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『イレーナ、永遠の地』試し読み

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イレーナ、永遠の地
[著]マリア・V・スナイダー
[翻訳]宮崎真紀


(以下、本文より抜粋)


 夜間外出禁止時間になってずいぶん経ってから、わたしは静まり返った城塞の通りを忍び歩いていた。全身黒装束に身を包み、人目につかないよう物陰からけっして出ない。犯罪者か何かみたいに、こそこそしなければならないなんて。通り沿いに並ぶ議員の屋敷はどこも人気ひとけがない。聞くところでは、《結社》が議員の安全のためシティア議会を別の場所に移したという。実際家々の窓に明かりは見えないけれど、用心して裏道に迂回する。動きはない。本当に家の中は空っぽなのか、それとも殺し屋が待ち伏せているのか?
 魔術が使えたら、迷う必要などないのに。でも、お腹の中の赤ん坊が魔力を遮断しているのだ。少なくとも、今はその説が有力だった。赤ん坊のことを考えると鼓動が速まる。とにかく気をつけろというヴァレクの声が頭の中でこだまする。大きく深呼吸して動悸を静めてから、建ち並ぶ家々の中ほどにあるバヴォル・ザルタナ議員の家に近づいた。
 街灯がついていないので、あたりは真っ暗だ。日なたに放置されて腐ってしまったゴミの臭いがたちこめていたが、ひんやりとした夜風が散らしてくれた。裏口の扉の脇にひざまずいて鍵穴を探り当てると、解錠道具を差し入れた。錠の中のピンがきれいに揃ったところでタンブラーを回し、台所に続くドアを開ける。前回来たとき、そこはとても明るく熱気と密林のスパイスの匂いであふれていたのに。今はしんと静まり返り、黴臭い。
 道具をしまって中に入り、右手に向かう。玄関先で立っていては、簡単に標的になってしまう。鼻をひくつかせ、香水や石鹸の匂いなど、誰かが暗がりで隠れている手がかりはないか探るが、埃の匂いしかしなかった。
 つまり、誰かいるとしても素人ではないということだ。今もわたしを暗殺しようと狙っているモスキートなら、そんな初心者級のミスはしない。当然ながらヴァレクはわたしをここに送り込むことに難色を示したが、人も手段も時間も限られているのだから同意しないわけにいかなかった。一方で彼は議事堂のバヴォルの執務室を探っている。ブルンズ・ジュエルローズと《結社》が議事堂に拠点を移したことを考えれば、ヴァレクのほうがはるかに危ない橋を渡っているのだ。
 わたしたちはどちらも、議事堂、魔術師養成所、四つの軍駐屯地すべての食事にまぜるだけの大量のテオブロマを《結社》がどうやって手に入れたのか、その情報を探している。テオブロマ入りの食事を口にした者はみな、《結社》の魔術師たちの魔術にやすやすとかかり、言いなりになって彼らの仲間入りをするのだ。
 これといって危険な兆候はなかったので家の中に入り、侵入者の形跡はないか、天井も含めあらゆる場所を確認した。異常なし。ずっと息を詰めていたが、カーテンを引くとやっと楽に呼吸ができるようになり、仕事に取りかかった。小さな角灯ランタンに火を入れ、バヴォルの執務室の引き出しを調べるところから始める。
 バヴォルは、シティア軍のためにテオブロマを大量生産する方法を探すという課題を与えられていた。最高司令官が何樽たる分ものキュレアを入手したと知ったとき、シティア議会は慌てた。キュレアは人を殺しはしないが、全身麻痺を引き起こす薬だ。その解毒剤として用いられるのがテオブロマで、摂取すると副作用で魔術に弱くなるのが難点ではあるが、身体が動かなくなるよりはましなので利用されている。また、イリアイス密林でしか育たず、生長がとても遅いという問題点もある。
 そう誰もが思っていたのだ。ところがブルンズと魔術師オーエン・ムーンは温室と接ぎ木の技術を活用して、テオブロマの生産量を増やしたばかりか生長速度を速めることにも成功した。だが、接ぎ木技術を誰から伝授されたのかは依然として謎だった。
 引き出しを調べ終えて戸棚に移る。植物の図解の入った紙ばさみがふたつあったので、手元に積んでおいた。最後に訪問したとき、確かにバヴォルの様子は少しおかしかった。リーフの魔力が妙な雰囲気を感じ取ったのだ。だが惜しむらくは、特に問いつめるようなことはしなかった。バヴォルがグリーンブレイド駐屯地に“配置”され、連絡が取れなくなってしまった今、ここで見つけ出す情報から、ブルンズがどこでどうやってテオブロマを入手したのか解き明かすしかなかった。
 集めた紙ばさみはかなりの量になったが、どこかに隠し文書が存在する可能性もあるので、居間と寝室もひと通り確認した。探せるだけ探したと納得したところで資料を抱えて裏口からそっと出ると、また鍵をかけた。闇に目が慣れるのを待つうちに、汗ばんだ肌が外気で冷えていく。外套は本部に置いてきた。今は暖かい季節の半ばで、夜になってもあまり気温が下がらなくなってきている。そのうえ妊娠三カ月半なので身体がほてっていた。
 すぐ横にとりわけ深い闇が現れた。本能的に脇によけた瞬間、何かがぎらりと光ったかと思うと、首の左横を鋭利な金属がかすめ、背後のドアにぶつかった。とっさに右側の地面に倒れ込む。闇は悪態をついて追ってきた。左腕に刃が滑り、思わず息を呑のむ。身を守るには、暗がりの奥へとひたすら転がっていくしかなかった。恐怖がわたしを急かす。
 ひと筋の黄色い光が暗がりを切り裂いた。襲撃者はなかなか準備がいい。光はわたしを探して地面を舐め、そして見つけた。こちらに的を絞らせるためにわざとしばらく光を浴びてから跳ね起き、その瞬間、クロスボウから矢が放たれるビュンという音がした。すぐそばで矢が跳ね、顔に石つぶてが飛んだ。危なかった。心臓が早鐘のように打っている。また矢が右脇腹をかすり、わずかに痛みが走ったが、刺さらなかっただけましだ。
 そこで第二の襲撃者が待ち構えていないことを祈りながら、路地の奥をめざしてジグザグに走る。三本目の矢がわたしをかすめていった。路地を出ると、もう物陰を伝うことも忘れて全速力で走りだす。肩越しに振り返ると、こちらをクロスボウで狙う人影があった。汗まみれの背中を悪寒が走る。さっと左に寄った瞬間、耳の横を矢が飛んでいき、顔にかすかに風を感じた。運がよかったのか、はたまた相手の腕が悪いのか、感心する暇もなく影の中に飛び込んで走り続けた。
 今にも肺が破裂しそうになり、やっとペースを落として物陰で足を止めると、かがみ込んであえいだ。今も体力を維持し続けているなんて、もうとてもいばれない。おまけにわたしは赤ん坊の分、体重が増えている。そう考えたとたん改めてぞっとし、脇腹の傷に触れて深さを確かめた。ほんのかすり傷だったので、胸を撫で下ろす。するとほかにも傷を負っていたことを思い出し、急にあちこち痛くなってきた。首の傷は浅かったが、腕のそれは塞ぐ必要がありそうだ。力が抜けて、つかのま壁にもたれかかった。自分のだけでなく、赤ん坊の命も危なかったのだ。
 ようやく動けるようになったとき、まだ大事に抱えていたバヴォルの資料を見て笑いそうになったが、こらえた。《結社》が戒厳令を布しいて城塞に夜間外出禁止令を発令して以来、見回りをする兵士の数がぐんと増えたのだ。連中を避けるため、できるだけ遠回りして本部に戻った。もちろん尾行にも注意して。隠し扉をノックするころには、城塞の白大理石を夜明けの光が照らしていた。扉を開けた助っ人組合ヘルパーズ・ギルドの一員のヒリーは、わたしの惨状を見たとたん眉を吊り上げた。
「いろいろあって」わたしは言った。
 ヒリーはにやりとした。「ヴァレクが戻ってきたら、わたしよりもっと驚くわね」
 嘘でしょう? 「ひょっとしてヴァレクは……」
「一時間ほど前に戻ってきて、あなたがまだ帰らないと聞くとまた飛び出していったわ」
 わたしはしゅんとした。
 ヒリーがこちらを気の毒そうに見た。「元気出して。まず治療師ヒーラーを起こすわ。それから、ヴァレクが帰ってくる前に身体をきれいにしましょう」
 ヒリーに続いて本部の建物に入る。助っ人組合の本部として使っていた建物は《結社》に接収されてしまったので、組合代表のフィスクは、城塞の北西区画の奥まった場所に空き家を見つけ、そこを臨時本部とした。《結社》の勢力拡大を食い止めようとしているわたしたちに、今では組合員たちも協力してくれている。いわばレジスタンスだ。
 一階の大部分は寝床が占めている。組合員の年齢構成は六歳から十八歳と幅広いが、部屋にぎゅう詰めでも気にせず、中には大喜びでひとつのベッドを複数で共有する者もいる。一階の残りの部分は特別広い厨房だ。二階と三階にはフィスクの部屋と執務室、ヴァレクとわたし用の狭い続き部屋、それにぞくぞくと集まってきている仲間のための客間が複数ある。ストームダンス族領にある農場は、体力の回復を待ちながら計画を練るには便利だったが、やはりブルンズの近くにいる必要があると判断するに至ったのだ。
 治療師は、最近魔力が使えるようになった十六歳の少年チェイルだ。魔術師養成所の魔術師は全員《結社》に徴兵され、駐屯地に送られてしまったので、わたしとヴァレク以外に魔力の使い方を教えられる者はいない。わたしは三カ月前に魔力を失ったとはいえ、養成所で習ったことはまだ忘れていなかった。一方ヴァレクはついこのあいだ魔力に目覚め、危うく“燃え尽きフレームアウト”を起こしかけた。下手をしたら全員死ぬところだったのだ。だから今は魔力の制御方法を完全に会得するまで、使うのを躊躇している。理想的な状況とはとても言えないが、やるだけのことはやるつもりだ。
 肌着姿で厨房のテーブルに座っているわたしの傷を、チェイルが洗浄する。おずおずと手を動かす図体の大きな若者は、不器用を絵に描いたようだ。もじゃもじゃの黒髪の中からようやく目がのぞき、ばっさり切ってあげたくなる。思ったとおり、腕の傷は絆創膏を貼るだけでは足りなかった。少なくとも、魔術でそれを治す手順を教えることで、痛みから気を紛らすことができた。チェイルは、わたしにじかに触れさえしなければ、魔力の毛布から引き出した糸で傷を縫うことができた。
「魔力を引き出し続けないと縫えないな」チェイルが困ったように言った。「何かが糸を引っぱろうとする。そういうものなんですか?」
「いいえ。たぶんわたしの魔力を遮断しているのと同じものが、あなたの魔力を抜き取ろうとしているの。少なくとも今は、それが原因だと思う」
「つまり、赤ん坊ですか?」
 わたしはチェイルを見つめた。わたしの妊娠について知る者はそう多くない。
 チェイルは赤面した。「すみません。僕はただ――」
「謝らなくていい。あなたは治療師だもの、赤ん坊のことがわかっても不思議じゃない」
「赤ちゃんは元気ですよ、気休めかもしれないけど」
「気休めでもかまわない」戸口からヴァレクの声がした。まだ身体にぴったりした密偵用の黒装束姿だ。それを着ていると筋肉のしなやかさがいっそう目立つ。「母親のほうも元気なのかな?」
 サファイアブルーの瞳が一瞬鋭く光ったが、チェイルは気づかなかったらしい。
「もちろんです。かすり傷が二、三カ所あるだけですよ」その軽い口調のおかげで傷の程度も軽く聞こえた。言葉とは裏腹に、本当はもっとひどいと気づいていたはずだけれど。「治療はまもなく終わります」
「よかった」ヴァレクは言ったが、その視線がわたしの目を刺し貫く。
 彼の厳しい顔は無表情だが、渦巻く感情を無理に抑えつけていることはすぐにわかった。捕食動物を思わせる優美だが危険な足取りで、ヴァレクはわたしの横に来た。チェイルの治療が終わるとすぐ、わたしの指に指を絡めた。浅い傷は絆創膏で充分だった。擦り傷ぐらいでチェイルの魔力を無駄使いさせたくない。今夜にも、組合員の誰かのために彼の力が必要になるかもしれないのだ。
 わたしが血で汚れた破けたチュニックをそっと身につけるあいだは、ヴァレクもわたしの手を離した。無残な有様の生地を無言で眺めている――これもまたお説教のネタになりそうだ。でもそのころには厨房も朝食のために集まってきた人々で騒がしくなり、まもなくできたてのパンケーキが目の前にどっさり置かれた。急にお腹が鳴りだした。さすがのヴァレクにも、食べ物を前にした妊婦を遮る勇気はないようだ。わたしがお腹いっぱいになると初めてヴァレクはわたしの手を取り、立ち上がらせた。
「上の階に行こう」
 満腹になったおかげでだいぶ気分もよくなり、ヴァレクに続いて三階に上がると、部屋に入った。ヴァレクがドアを閉めたところで、これから聞くことになるお説教に身構える。でも彼はすぐにわたしを抱き寄せた。胸に頭をもたせて心臓の音を聞き、ぬくもりに包まれると、ほっとする。ヴァレクはわたしより二十センチ背が高い。知り合ってからもう八年になるのに、彼は今もわたしを失うことを何より恐れている。「何があったの?」
 ヴァレクは身体を離し、わたしの首の絆創膏に親指でそっと触れた。「モスキートが町にいることがわかった」
 なるほど。
「やつに襲われたのか?」
「暗くてよく見えなかったけれど、まず首を狙われた」モスキートはいつも、相手の頚動脈にアイスピックを突き立てて失血死させる。
「何があったか話してほしい」
 襲撃のことと、戻るのが遅くなった理由を詳しく話す。「でも紙ばさみは手放さなかった。議事堂のほうは? 何かわかった?」
「バヴォルの執務室で期待の持てそうな資料をいくつか手に入れたが、それ以上に気になるのは、ブルンズとその取り巻きが廊下で話していたことのほうだ」
 ぎょっとして後ずさりした。「まさか――」
「大丈夫、わたしがいたことは気づかれていない。だが、あれが聞けたんだから危険を冒した甲斐があった」
「モスキートについて?」
「そうだ。そしてブルンズは君が城塞内にいることを知っている。君を殺した者に多額の報奨金を出すと、暗殺者たちに情報を流したらしい」
 驚くことではない。「いくら?」
「イレーナ、問題はそこじゃない」
「わたしの首に賞金が懸かったのは今度が初めてじゃないわ」六年前、シティア議会を乗っ取ろうとしたローズ・フェザーストーン魔術師範は、わたしを捕らえた者に金貨五枚を与えると宣言した。
「あのときとは違う。今の君は……魔力を失って、攻撃に弱い。それにもはやブルンズひとりの問題ではなくなっている。ベンやロリスの死、クリスタル族の駐屯地からわれわれが逃げたことも、自分への侮辱だと考えているんだ。君はストームダンス族領の農場に戻ったほうがいい。あそこのほうが安全だ」
「じゃああなたは? 今あなたは、われわれが逃げたことと言った。あなたにも賞金が懸けられたの?」
「いや」
「どうしてわかるのよ?」
 ヴァレクは部屋の中を行ったり来たりし始めた。いかにもいらだたしげなその足取りから考えて、もっと悪い知らせを伝えようとしているらしい。
 ヴァレクは立ち止まった。「ブルンズは、君を殺した者に金貨を五十枚出すそうだ」
 それは大金だ。わたしはヒュウッと口笛を吹き、それから彼をじろりと見た。「わたしの質問に答えてないわ」
 ヴァレクはまた顔をしかめ、それから降参というように肩を落とした。「ブルンズはアンブローズ最高司令官と接触し……」そこで言葉を切る。「最高司令官はわたしを暗殺するためにオノーラを送ることを承諾した」


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【著者紹介】
マリア・V・スナイダー MARIA V. SNYDER
ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれ育つ。気象学に興味を持ち、大学に進んで学士を取得。その後、気象学者となったのち小説家に転身した。毒見役の少女イレーナが主人公となる著者の処女長編『毒見師イレーナ』はNYタイムズベストセラーリスト入りを果たし、一躍人気作家の地位へと彼女を押し上げた。


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◇運命の物語はここから始まった……。
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