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文学と哲学、心理学、そして、コンテンツ論~半沢直樹、アニメ、ギリシャ悲劇を例に

2300年以上前に、アリストテレスは『詩学』で当時盛んだった古代ギリシャ悲劇の分析を行って論文を残している。カタルシス(精神の浄化)をはじめ、受難、逆転や認知などの重要な要素にもとづいて優れた悲劇作品について詳しく語った。

例えば『オイディプス王』を優れた作品としてアリストテレスは挙げる。

(以下ネタバレ)『オイディプス王』は、旅の末にスフィンクスの謎を解いて見事テーバイ王になったオイディプスが、昔、旅の途中に通った狭い道で譲らなかった相手にブチキレて叩き殺したのが実の父親で、その後、そうとは知らず奥さんにしたのが実の母親で、そうとは知らず子どもを四人もうけるけど、あることがきっかけでそのことを知り(認知)、母親兼妻は発狂して自殺しオイディプスは自ら両目をつぶして国から追放される(逆転)、全く救いようのない話。しかし、確かに傑作。


『オイディプス王』を読んだ後、さまざまなコンテンツについて考えてみた。


終わってしまった『半沢直樹』(面白かったdeath)。これは長編だが、アリストテレスのいう悲劇的要素を含みつつ、展開はわかりやすい(すべてが受難→認知→逆転の繰り返し)。

『ドラえもん』。一話完結なので、やはりのび太はのび太のまま、最後は何となく上向いたりどうしようもなかったり。のび太が翌週になったら別人のようになっていることはない。ジャイアンもスネ夫も出木杉くんも、基本的には「固定的キャラ」。

『アンパンマン』。カバオくんは基本的にアンパンマンに迷惑をかけるばかりだし、バイキンマンは学習せずに個人戦を挑むのみ。最後はバイバイキーン。

『クレヨンしんちゃん』。しんちゃんが突然普通の子どもになったら全くおもしろくもなんともない。

ところで、子どもは同じ絵本を繰り返し読むと聞く。話を変えたり、飛ばしたりすると怒るらしい。絵本も必ず終わりが見えている。

心理学者の河合隼雄が言ったとされる「閉じた物語」(結末があらかじめ定まっている、決められている物語)がここにはあると思う。

一話完結ものは、「閉じた物語」の宿命を免れられない。

もし、絵本の最後が、終わるはずなのに終わらずにずっと「次巻に続く」だったら? 
『アンパンマン』で、ある日を境にバイキンマンが組織化に関する知恵をつけ、ドキンちゃんがカバオくんをはじめ村民をかどわかしてダークサイドに陥れていき、アンパンマンたちを徐々に追い詰めていく様子を翌週以降に持ち込んでいって描いたとしたら?
子どもたちはもう不安でたまらなくなるかもしれない。

『ドラえもん大長編』(映画)では、見事にいつもの話とは違う。ダメなはずののび太は急に勇敢になるし、ジャイアンは普段の暴君ぶりを棚に上げて「おぉ心の友よ!」とか言い出す。

長編は文脈を豊富にできるし、アリストテレスが語らなかったストーリーの別の重要な要素として「変化・成長」があるように思う。ベストセラーの小説の宣伝文句でも「~の青春と成長を描く!」とか書いてあるし。

半沢直樹は全編を通じて成長はしない。正義をつらぬき、間違っていることと戦うことを第一原理としている。村上春樹は、聞いたところによれば結末ありきではなく小説を書いていくらしい。それでも、特に大人の主人公に成長は感じない(村上春樹論は置いとくべきかもしれないが)。そして、先に見たように、一話完結ものに「成長」や「変化」は基本的にない。

ついでに、『ワンピース』のルフィも強さや能力の変化はあっても、精神的な成長はほとんどないと思う。「海賊王になる」という第一原理から導かれる、己をつらぬくあり方がとても印象的なのだと思う。(『ワンピース』は中学生から読んでいるとても好きなマンガ)


私たちは、どうやら子どものときから「変わらないこと」に何より安心を覚えるのかもしれない。子どもが何度も同じ絵本を読んでほしいとせがむのに辟易としながらも、結末がわかりきっている展開の映画(どんなに危機に陥っても主人公が死んでいることはない)やドラマ、アニメ、小説を見ては安心し、一定のカタルシスを覚えて満足する。

しかし、先行きのわからない「成長や変化」にも魅力を感じる自分もいる。「閉じた物語」とは違って、「開かれた物語」に未知へのときめきがあるのかもしれない。

アリストテレスは「詩人(作家)は作品を通じて普遍性(人間あるある)を語らなければならない」と言っている。

そう考えると、「閉じた物語」である繰り返しの展開にも納得は行く。私たちにも変わらない自分が間違いなくいて、鏡で見ている自分は老いつつも、変わらない慣れ親しんだ中身について明確な回答をしないまま、何となく、ごまかしながらも付き合いを続ける。

「開かれた物語」も、先行きを巧妙に不透明にすることで、自分のまだ見ぬ可能性について、もしくは、人間模様の妙について面白さを感じることになる。村上春樹のように、作者も先を描くまではわかってないこともあるだろう。そこには不安も期待もある。


ギリシャ悲劇は、実在したかどうかもわからない誰かの人生を模倣したに過ぎないが、単なるエンターテイメントでは済まされない凄みがあったと思う。

他人の人生を通じて自分を省みるか、あるいは、全く別のものとして切り離すか。いずれにしても、悲劇の観劇が終われば自分の生活が目の前に現れることに変わりはない。「では自分はどう生きるのが正しいのか?」

「閉じた物語」にしても、「開かれた物語」にしても、その哲学的な問いは普遍的な響きを持つ。

銀行勤めの人が『半沢直樹』の詳細部分に注目して、「あんなことはあり得ない」と言うのは簡単だ。

しかし、正義をつらぬくことによるドラマを語る「大きな物語」も否定するのだろうか? その態度次第で、その人が「閉じた物語」を生きているのか、「開かれた物語」を生きているのか、わかるのかもしれない。


本来は、みんなが自分だけの「開かれた物語」を生きているはずだ。

ただ、そのうちの何割を「閉じた物語」が占めているか、それが問題だ。

その問いこそが、まさに「人間あるある」なのかもしれない。 

(そのうち続く)

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