橋本環奈のパワハラ疑惑報道
女優の橋本環奈氏が所属する芸能事務所のパワハラ疑惑が浮上しているとして、話題が上った。2024年11月6日付のAERA.dotによると、所属事務所の「ディスカバリー・ネクスト」は公式ホームページで「事実無根」と釈明した。その一方で、パワハラ疑惑を巡って、ある芸能事務所マネージャーはこのような証言を口にした。
橋本氏は不機嫌になることがままあり、マネージャーの応対に激怒することがある。担当マネージャーも”売れっ子女優”の仕事が舞い込んでくるため、常々激務にさらされていることから、精神的な鬱屈を隠し切れない。どちらも疲弊しているようだった。
橋本氏が所属する事務所はマネージャーが次々と辞めていく実態を浮き彫りにした。代表取締役社長の伊藤功氏は『週刊文春』の取材に対し、10人も退職していたことを告白した。
一例を挙げよう。2024年11月7日付の『FRIDAY DIGITAL』の記事によると、”ドリンク”に関する対応が酷だったと報じていることに驚いた。
この記事を読む限り、憤りを感じざるを得ない。破竹の勢いで売れ続け、富と名声を得た芸能人が内的不満をマネージャーにぶつけることはあってはならない。この記事では芸能従事者が単にわがままな態度を取っているに過ぎないと見て取れる。
別の大手芸能プロの幹部は”パワハラ”タレントの共通点を見出したと語る。
要は事務所にとってタレントが稼ぎ手になるわけだから、存分に仕事をしてもらわなくては生きていけない。ライオンのように次々と獲物を狩りに行くのと同じように、無理を押してでもどんどん仕事をとっていくようにさせている。「完璧主義」を演出するために過剰なサービス精神も強要させる。これでは、担当していた新米の芸能マネージャーが辞めていくことは致し方ない。
「マネージャーが次々と交代する」という実態は今に始まった話ではない。前出のAERA.dotによれば、過去にも同じ出来事があった。タレントの若槻千夏氏が23年間務めた所属事務所の『プラチナムプロダクション』を退所した時の話だ。事務所のパワハラ問題もざらにあるそうだ。
”おバカタレント”の異名を持ちながら、マネージャーへの暴言を繰り出すこと自体、滑稽なことだと思うのは私だけだろうか。
さらに、芸能事務所の組織体質にも問題があると指摘する元社員たちがいる。あるコンサルタントは職場の教育体制があまりにも酷かったことを物語っている。
タレントのプロ意識が高いことは立派なことだが、担当マネージャーへの度重なる暴言は人権意識の低さを表しているのではないか。転職サイトの求人内容ではいくら美辞麗句の言葉で並べられていても、現場の実態はタレントがマネージャーを罵る言動を行っていることがざらにある。枚挙に暇がないケースがあるなら、たとえ夢を持って芸能事務所のマネージャー職を就いても、すぐに辞めていくのは自明の理だ。
俳優・森崎めぐみの挑戦
我々が視聴するテレビに映る芸能界は一見華やかな世界に見える。だが、それは表向きの顔に過ぎない。煌びやかで楽しそうな業界に対する想像はふたを開けてみれば、根底から覆ることになるほど荒廃する職場だった。この状態が続けば、芸能当事者も関係者も疲弊していくばかりだ。エンタメの世界を志そうとする次世代の若者たちは変わらぬ業界の組織的構造に見切りをつけ、海外のエンタメ界に流出してしまう。才能も海外で花を咲かせることになる。そんな危機的状況を黙って見過ごせなかった一人の女性芸能人が立ち上がった。
俳優で日本芸能従事者協会の代表理事を務める森崎めぐみ氏が『芸能界を変える』(岩波新書)を上梓し、芸能業界が”無法地帯”と呼ばれるほどの惨状を克明に綴っている。フリーランスとして活動しながら、法整備の最前線に立つ。芸能従事者たちの人権を守るべく労働環境の改善に取り組んでいる。岐路に立つ芸能界の労働環境を変えるための”闘いの記録”であり、日本社会に対する問題提起の書でもある。
本書から着目すべきポイントを抜粋し、どのような実状なのかについて詳述することにする。
トイレがない
タレントにとって、安心安全に芸能活動を行う上で欠かせないことはトイレの存在だ。森崎氏はアンケート調査と現場の声を聞き取った結果、トイレのない場所が多いというのは問題だと指摘する。「トイレがないときはどうしているか」について、こう述べる。
衝撃の内容だ。トイレが無いことで様々な弊害を生んでいることは想像に難くない。芸能従事者のアンケート調査から「我慢した」「屋外でした」「近隣の民家で借りた」と答えた人の統計を合わせれば51.2%もいることが判明している。もしトイレを我慢し続けていれば、膀胱炎を頻回することになる。ひいては腎盂炎という重い病気にかかるリスクが高くなる。さらに、現場にいた経験のある芸能従事者から、トイレがないことの具体的な弊害について、次のような解答を述べる。
芸能人は映画やドラマなどの撮影でロケ地に行くことが多い。ただ、現地に行ってもトイレなどの衛生環境が乏しく、尿意を感じても恥たる想いをするや現場関係者から「我慢しろ!!」との恫喝がくるや、撮影途中で現場から逃避することが不可能ということだ。これでは安心して撮影現場に臨めるはずがないだろう。特に冬場は心身ともに凍てつく寒さを感じるため、体力的にも精神的にも辛い。トイレにも行けないとなると、なおさら病気にかかる危険性を孕んでいるのだ。タレントと芸能従事者はこの現実を真摯に受け止めるべきだ。
テレビが伝えない労働環境の劣悪さ
森崎氏は現場の声や労働に関する調査データから、テレビなどのメディアが絶対に伝えない労働環境の劣悪ぶりを明るみに出している。「トイレがない」という声の他にも、次のような問題が浮上している。
・更衣室が足りない
・食事がない。あったとしても質が悪く、栄養面が偏っている
・長時間労働が多い(特に芸能マネージャーなどの職)
こうした声が上がっていた。では、対策は行われているのか。答えはNOだ。森崎氏は「安全衛生の取り組み」についてアンケートをとったところ、次のような答えが返ってきた。
どうも日本社会は芸能の世界に属する人々を「労働者」と見なされていないようだ。このような事実に目を背けてはいけない。
因みに、森崎氏はテレビ局や撮影所に食堂がなくお弁当になる場合、偏食にならないよう、お弁当を遠慮してリンゴを一つ持参して済ますようにしていた。体型維持のために高カロリーの食べ物をできるだけ摂取しないようにしていたと言う。
横行するハラスメント
煌びやかに見える芸能界だが、実は日本の芸能人のハラスメントが諸外国と比べて横行しているという事実がある。先述の橋本環奈氏のパワハラ疑惑報道においても、コミュニケーションのトラブルが相次いでいる。それにもかかわらず、日本ではハラスメントへの対策を講じてこなかった。
諸外国では芸能人のハラスメントに関する実態調査を行っていた。その内容は次のように挙げている。
これらの調査から、世界中の芸能界でハラスメントが起こっていることは一目瞭然だ。被害後のダメージが深刻であり、精神疾患を患って芸能界を辞める人も多い。このような事態を撲滅するため、世界各国は早速対策に乗り出したのだ。森崎氏は世界各国で行われたハラスメント対策について次のように述べる。
世界各国で早急にハラスメント防止対策を実行したのに対し、日本は遅々として進まない。これは「芸能人は好きでやっている人たち」と見なされ、雇用された労働者の対象とならず、放置されたままになっている。特段、芸能人はフリーランスで活動しているため、ハラスメント対策から除外されている。これでは、芸能人はいつまで経っても泣き寝入りしたままでいると断定できないだろうか。ハラスメントや労働環境の悪化が目に見えているにも関わらず、「自己管理は当人の責任」として見なされ、おざなりにされている。森崎氏が不平不満を持つのは当然だといえよう。
日本の芸能におけるハラスメントの類型
日本の芸能界にはアンケート調査についてほとんど実施することがなかった。仕事上の守秘義務とされることが多く、アンケートがあっても回答を差し控えるような空気が蔓延していた。しかし、状況は一変した。インターネットの普及により、アンケート調査のやり方が格段に取りやすくなったからだ。個人情報を追跡できない設定のオンラインであれば、容易にアンケートに関するデータを収集することができた。したがって、現場で働く芸能人が他人に言えない悩みや困りごとの声を拾い上げ、データ分析で可視化することに成功したのだ。
日本の芸能界におけるハラスメントは大きく6つの類型に分かれていると森崎氏は詳述する。
一般の社会でもブラック企業で働く人の心理や職場は凄惨なものが多々ある。芸能界でも6つのタイプに分類されているハラスメントが横行している実情を考えてみると、同様に落胆するだろう。芸能の場に身を置く人々の救いを求めようとする声は貴重な証言になりうる。メディアの表向きでは明かされない燦燦たる現実を目にしても、関心を示さないのはなぜだろうかと思いたくなる。
森崎氏はハラスメントが一向に減少しない理由についてこう指摘する。
統計データからわかるように、相談先が限られていることにある。悩み事のほとんどを家族や友人に話す機会をつくった人は半分いるものの、人間関係や仕事に支障をきたすことを理由に相談をためらう人も半数以上いる。
私も抑うつ状態を経験したことがある。精神状態が不安定であり、日常生活を普段なく送れないのであれば、親身になって相談できる場所やコミュニティを活用したほうが身のためだ。
芸能人の苦悩
芸能人の中には仕事や人間関係の希薄、将来への不安を抱え込み、誰にも心の本音を開くことが出来ずに自ら”死”を選択する人がいる。森崎氏はこの問題についても深く言及している。
ここでは著名人の名前を挙げることはないが、芸能人の中には就業環境で慢性的なストレスを抱え込みながら、どこかに悩みを打ち明ける場所を求めていた。長時間労働や性的パワハラなどの原因で自ら命を絶つことを願望する人がいることを突き付けられた話だ。これに対し、芸能業界はタレントたちの声を聞かず、ひたすら成果を求め続けたのではないか。”過酷な環境や理不尽な想いに耐えることこそ一流になれる”という訳の分からない理屈がまかり通っていたのではないか。そんな気がしてならない。
4度のうつを経験した水道橋博士
貴重な一人の体験談を挙げよう。お笑い芸人の水道橋博士氏は過去に4度のうつを経験した。彼が精神的不調に悩まされるようになった原因は次の4つの通りだ。
① 原発問題の発言で批判を受け、沈黙を余儀なくされる
② 働きすぎ
③ 箕輪厚介氏との格闘技で前歯を3本折られる
④ 政治家としてのプレッシャー
直近で、博士氏が参議院議員時代に官僚から精神的負荷のかかる仕事を何とかこなしつつ、映画『福田村事件』の撮影で日本人同士の子どもを殺す役を演じることから脳のキャパシティーが限界を迎え、4度目の鬱病を発症した。政治家になる前はテレビやラジオの仕事で生計を立てていた。それがなくなり、無収入の状態で政治活動に臨んでいたそうだ。3人の子どもの父親であり、彼らの教育費を賄わなくてはならないという焦りとプレッシャーに耐え切れず、精神的な不安が付きまとうようになってしまった。
博士氏は幸いにも所属事務所があるため、主張する権利を持っている。だが、彼が属する芸能プロダクションもおそらく雇用関係になく、労災を申請することができないと思う。基本的に自身で仕事をとりにいくため、事務所が身の安全を保障するわけではない。
議員辞職後、鬱の影響で活動ができず、収入もない状態だった。希死念慮の一歩手前にまで追い詰められていた。しかし、書評や論考を書くなどして文筆業で糊口をしのいできた。また家族の献身的なケアと本業の応援に支えられ、命を繋いだ。現在は芸能稼業に復帰し、トークイベントを中心に活動している。不死鳥のごとく蘇ったのだ。
事故で大けがをした恩田恵美子
森崎氏は元俳優の恩田恵美子氏の話を取り上げて、芸能人たちの健康が蔑ろにされていることに落胆したと言う。
恩田さんの大けがの件でさえ労災認定されないのは遺憾だ。「俳優は労働者ではない」とみなされ、労災申請書を却下された形で泣き寝入りすることになった。
「芸能人は労働者ではない」は本当のことなのか。
弁護士法人浅野総合法律事務所の芸能従事者に関する記事によると、芸能人(タレント、俳優など)が「労働者」に該当するものとして4つの項目が挙げられるという。
・指揮監督下にあるか
・専属性があるか
・代替性があるか
・事業者性があるか
これらのうち、いずれかに該当しなければ「労働者」として認定されることは困難だ。タレントを扱う会社も業界内のルールや慣習を過信していると、労働法に基づく請求を受ける恐れがある。この法律の内容を理解しなくてはならない。4つの条件についての要点を順番に説明すると次の通りだ。
恩田恵美子さんはかつてエム・スリー(現・有限会社グルー)に所属していたことから、雇用された「労働者」として「専属性がある」と考えられる。しかし、2020年9月26日付の産経新聞によると、芸能プロダクションの労働契約の関係性について次のように詳述する。
「俳優などの芸能関係者はプロダクション会社などと雇用関係になく労災保険の対象外になるケースが大半」という事実はシンプルなものであろう。おそらく恩田さんの所属先の芸能事務所も労災保険の対象外となり、香盤長を示して申請しても「確固たる証拠ではない。」と断られたことになる。
労働基準監督署は「芸能人は労働者」の判別が難しいため、「芸能人は好きにやっている人たち」と一括りにして申請を退けているのではないか。特にフリーランスで活動する芸能人の場合は立場が弱く、労働環境に疲弊しながらどこにも相談できずに路頭に迷うことになる。
だが、芸能人はボランティア活動ではない。一般人と同じように給与を貰う「労働者」として事務所に所属しながら活動している。もちろん、各々のタレントと芸能マネージャーが仕事を取って稼いでいることは事実だ。ただ、芸能事務所の中には専属契約を結んでおり、給与制を採用する事務所もある。後者の場合は「労働者」として認定されても何ら問題がないはずである。万が一芸能人が事故によって怪我や病気を患うことになった場合、休業補償を貰うのは当然の権利といえよう。それを「芸能人は好きでやっている」とみなすのは「面倒だから」の一言で済まそうとしているのではないか。そうなれば、労働基準監督署側が現場の実態を知らないことに原因があるとの意味づけがなされることになる。
森崎氏は数々の芸能人たちが現場で「モノ扱い」され、疲弊していく様に直面してきた経験から労働法の整備を拡充するための活動を始めた。いわば、”働き方改革”の闘いはここから始まったのである。
これからの芸能界に望むこと
森崎氏は今後の芸能界をより働きやすい環境に整えるための提言をまとめている。まず、過労死を防止するために厚生労働省に働きかけて芸術・芸能分野の白書を作成することを求めたと詳述する。
2023年には過労死についての調査報告書がまとまった。報告書の中には「自由に働いているとは言えない」との声明文が記載されていたのだ。
「グレーゾーンに位置する」という点が重要な指標となる。曖昧な基準をどう判別するかにかかってくる。他にも、過度なうつ状態や過剰な心理的負荷などの項目が挙げられた。この白書に芸術・芸能分野の項目が含まれたことでより一層の改善が見込まれることを願うばかりだ。
そして、何よりも大切なことはフリーランスの人たちと芸能従事者たちが安心して働けるようにすることだと森崎氏は再三にわたって強調する。次の3つに分類される。
1. 正しい価値づけ
2. 徒弟関係の合理化
3. マネージメントのDX化
これらの働き方を重視していく必要がある。
”そんなら悩まずに前を向いていらっしゃい”
本稿を締めくくるにあたり、日々奮闘する芸能人たちに紹介したい言葉がある。文豪の夏目漱石の名言だ。
私が最も尊敬する政治学者の姜尚中氏は『漱石のことば』(集英社新書)を書いている。半世紀以上に渡って漱石文学を読み続けてきた姜氏は作中の登場人物の言葉から、現代に生きる我々に「生きる勇気」を与えてくれる名言を一つ一つ紹介している。最後の148番目の名言「そんなら死なずに生きて居らっしゃい」は示唆に富むものだと思う。
一見素っ気なさそう返し方に思えるが、夏目漱石が自身の小説で遺したこの言葉は鬱屈と不安が渦巻き、ますます先の見通せない時代を生きる我々に身にしみるような肯定的な意味を込めていると思う。
この言葉を言い換えて、すべての芸能人に言いたい。
「あなたは芸能界に入って、本当に幸せですか?」
もし「私は幸せです。」と応えたら、このように答える。
「そんなら悩まずに前を向いていらっしゃい」
<参考文献>
森崎めぐみ『芸能界を変える ーたった一人から始まった働き方改革』岩波新書 2024
姜尚中『漱石のことば』集英社新書 2016