離島生活3年目を迎えた2020年だった。
「♪ もう数時間寝るとお正月〜♪」という感じで、あっという間に2020年最後の日がやってきました!
これまでの人生25年間で、ブログを通じて1年を振り返るのは初めてのことです。
離島生活3年目を迎えた今年、コロナ禍で情勢が大きく変わっていく中、はりやはどんな1年を過ごしたのでしょうか。
※あまりにもフットワークが軽すぎて、内容が大すぎるかと思います。予め、ご了承ください。笑
1ヶ月ごとに振り返っていく。
◆1月
2020年の正月は東京の実家に帰った。大晦日の夜警を終え、初日の出を見て、初フライトに乗ってとバタバタしたのが記憶に残っている。まさか、それから東京に帰れないとは思っていなかったな。
それから、毎年1月5日は消防団の出初式。消防団員としての自覚を促す大事な儀式。消防団の存在の温かさと活動に精を出す意気込みが得られた。
(写真は津屋崎での1枚。多種多様な面々に囲まれた。)
1月中旬には、「弾丸ツアー」と題して、平戸市の職員研修・福岡市内での未来をつくるKaigoカフェの講座・福津市・津屋崎での1杯と続いた。
あえて「弾丸ツアー」というカタチを作るキッカケになったし、ぼく自身がハブ拠点になる可能性が芽生えた機会だった。
◆2月
2月は、島外はともかく、島内も飛び回ることが目立つ月だった。
(写真はお茶会ワークショップでの1枚。ワカメちゃんだと勘違いされた。笑)
お茶会のワークショップや島おこし協働隊員の野外活動をお手伝いしたり、神崎半島へのウォーキングやケアニンの上映会に参加したり。
島外では、相変わらず「弾丸ツアー」と題して、福岡市→北九州市→長崎市→唐津市と行き、締めくくりは対馬のお隣の島・壱岐市と転々とした。
これからの介護・福祉を考えるデザインスクールのメンバーに会ったり、北九州・黒崎のコトブキッチンや長崎のつくる邸・CHEBLOに行ってきた。
そして、人生初の佐賀県に上陸し、唐津にある看護小規模多機能むくに顔を出してきた。
島内外にわたって出会いが多かった月だった
「この勢いが止まらないように。」と、この時は願うばかり。それがコロナ禍で沈んていくとはこの時は思いもしなかった。
◆3月
3月は島内に留まる1ヶ月になった。
(写真は、貝口ビアパークの懇親会で、地元のおばちゃんに化粧を施されている1枚。大して変わらなかった。笑)
コロナ禍でも、フットワークは軽いようで、貝口ビアパークやもやいの会に顔を出したり、藻場再生を中心とした環境保全に力を注いでいる漁師さんに出会った。
その一方で、3月は別れの月でもあって、港から島外に引っ越す仲間の見送りや満開の桜を見る機会を味わった。
寂しさがここで終わればいいのに、このコロナ禍でぼくは寂しさを引きずっていくのだった。
◆4月
4月が2020年でもっとも辛い1ヶ月だったと思う。
テイクアウトをしまくっていたのが、4月の大きな思い出としてある。
しかし、コロナ禍による外出自粛が唄われる中、仕事でも仕事外でも外出しづらくなった。
これがフットワーク軽い系のぼくにとって、本当に辛いことだった。モチベーションも落ちたし、この先に対する不安が頭をよぎった。
しかし、神様はぼくを見捨てなかった。この状況を打破してくれるものが目の前に現れたのだ。
それが、Zoomというオンラインツールで、全国各地で生きる方々と離島に生きるぼくを繋いでくれた。そして、これがぼく自身の活動につながっていったのだった。
◆5月
5月は、オンラインでの関わりが増える1ヶ月になった。そう、オンライン市役所に入って、そこで地域包括ケア推進課という架空の課を運営しはじめた。
また、他の自治体の公務員とのオンライン飲み会やオンライン勉強会に参加するようになっていった。
これが、離島に生きる公務員のモチベーションを維持してくれた。
今になってみれば、オンラインでの動きが加速するキッカケになったのが、この5月だったと思う。
それに、離島という距離感が強い地域で、全国各地とつながったり、情報発信できる面白さに出会う月だった。
◆6月
6月は、よんなな離島会を立ち上げた月だった。
とはいえ、コロナ禍でどっちつかずの情勢で、モチベーションの波が激しかった。特に、この時期は自粛解除の動きが見られ、対馬にある市民劇団の練習も再開され、ぼくも毎週練習に参加するようになった。
それから「オフラインの活動とオンラインの活動って両立できるの?」と考えるようになった。
この月は4月の情勢と近いくらい、停滞した月だった。
◆7月
6月とは真逆の月と言っていいほど、モチベーション高く動き回った月になった。
自粛解除で、7月上旬には長崎市内に向かった。半年ぶりというより、今年初めて会う方々もいたし、離島スナックを開くという貴重な機会をもらった。
オンラインで繋がれるとはいえ、生の人間相手に語り合うことがいかに大事か思い知らされた。
そして、6月に立ち上げたよんなな離島会の企画として、毎週木曜日にスナックアイランド を開店しはじめた。
この月は、オンライン活動とオフライン活動の両方ともフットワーク軽く動けた。
そして、オンラインで関わっていた全国各地の公務員が自主視察ツアーで対馬に来てくれた。「これこそ、オンラインで繋がっている強みだ。」と思う瞬間だった。
◆8月
8月でまず出てくるのは、よんなな会のオンライン開催だ。ここでは、離島から全国各地に生中継しながら、よんなな離島会を紹介した。
5〜7月でやってきた離島に生きる公務員としての動きが凝縮されたことだったと思う。
そして、このよんなな会を通じて知り合ったいわばみずきさんと東京と離島の交換日記を始めた。
それから、コロナ対応で悩んだ挙句にお手伝いしたのが、壱岐島ふるさと花火。
離島に生きる公務員として尊敬している柴さんと動けるのは最高だったし、何より壱岐の人がぼくを呼んでくれたのが嬉しかった。
そして、迎える8月24日は25回目の誕生日。
今年はコロナ禍で対馬にて1人細々迎えるのかと思っていたが、この月から関わりはじめた空き家プロジェクトのメンバーと一緒に迎えた。
それに、オンラインのコラボスナックで祝ってくれる公務員の方々がいて、本当に幸せ者だと思う夜だった。
◆9月
9月上旬は台風に振り回された。台風9・10号が連チャンで対馬に押し寄せてきて、久しぶり!?ニュースの台風情報で対馬の地名が全国に響き渡った。
そして、消防団員として、飛来物にぶつかりかけたり、暴風で身体ごと飛ばされかけたりと、身の危険を感じる機会となり、消防団・消防団員が担う役割を再認識した。
その中、島外には出なかったが、東京から対馬にこれまた官民協働の視察ツアーが入り、1泊2日の島内弾丸ツアーを実施してみた。
ぼくのアテンドの力量不足が露呈したので、反省しているが。対馬に来てくれる方々への感謝の気持ちは持ち続けている。
そして、離島の寒さが厳しくなりはじめたこの時期。
そうそう、温かい鍋を作って食べる習慣が身についた。「離島の冬は今年も厳しいな。」と痛感しはじめたのだった。
◆10月
この月は、1・2月以上に島外に出た1ヶ月だった。
(写真は壱岐の名物・猿岩での1ポーズ!)
10月上旬は対馬のお隣の島・壱岐市に、中旬には長崎市と平戸市に行ってきた。
長崎市内では3ヶ月ぶりとなる離島スナックを開店して、平戸市では知り合い公務員と1月以来の再会を果たした。
「うん、ぼくはコロナ禍でも変わってないや。吹っ切れてるな。」と思った。
そして、いつもの空き家プロジェクトのメンバーのところに通い、熱々のお鍋を一緒に食べた。
ぼくにとって、対馬島内でモチベーションの維持に欠かせない居場所になりつつあると実感している。
◆11月
はい、だらけた、というか秋の季節に身を任せた1ヶ月だった。
とにかく、仕事でハプニングが多くて、毎週開店しているスナックアイランドもままならない状況になった。
ただ、対馬の紅葉には癒されたし、離島ならではのアラ鍋で心を温めてもらった。
(写真は、壱岐のみなとやゲストハウスでの1枚。思いがけない出会いが待っていた。)
11月下旬に壱岐市に出張に行った際の出会いも印象に残っている。1つのゲストハウスに様々な立場の人たちが集ったが、その中に先輩公務員の姿があって、1人の公務員として嬉しく思う瞬間だった。
◆12月
12月上旬は、これまた長崎市内に向かった。そこでは、地域密着型のホテル・月と海の実証実験に参加し、長崎を愛してやまない面々に出会った。
そして、これまた離島スナックを開くという、今年3回目の機会に巡りあった。
12月のクリスマスは空き家で過ごしたり、保育所でサンタになりきったりした。フットワーク軽い系の力が役に立っているなと恥ずかしながら思うのだった。
そして、年末は毎年恒例になってきた消防団の夜警。もう、今日で1年が終わるという実感がないのだが、この夜警は少しは1年の終わりを感じさせてくれるのだった。
これを2020年は意識していた。
◆面白がってくれる人に付いていく
価値観や考え方が異なっても面白がってくれる人にあえて付いていってみた1年だった。特にある先輩とは飲み仲間になり、大体会う回数の半分は喧嘩している。それでも、人間味が大事だと対人援助の仕事をしていて思って、付いていった。
その結果、周囲から「トゲトゲしていたのが柔らかくなったね。」と言われることが増えていった。異なる価値観や考え方があっても、離島のために乗り越える仲間作りって大事だと気づいた。
ただ、今になって思うのだが、これって、ある程度自身の軸がブレなくなったからできることなのだろうと思っている。ぼく自身が周囲に振り回されづらくなってきた証拠だと思うのだ。
◆思いや考えを言語化する
今年は、このNoteブログを活性化させたり、相手の根拠を持って話すようになったと思う。「まだまだだな。」と仕事上ではいつも感じているが、気になることはすぐに調べて、考えをまとめる機会を作ることができた。
でも、来年以降はさらに言語化を進めていきたい。
◆自らプレーヤーになる
誰かの背中を押したいという応援者スタイルから、自ら旗を掲げて動くスタイルへと変貌していった。結局、自ら動かないと動く上で必要なスキルは見につかないのだ。
ただ、モチベーションの波が激しく、動けない時は動けなかったので反省。そのためにも、周囲を巻き込んでいきながら、来年以降も動いていきたい。
◆ぼくが離島で生きる意味を再考する
今年はコロナ禍で離島から出られない時期が多かった。
そこで、オンラインを通じて、全国各地の人たちと繋がり、離島から何か情報発信する等のアクションが起こせないか考え続けている。そして、ぼく自身が東京から離島に移住して離島で生きる意味を考えている。
まだまだ、言語化できずにいる部分がほとんどだが、離島で生きる意味なんて、経験を積んでいかないと分からないものだろう。これからも、明日以降の来年も経験値を貯めていきたい。
出ずっぱりであり続ける2021年に。
今年2020年はコロナ禍の最中で過ごした1年間でした。
離島と日本本土の距離感を感じつつ、それを払拭するオンラインツールが普及してきて、離島で生きているからできることが多く見つかりました。
そして、社会人3年目・公務員3年目・離島生活3年目を迎えて、ぼくが離島にいる存在価値みたいなもの(大げさすぎるかな。笑)を再考する1年になりました。
さらに、この1年間で変わらないことがあるとすれば、それはフットワークの軽さだと思います。多分、過去の2年間(2018年〜2019年)以上に、人やモノに出会いました。
出ずっぱりであれば、離島にいても、できることはまだまだあるのだ。
出ずっぱりでいることのメリットを大きく感じることができた1年でした。
新年は、2020年にやってきたことを継続しながら、さらに進化・深化できるよう、日々精進してまいります。
皆さま、新年もよろしくお願いいたします。
2020/12/31 針谷 広己(長崎県 対馬市)