですからそうした私の行動の中に彼女は今も、生きています。
さて話は進んでその後、バークリー音楽大学に進学した私は、ある映画に出会います。
『陽のあたる教室(原題:Mr.Holland's Opus)』
リチャード・ドレイファス演じるホランドは、作曲家への夢をあきらめられず、日々シンフォニーを自宅で書く日々が続いた。しかしやがて子供が生まれることがわかり、やむなく生活の為に小さな街の高校で音楽教師としての職を得ることに。
それでもある時期がくれば辞めて、再び作曲家に専念する、そんな心づもりだったホランド。しかし様々な生徒に出会い、彼らの問題と向き合う中で、彼もまた試行錯誤しながらそんな生徒の歩みの力となり、そして学び、気がつけばいつしか30年の時が流れていた。
そして教師生活引退の日、30年にわたって出会ってきた彼の生徒たちこそが、ホランドが残した、そして生かした、ゆえに生きた何よりも美しい「シンフォニー」だったのだと、驚く形で示される。
この作品に出会った当時、この作品はまだ新作でした。その為かこの作品は大学じゅうで話題で、VHSテープを買って観ている仲間も多くいました。何よりも音楽がテーマですしね。
そしてその時は想像だにしていませんでしたが、それから間もなく、この作品が私の人生を大きく変えることとなったのです。
この映画を知ってから間もない春のこと、アメリカの学校では期末テストやレポート等も終わり、卒業式を目前にした時期。そんな時にこの映画の音楽を担当した作曲家、マイケル・ケイメンがバークリーに来校し、この映画のエンディングで流れる『アメリカン・シンフォニー』を、バックのスクリーンに映る実際の劇中の同シーンと、バークリーの選抜生徒で編成されたオケによる実際の演奏がシンクした”Live to picture パフォーマンス”を披露。
この日、縁あってリハーサルから本番まで、マイケルにつきっきりとなる役目を仰せつかり、その時にマイケルと交わした会話は、私の人生を大きく決定づけることになりました。なお、彼と親交の深いスティングやロッド・スチュアート、エリック・クラプトンに関するお話も、その日そしてその日以降もたくさん伺ったのですが、豊かな言葉が溢れるエピソードばかりで、とても面白く、勇気づけられる話も。特にスティング。男として益々惚れ込みます。この話はまた、後日に。
マイケルは元々ヒューマニタリアンで、社会活動に熱心。特に子供達への視線は、非常に情熱的なものがありました。そんな中へレック監督にこの映画の音楽の打診を受けた際、この作品のビジョンを熱くへレックから聴いたマイケルは、即座に受諾、先述のホランドが書いたとするシンフォニーも、ロックミュージシャンでもあるマイケルらしい、オケとロックが融合した、実に美しい作品となりました。
この作品がきっかけでマイケルは「ホランド財団(Mr.Holland's Opus Foundation)」を設立。市の教育委員会による予算削減や、人口と財源のバランスが極めて不安定な状況が続く等様々な理由から(特にアメリカ合衆国南部)、芸術振興や学校のアート・プログラムへ予算が行き渡らず、音楽の授業で楽器が充分に配布出来ない状態の学校(子供たち)へ楽器を提供する活動をはじめました。財団はマイケル自身の名前ではなく、架空とは言え、映画の中に、そしてスクリーンで彼に出会った方の心の中に生きるホランド先生の名を冠して設立したところに、マイケルの意志の深さ、そして謙虚さと優しさを改めて感じます。
「アメリカン・シンフォニー(作曲:マイケル・ケイメン)」
(映画『陽のあたる教室』より。宜しければ本編もぜひ、ご覧になってみてくださいね。とても楽しく、暖かい作品ですよ!)
なおこちらはエンディング・テーマ。
Shawn Stockman (of Boyz II Men) - Visions of a Sunset
(『陽のあたる教室』エンディングテーマ)
マイケルとの出会い以降、マイケルの弟子として、映画音楽(フィルム・スコアリング)の制作全般を教えて頂いただけでなく、そうした活動のベースとなる社会への視線への向ける姿勢をも教わり、大変に影響を受け、私が幼いころ描いた夢たちを見事に1枚の絵としてまとめて描いてみせたマイケルに、心から尊敬の念を抱きました。大学在学時から卒業後に至っても財団で音楽振興担当、あるいはアジアでのプレゼンでは通訳など、色々と活動、そして何より子供たちに関わる機会をくださったマイケルと財団の皆さん。心から感謝すると共に、彼の想いはこれからも、少しでも僕もここで、そしてここから引き継いで行く想いです。
残念ながらマイケルは若くして先に旅立ってしまいましたが、ホランド財団は勿論今でも、彼の遺志を引き継いで現在も活動中です。様々な寄付をベースに運営されていますが、最近では21世紀らしく、TED経由の活動の他、ソーシャルファンディングも巻き込み、またここ数年ではアメリカにも支社を置く楽器ブランド、ヤマハとカシオも財団を支援、笑顔の子供たちを増やすべく、1人でも多くの人が笑顔になれるよう、活動を続けています。
私はそれから、帰国してからはマイケルの繋がりで、ミレニアム直後にNYで設立された財団『Keep A Child Alive』のロンチ、活動にコミットする機会をいただきました。この団体は、主にアフリカでHIVに感染する子供達の為に、医療、教育、何よりも今から明日へといった心のケア、そしてお金の面といった家族への支援等、実に多岐にわたる角度で支援すべく生まれた財団です。
このKeep A Child Aliveについて、日本でご存じの方は恐らくほぼ皆無だと思います。しかしこの財団のロンチから深く関わり、現在もなお親善大使として活躍する、1人のシンガーソングライターがいます。この方は日本でも多くの方がご存知なのではないでしょうか。
その方の名は、アリシア・キーズ。
アリシアもこうした社会活動に熱心なミュージシャンの1人。しかしそれに留まらず、親善大使としてアフリカを訪れるだけでなく、世界各国でHIVに関する知識、理解を深めるべく講演、プレゼンテーションを行い、その優れたプレゼン能力(と意志と)と表現力に、観る者全てが引き込まれています。
HIVの感染率が依然高い地域として、東南アジアが挙げられます。そして日本が位置するここ、東アジアも。今なお世界でも2,3位の範疇で、残念ながら改善が今なお見られずに推移しているのが現状。
そんな折、Keep A Child Aliveがアジアでプレゼンテーションを行うべく会合を東京、そしてジャカルタで開催しました。東京ミーティングにおいては、ビデオ中継で登場したアリシア・キーズの通訳を私が務めさせていただいた際、HIVに対する予防対策が日本ではまだまだ、知識及び理解の意味において許容度が高くはなく、その為基本対策もうまく講じられてはおらず、その点について感染した方の気持ちを思う哀しみと、またこれ以降感染者を増やしてはならない、その為に一人ひとりができることは、など、言葉を1つ1つ大切に熱く、しかし冷静に語っていたアリシアが、今も忘れられません。
その後私は、ウガンダでゲリラに家族が殺された為身寄りのない子供達が集まる学校で、音楽の教育を推進することで、音楽を子供達の希望とすべく活動する方たちを捉えたドキュメンタリー映画『ウォー・ダンス』の日本公開に向けてお手伝いするご縁を頂き、その際にウガンダに飛び、在ウガンダのミュージシャン仲間達と様々な意見交換も行い、東京国際映画祭で何とか形にして公開へこぎつける機会もいただきました。ただしこうした映画があってもなお、こういった子供たちのことも日本にとってはまだまだUntold storyに近いのでしょう。日本に住む方たちにとっては無縁の世界、と言われても仕方のないことなのかもしれません。ただ、こうした状況が変わらず続いていることを考えるにつけ、これを無視して安易に「平和」だとか「幸せ」なんて可能なのか、とも思ってします、いくらそれらが各々の内面の世界とは言え。平和や幸せ、って結構口にしやすい言葉かもしれませんが、これらも元来人間が人間の為に作り出した概念。大自然自体は人間がいなくても充分に(そして元々)生きていけますし、その中で人間が人間の都合で作ったのが都市や集団。そこで起こる問題なら、誰かが少しでも視線を向けたほうが、当然とは言え、変わり得る。
日本において、そして勿論日本だけではないですが、それでも予防可能なこれに対する対策、そして理解がまだまだ深められていないということ、こうした事を話すとどうしても語った側が「ネガティブ」扱いされがちなこと、視線を向けないことがポジティブ、ケセラセラ、といった誤解ならぬ無関心に対して必要なことは、強制は決してできませんけれども、だからこそどうしても、多少なりとも「知識や理解、許容を分かち合うこと」という大きな土台自体を少しづつSplitしながら、そのかけらを1枚づつシェアし、またそれらをリアルタイムで真剣にストーリーテリングして行くある種の正攻法より他に効果的な術は現地点においてはないようにも思います。
ただしそんな試みの道程に対して、国連もかねてより動いていますし、世界各地のNGO、そしてNPOも動いています。そんな中で、こうした痛みを自分だけの内面で抱きかかえ、1人苦しむ人達が増え続けるのは、人間にとって賢い選択なのか、ほんの少しでも視線が向けられて行くことで、人びとの、特に子供たちの笑顔も増えてゆく、そう願いたいものです。
私は声、翻訳、そして音楽を生業にしています。アリシアは先述のソーシャルアクティビストとしての活動はもとより、ご存知のように音楽の分野で大活躍。そんな中で私は、上記の”ペン”を最大限に活かして、ここ日本、そして引き続き海外において、そしてリンケージをつなげるVice versaとして、少しでもお手伝いし続けることができるのであれば、これ以上の喜びは有りません。
もしもこれをお読みくださって、何か私がお手伝い出来るようなことがあれば、お声がけくださいね。そんな意味も込め、今回敢えてここにこれを書きました。
みんなみんな、叶うだけたくさん幸せに充実感に満ちた歩みを。マイケル、僕の力はまだまだとても小さいです。けれど、あなたの想いはこれからも引き継いで行きます。音楽、そして言葉で誰かの笑顔の一介になるべく、歩き続けます。
そして今はあっちにいるアメリカのmom。
I know you're right over there smiling over us. I still do feel you beside and inside, with all that you taught me on living to the very fullest and how one should stay not just to survive, but more to thrive for going stronger. I feel do stronger each and every day because of you. Thank you, and here I make a vow to share those with anybody who needs one..
また長くなりましたが、、今回はここで。