諦めた

 インターナショナルスクール時代の記憶の中でもう一つ印象深いエピソードが残っている。それはとある発表会で、私がステージの前で「アメージング・グレース」を歌唱したことだ。
 当時のクラスの出し物としては、2つのことを行っていた。1つは「線路は続くよどこまでも」の英語版 I've been working on the Railroad、そしてもう1つは「アメージング・グレース」(Amazing Glace)の歌唱である。


  当時の私は高音の声がよく出ていたため、音楽の授業では歌唱力が良いと評価された。それがステージのセンターといえるポジションに抜擢されるとは想定していない。
 発表会では、洞窟で鉱石を掘削する作業員の格好に扮し、汚れた白シャツと青のつなぎを着て、泥だらけの顔で歌うというシーンだが、内心耐え難いものだった。回避傾向が強く、人前で恥を掻いたらどうしようかと悩んでいた。それでもやるしかない。先生の後押しもあった。本番では余計なことを考えずに、その場を演じ切って凌いだ。
 無事に終えて一息ついたものの、あまり晴れやかな気持ちになれなかったようだ。

 中学2年の中盤を過ぎたあたりから、卒業後の進路について考え始める時期に近づいてきた頃のこと。両親は別の高校のインターナショナルスクールに通うか、海外の高校へ留学するかを話し合っていた。
 実家がある街の近所の英会話教室に通っていた講師に相談したとき、留学を勧められた。場所はニュージーランドの高校。学園案内の地図も手渡された。

「その高校なら、充実した教育環境が整っています。気候も穏やか。幸せな生活を送れますよ。」

 確かに海外留学を経験すれば、世界への見聞を広めるきっかけになる。異国の地でしか体験できない文化や慣習を学習できるチャンスだと思った。しかし、その頃の私は不安に襲われた。親と離れることが考えられなかったからだ。むしろ私は逆に置き去りにされてしまうのではないかと勝手ながら思い込んでいた。
 それで私は、インターナショナルスクールの教務担当の先生に退学することを告げた。勉強がはかどらずついていくのに精一杯だったことも一因だった。警告を言い渡されるほどのクラスメートへの暴行も行っていたこともある。落ち着きのない私にとっては海外へ出ても落ちこぼれになるだけと思い返した。
 教務担当の先生とこのようなやり取りをした。

 先生 「あなたがこれまで努力してきたことが水の泡になるのよ。それでもいいの?」
 私 「もういいです。諦めました。」

 自分で物事を考えることができない私にとって、海外での学校生活はますます厳しくなるに違いない。異国へ行っても他人に迷惑をかけるだけ。孤立してしまうかもしれない。そんな思いにとらわれてしまい、海外留学を諦めた。
 自己判断だから仕方がない。能力不足を自覚したうえでしかない。

 こうして、私はインターナショナルスクールを去り、日本の学校に転校した。地元の横浜から少し離れた学校に通うことになった。留学の機会はもったいないと思ったが、心理的負担を軽くしたかったから致し方ない。

 学習レベルについていけなくなることを心配した母は、教頭先生と相談した上で中学3年から入り直し、10月に入学した。
 成績は相変わらず酷いものだ。英語はできても、国語や数学が全く歯が立たない。それだけ勉強することが何より嫌いだった。
 通学先は中高一貫校であるため、翌年はそのまま高校に進学した。担任の先生と話し合い、大学進学か就職を選択できる「普通」クラスにするか、大学入試の受験対策を視野に入れた「特進」クラスにするか、考えあぐねていた。

 この頃の私は将来についてどのように生きていたいか、全く先が読めない状況に立たされていた。なりたい職業がない。どう生きていきたいかも分からない。人生を決める大事な思春期に己の無力さを実感した。考えた末、自分の関心がどこにあるのかを大学で見つけられればよいと心に決めた。また同じクラスメートの友人が極めたい分野があると言って、大学へ行きたいと言ったことを耳にした。私も同調するように「特進」クラスを選択したのだった。

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ハリス・ポーター
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