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モチベーションについてのざれ言
「やることが多すぎて気持ちが向かない…どうしたらモチベーションが上がりますか?」
先日、研修で受けた質問。
「やっぱりモチベーションって大事だよねー」。
まったく別の文脈で妻が言った。
モチベーション。
日本語で言うと「動機づけ」。
簡単に言うと「やる気」。
モチベーションを与えることを「火をつける」とも表現する。
数日で何度もこの言葉が出て来たので、何となく考えていた。ひと通り理論も知ってはいる。
でも、僕はあえて
「モチベーションって概念、本当にあるのか?」
そう問いたい。
いや、あるに決まっている。だから「ざれ言」と最初に言い訳している。
たぶん、突き詰めていくと「モチベーションが最初に来る」(モチベーションありきで考える)ことに僕は違和感を覚えているのだと思う。
最初の質問への答えとして「実は、私個人はモチベーションを気にしてません。どちらかというと、ちょっとやり始めるとだんだんその気になるタイプなんです」と返して、一応一般的な理論で言われていることを示した。
(ちなみに理論ではないけど、やることが多すぎてやる気にならないときは、まず何をしないといけないか書き出すことが大切)
そうなのだ。
僕は昔から「やる気」という言葉があまり好きじゃなかった。たぶん、高校生くらいから。
なんかこう、みんなやらない理由や、やりたくない理由として「やる気がない」「やる気が起きない」と言っている気がして、それってただの言い訳なんじゃないかと思っていた節がある。
だから、モチベーション(やる気)って概念を知っているがゆえに、そこに逃げておけばいいみたいな。
僕は昔サッカー部だったが「オラやる気出せお前ら!」みたいな掛け声が体育会系だとごく自然と出て来ていた。
自然…なのか?
結局、なんだかやる気を出しているフリをして走ったり蹴ったり声出したり。それって楽しいのか。
仕事を考えたときに、確かにやりたくない仕事はある。
たいてい、何の意味があるのかわからない仕事や目的不明の仕事だったり、組織内部のためだけにやる仕事だったり、というのが多い。誰得?な仕事。
そういう仕事にモチベーションは必要ない。もしそういうものがあるなら、もったいないから使う必要なんてない。
逆に、すごくワクワクするような仕事や、大きな挑戦、今の自分を越えるようなハードルの高い仕事だと、もうモチベーションなんて言っていられない。やるしかない。
2000年よりもはるか前に、孟子はこう言ったらしい。
「できないのではない。やらないだけだ」
気持ちが向かない自分に「気持ちよあっちに向け!」と言えるのだろうか。
それは「意味づけ」の話かもしれない。
何のためにやるのかわかっていない仕事について「いやこれは自分のためになるんだ」と自分で解釈したり、他の人から教えられたりとか。
でも、いくら上司とかから「この仕事は君のためになるから」とか言われても、自分の中に矛盾を感じていると気持ちは向かない。葛藤を解消できていないからだろう。
その辺りも踏まえて、自分にとって「前向きな意味づけ」ができるとそれはモチベーションだと言える。
ただ、僕はそれってやってみてから考える/感じることかなとも思う。仕事に意味を求めるのは後でもいいと思うし、それを自分で見つける方がおもしろくなるんじゃないか、とか。
最初の質問にしても、妻の言葉にしても、もう少し掘り下げて考えてみると「やりたくない自分/やれない自分」を認めてほしい、許してほしい、そんな思いが深層の部分であるのかな、とか。
できないことについて自分をどこかで責めているのかもしれない。
責める反面、「そんなことはない」と自分を守りたい気持ち。葛藤。
その葛藤を表面的に解決するために、モチベーションは「都合のいい存在」とも言える。
そうだとしたら質問に僕が返した答えなんてサイアクで、その方のためには全くならなかったと、今さら反省。
完璧な自己理想像とのギャップに苦しむ自分や、できない自分を責めてしまう自分。それをまず許すことから始まるのかもしれない。
モチベーションは、モチベーションのレベルだけで考えればいいわけではないとようやく学んだ気がする。勝手に。
モチベーションはあるというのはわかったけど、あり方が僕の中で変わったかもしれない。