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シンプルな行動、複雑な思考

久々に走った。1kmあたり7分20秒のゆっくりなペースだから”走った”とは言い難いが、6.5 kmだったので、まぁランだろう。私は走りながら色々なことを考えるのが好きだ。

今日考えていたのは、今取り組んでいる新しいビジネスのブランド名とかプロモ戦略のこととかから始まって、たまたま昨夜企業家志向の若い人から相談を受けたことを思い起こしたり、そうかと思えばあの人最近どうしてるかなぁと思ったり、いつものように思考はあっちこっちに飛びまくる。これまで走っていて考えていることが何かの形にまとまったという記憶はない。

走っていると他のランナーとすれ違ったり、追い抜かれたりするが、そんな時ふと思う、この人は何を考えているんだろう、と。当然知る由もないのだが、失礼ながら、大抵は何も考えていないように見えてしまう。しかし、私がこれだけあれやこれやと考えながら走っていることは誰にも分からない訳だし、恐らく彼ら彼女らもきっと色んなことを考えているはずだ。

走るという極めてシンプルな行動をしている時に、その裏で脳は活発に動き続けている。むしろ、シンプルな動きをしている時こそ脳は複雑に動き回るのではないのか。

ところが、昔、50年以上も昔、中学の部活で長距離を走らされた時には、頭の中は苦しいとか、なんでこんなことやっているんだ、みたいな思いだけで、特に思考と呼べることは無かったような、そんな記憶が突然湧いてきた。

この違いは何かと言えば、恐らく、中学以来50年の歳月を重ねて脳に蓄積された様々な知識、情報、経験が脳の中でシャッフルされて次々とフラッシュして、時には他の記憶とリンクして、意識の表層に登場している訳で、13歳とかの中坊には、そんな芸当はきっとできなかったんだろう。

昨夜、新しいビジネスのことで、相談というか意見交換というかをした時も、その事業に関連した情報だったり、似ているかもしれない事例だったり、自分が考えたことがあるアイデアであったりと、色んなことがポンポンと出てきたのだが、これも全て脳に刻まれた記憶、情報があってのこと。

つまり、歳を重ねることは良いことで、歳を重ねないと出来ないこともあるということだ。ただし、脳が活発に脳内の情報にアクセスして、リレートして、アウトプットできるように出来る限りは。

もしかすると、ゆっくりとシンプルに走りながら、とりとめもなく思考や思いを複雑に巡らせて頭の中をシャッフルするのは、とっても大切で有効なことなのかもしれない、などと言うアウトプットに至った。

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