Netflixドラマの前にチェックせよ!【50ページ無料試し読み大公開】”背筋に来る”ベストセラー・ミステリー『チェスナットマン』
こんにちは。ハーパーBOOKS編集長のOです。
7月の発売以来、各方面から大反響をいただいている話題のミステリー『チェスナットマン』、もう読まれましたか?
著者は、デンマーク史上最高視聴率を記録しアンデルセン以来の世界的大ヒットとなったドラマ『THE KILLING』の制作・脚本を手がけるセーアン・スヴァイストロプ。
北欧ならではのエグさ、ダークさ全開、かつどんでん返しが「マジですか!?」というイケずなドラマ『THE KILLING』といえば、海ドラファンの私もご多分に漏れずハマった、めちゃめちゃオススメのシリーズなのですが、そのセーアンさんが小説家デビューすると聞いて、いても立ってもいられず版権獲得に動いたのが本作『チェスナットマン』です。
2018年にデンマークで刊行されるや世界各国で翻訳版が出版され、バリー賞最優秀新人受賞受賞、CWA(英国推理作家協会賞)ノミネート、「ニューヨーク・タイムズ」「カーカス」「ライブラリー・ジャーナル」のベストブック・オブ・ザ・イヤー選出など、華々しい実績を残している本作。
「1ページ目から鷲掴み! リアルな登場人物、秘密と欺瞞に満ちたストーリーに巻き込まれ、ラストまで目が離せない。警察小説としても第一級。 今年の本命作品」――ジェフリー・ディーヴァー
「ジョー・ネスボのような北欧ノワールを求めるなら本作で決まり。短い章立てで畳みかけられるツイストとトリックの連続に一読み必至」 ――タイムズ誌
「スティーグ・ラーソンを思わせるアドレナリン全開のスリラー。一言一句見逃せない」――A・J・フィン
と、あのディーヴァーを筆頭にミステリ通からの絶賛も集める超注目株なんです。
タイトルの「チェスナットマン」はデンマークではよく知られた栗の人形のこと。彼の地では子供たちが遊ぶもののようで、チェスナット(栗)にマッチ棒を挿して作るのが一般的みたいですね。検索すると、こんなかわいらしい画像がたくさんヒットします(お盆にお供えする、なすやきゅうりの人形を思い出したのは私だけでしょうか)。
© Gaby Kooijman | Dreamstime.com
そんなかわいらしい栗の人形が悪夢のような事件のキーになるあたり、イケずな『THE KIILING』を創ったセーアンさんだけあります。
ドン!
あれからこれ🌰 ギズモ⇒グレムリンみたいです。ちなみに表紙の怖~い栗人形はデンマークのブックデザイナーさんによる渾身の作品をお借りしたものです。
この栗人形=チェスナットマンがどうストーリーに関わってくるかというと、
コペンハーゲンで若い母親を狙った凄惨な連続殺人事件が発生。
被害者は身体の一部を生きたまま切断され、
現場には栗で作った小さな人形“チェスナットマン”が残されていた。
人形に付着していた指紋が1年前に誘拐、殺害された少女のものと知った
重大犯罪課の刑事トゥリーンとヘスは、服役中の犯人と少女の母親である
政治家の周辺を調べ始めるが、捜査が混迷を極めるなか新たな殺人が起き――。
プロローグから背筋に来ます。正直怖いです。それでもページを繰る手が止まらないのは、短い章立てで次々謎と手がかりが提示され、気づくとすっかり作者の掌中にはまっているから。そしてその振り回される感覚が、スピーディーでピリッとしていて快感なんです。
IT犯罪を扱うエリート課への異動を狙っているシングルマザーの刑事トゥリーンと、ユーロポールから訳ありで出向させられてきた刑事へス。相棒(バディ)小説の対極のごとくかみ合わない2人がそれぞれ異なる角度から掘り下げていく捜査が終盤に向け交錯しはじめた時――この先は、ぜひ本編でご確認ください。
Netflixのオリジナルシリーズとしてドラマ化&グローバル展開が決まっていた本作。先日ついに9/29(水)配信とNetflixからもアナウンスが出ました。
個人的にはぜひ読んでから観てほしい1作。この事件をどうやって映像化するのか、原作を読むとすごく気になって、観てから読むより絶対二度おいしいと思います。
今回、ドラマ配信決定を記念してドドンと本編より50ページの試し読みを公開しましたので、ぜひこちらから👇覗いていってくださいね!
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『チェスナットマン』セーアン・スヴァイストロプ[著] 高橋恭美子[訳]
一九八九年 十月三十一日
1
赤や黄色に染まった木の葉が日差しのなかを舞い降りて、濡れたアスファルトの上に落ちる。穏やかな黒い川のように森を抜けるその道を、白いパトカーが猛スピードで通過すると、落ち葉は一瞬だけ宙に舞いあがり、やがてべっとりとしたかたまりになって路肩にたまってゆく。カーブに近づいたのでアクセルペダルから足を離してスピードを落としながら、マリウス・ラーセンは、清掃人をここへ派遣する必要があると役所に伝えることを頭にメモする。落ち葉をあまり長く放置しておくと路面が滑りやすくなり、こうしたことはへたをすれば人命にかかわる。そういう例をマリウスはこれまでに何度も見てきた。警察にはいって四十一年、そのうち最後の十七年は署の管理職を務めてきたので、毎年秋が来るたびにこの件で役所の尻をたたかねばならない。だが今日はちがう─今日は例の会話に気持ちを集中させなければならないのだ。
いらいらしながらカーラジオの周波数をいじくるが、求めているものは見つからない。聞こえるのはゴルバチョフとレーガンに関するニュースとベルリンの壁崩壊にまつわる推測ばかり。それは目前に迫っているという。まったく新しい時代の幕開けになりそうだと。
その会話が避けられないことは少し前からわかっていたが、どうしても勇気を奮い起こすことができなかった。妻が思っているマリウスの引退時期まであと一週間もない。となれば、そろそろ本当のことを告げる潮時だろう。仕事をしない暮らしなど考えられないと。あれやこれやの現実的な問題に対処しているうちに決断を先延ばししてきたのだと。コーナーソファにどっかりすわって『ホイール・オブ・フォーチュン』を観たり、庭の落ち葉を掃いたり、孫たちとババ抜きをして遊んだりする心の準備はできていないと。
頭のなかでその会話をおさらいすると簡単そうに思えるが、妻が動揺することはわかりきっている。彼女はがっかりするだろう。テーブルから立ちあがってキッチンでガスコンロをごしごし磨きはじめ、そしてこちらに背を向けたまま、わかったわ、と言うだろう。だが本心ではない。そんなわけで、十分前に無線で連絡がはいったとき、マリウスは自分が対応すると署に伝え、妻との会話を少しだけ先送りした。普段なら、農場の家畜にもっと目を配るよう注意するためだけに野原や森を抜けて、はるばるオーロム農場まで行くのかと思うと気が重い。柵を壊して逃げだした牛や豚が近隣住民の土地をうろついているのを、マリウスや部下の誰かが出向いてオーロムに事態を収拾させてきたことはこれまでも何度かあった。だが今日は気が重くない。当然ながら、署にはまず本人に連絡してみろと伝え、オーロムの自宅と、彼がパートタイムで働いているフェリーターミナルに電話をかけさせたが、どちらも応答がなかったので、マリウスは幹線道路をはずれて農場に向かっているのだった。
マリウスはデンマークの懐メロをかけている局を見つける。『真っ赤なゴムボート』が古いフォード・エスコートの車内に流れると、音量をあげる。秋の景色とドライブを彼は楽しんでいる。黄色や赤や茶色の葉っぱが常緑樹とまじりあう森。狩猟シーズンへの期待、それはいままさにはじまろうとしている。車の窓を開けると、梢を通して差しこむ木漏れ日が路上にまばらな光を投げかけ、マリウスはつかのま歳を忘れる。
農場は静まり返っている。車から降りてドアを閉めながら、最後にここを訪れてからずいぶん時間がたっていることに気づいて驚く。広い敷地は荒れているようだ。家畜小屋の窓には穴があいていて、母屋の壁の漆喰はめくれて筋ができているし、伸び放題の芝生に置かれた空っぽのブランコは敷地を取り囲むように生えている何本もの大きな栗の木にのみこまれそうになっている。砂利の敷かれた庭には葉っぱと落ちた栗の実が散らばり、それを靴で踏みつぶしながら、マリウスは玄関まで行ってドアを叩く。
三回ノックして、オーロムの名を呼んだあと、応答する者はいないのだと悟る。人のいる気配がないので、メモ帳を取りだし、伝言を書いて郵便受けに滑りこませていると、カラスが数羽庭を横切り、納屋の前にとめられたファーガソン社製のトラクターの陰に消える。はるばるここまで出向いてきたのは無駄足だったとなれば、フェリーターミナルに寄ってオーロムをつかまえるしかなさそうだ。だが気が滅入ったのはつかのまで、車に引き返す途中である考えがひょいと頭に浮かぶ。マリウスにはめったにないことで、してみると、あのまま自宅へ帰って例の会話をはじめるのではなくここへ車を走らせたことは、思いがけない幸運だったにちがいない。切り傷に絆創膏を貼るように、妻にベルリン旅行を提案するのだ。一週間ばかり出かけてもいい─まあ、せめて週末だけでも、そう、休みがとれたらすぐに。自分たちで車を運転していき、歴史が作られるところを─新しい時代とやらを─この目でしかと見届け、茹で団子やザウアークラウトを食べよう、大昔に子供たちを連れてハルツ山地へキャンプ旅行をしたときのように。車まであと少しというところで、カラスがトラクターの陰に集まっている理由がわかる。カラスたちはなにか不格好な青白いものの上で飛び跳ねており、少し近づいてみてようやく、それが豚だとわかる。豚の目は死んでいるが、体はぴくぴく動いたり震えたりしている。銃で撃たれた後頭部の傷口をついばむカラスどもを追い払おうとするかのように。
マリウスは家に引き返して玄関のドアを開ける。廊下は薄暗く、じめじめした黴のにおいと、ほかにもなにか形容しがたいにおいが鼻をつく。
「オーロム、警察だ」
返事はないが、家のどこかで水の流れる音がするので、キッチンに足を踏み入れる。その少女はティーンエイジャーだ。十六か、十七か。テーブルのそばの椅子にすわったままで、破壊された顔の残骸がオートミールのボウルのなかに浮いている。テーブルの反対側で、リノリウムの床に息絶えた身体がもうひとつ。やはり十代の少年で、こちらのほうが少し年長、胸に銃弾を受けた痕がぱっくり口を開き、後頭部が妙な角度に傾いてオーヴンに寄りかかっている。マリウスは硬直する。もちろん死体を見たことはあるが、こんな状態のものははじめてで、一瞬、身体が麻痺してしまい、それからようやくベルトにつけたホルスターから拳銃を抜く。
「オーロム?」
マリウスはオーロムの名を呼びながら、今度は拳銃を持ちあげて、家のさらに奥へと進む。まだ返事はない。浴室のなかで次の遺体を発見し、このときは吐き気がこみあげて思わず口に手を押し当てる。水が流れているのは浴槽の蛇口で、とうに縁まで達している。あふれだした水は人造大理石の床から排水口へと流れ、血とまざり合う。全裸の女性─おそらく十代の子供たちの母親─のねじれた身体が床に横たわっている。片腕と片脚は胴体から離れている。のちの検死報告書で、彼女が斧で繰り返し襲われたことが明白になるだろう。最初は浴槽のなかで横たわっているときに、そして床を這って逃げようとしたときに。手と足で身を守ろうとして、それでその部分がすっぱり切られたことも立証されるだろう。顔は判別不能で、斧は頭蓋骨を陥没させるのにも使われている。
その光景にマリウスが硬直せずにすんだのは、視界の隅にかすかな動きをとらえたからだ。浴室の隅に落ちたシャワーカーテンの下に半ば隠れているが、人影が見分けられる。おそるおそる、マリウスはカーテンを少しめくる。少年だ。くしゃくしゃの髪、歳は十か十一くらい。血のなかでぴくりとも動かず横たわっているが、カーテンの端が少年の口にかぶさったまま、小さく不規則に震えている。マリウスはすぐさま少年の上に身をかがめて、カーテンをはぎ取り、力のはいらない腕を持ちあげて脈をさがす。両方の腕と脚に切り傷やひっかき傷があり、着ているTシャツと下着は血まみれ、頭のそばには斧が落ちている。脈を見つけて、マリウスはすかさず立ちあがる。
居間へ行き、吸い殻のたまった灰皿の横にある電話機に飛びつくと、勢いあまって床にはたき落としてしまうが、署に電話がつながるころには、頭は冷静で、理路整然と指示を与えることができる。救急車。警察官。大至急。オーロムの痕跡なし。仕事にかかれ。いますぐ! 電話を切ってまず考えたのは急いで少年のところへもどることだが、そこで不意に思いだす。たしかもうひとり子供がいるはず─あの少年には双子の妹がいる。
マリウスは玄関ホールと二階へ続く階段のところへ向かう。キッチンと、地下室に通じる開いたドアの前を通り過ぎ、足をとめる。物音がした。足音か、なにかがこすれる音か、でもいまは静かだ。マリウスは改めて拳銃を抜く。ドアを大きく開き、忍び足で慎重に細い階段を下りていくと、やがてコンクリートの床にたどりつく。しばらくして暗闇に目が慣れると、廊下の突きあたりに開いたままの地下室のドアが見えてくる。身体は躊躇し、ここでやめろ、救急車と同僚たちの到着を待つべきだ、と告げている。だが少女のことが気にかかる。ドアに近づくと、こじ開けられているのがわかる。錠とボルトが床に落ちていて、部屋にはいると、照明は上部の煤けた窓から差しこむわずかな明かりしかない。それでも、片隅にあるテーブルの下にもぐって隠れている小さな人影は見分けられる。急いで駆け寄ると、拳銃をおろしてしゃがみこみ、テーブルの下をのぞきこむ。
「大丈夫。もう終わったんだ」
顔はわからないが、少女はこちらを見ようともせず、震えながら部屋の隅にうずくまっている。
「おじさんの名前はマリウスだ。警察の人間で、きみを助けにきたんだよ」
その声が聞こえもしないのか、少女はおどおどしてその場から動かず、ふとマリウスは部屋の様子に目をとめる。一瞥しただけで、そこがどんな目的に使われていたのかを理解する。ぞっとする。それから、ドアの向こうにある隣の部屋の曲がった木の棚が目にはいる。その光景に思わず少女のことも忘れて、マリウスはドアのほうへ向かう。いったいいくつあるのかわからないが、肉眼ではとても数えきれないほどの数だ。栗人形、男と女の。動物も。大きいのや小さいの、子供らしいものもあれば、不気味なものもある。その多くは未完成で、手足がそろっていない。マリウスはそれらを凝視する、その数と種類を。棚に並んだ小さな人形たちに胸がざわついたそのとき、背後のドアから少年がはいってくる。
とっさに、忘れないように鑑識を呼ばなければと考える。地下室のドアが壊されたのは内側からか外側からか。家畜が囲いから逃げたように、恐るべき怪物が逃亡したのかもしれないとの考えが浮かぶが、少年のほうを振り向いたとき、そうした考えはたちまち消え失せる。天国を通過する小さな迷える雲のように。そして斧がマリウスのあごを叩き割り、世界は闇になる。
十月五日 月曜日
2
その声は暗闇のいたるところにある。それは優しくささやき、彼女をからかう。彼女が倒れるときをとらえ、風のなかで彼女を振り向かせる。
ラウラ・ケーアにはもうなにも見えない。木々の葉のざわめきも聞こえなければ、足元の冷たい草も感じない。残っているのはその声だけで、それは棍棒が振りおろされる合い間にささやき続ける。抵抗するのをやめればその声も静かになるかもしれないと彼女は考えるが、そうはならない。ささやきはやまず、殴打も同様、そしてとうとう彼女は動けなくなる。もう手遅れだ。のこぎりの鋭い歯が手首に当たるのを感じ、意識を失う前に、のこぎりの刃の機械音と骨が切断されていく音が聞こえる。
どれくらい意識を失っていたのかわからない。闇はまだそこにある。声もしかり、彼女がもどってくるのをずっと待っていたみたいに。
「大丈夫かい、ラウラ?」
その声は穏やかで愛情にあふれ、あまりにも耳の近くで聞こえる。でもその声は返事を待たない。一瞬、口を覆っていたものがはがされ、ラウラは懇願し訴える自分の声を耳にする。なにもわからない。なんでもする。どうしてわたしが─わたしがなにをしたの? よくわかっているはずだ、と声が言う。声がすぐ近くまでおりてきて耳元でささやく。その声がまさにこの瞬間を楽しみに待っていたことがわかる。言葉を聞き取るのに意識を集中しなければならない。その声の言うことを彼女は理解するが、とうてい信じられない。そのときの苦痛は身体の傷の痛みよりはるかに大きい。そんなはずはない。そんなことは絶対にありえない。彼女はその言葉を押しのける、それが自分を暗闇にのみこむ狂気の一部であるかのように。立ちあがって抵抗を続けたいけれど、身体が言うことをきかず、彼女は激しく泣きじゃくる。本当は少し前からわかってはいた。でもどんなふうにかは─そしてようやく、声が耳元にささやきかけるうちに、それが事実であることを彼女ははっきりと理解する。声をかぎりに叫ぼうとするが、内臓はすでに喉元までせりあがっている。棍棒が頬をなでるのを感じると、彼女は渾身の力で前へ突き進み、よろめきながらいっそう深い闇のなかへとはいってゆく。
十月六日 火曜日
3
外ではようやく空が白みはじめるころだが、ナヤ・トゥリーンが手を下に伸ばしてそれを自分のほうへ誘導すると、徐々にではあるが、彼は眠りから目覚めてくる。自分のなかに彼がおさまるのを感じて、彼女は身体を前後に揺すりはじめる。両肩をつかむと、彼の手も目覚めるが、動きはゆっくりで、ぎこちない。
「ちょっと、待って……」
彼はまだ寝ぼけているが、トゥリーンは待たない。これが目覚めたときに欲するもので、彼女はますます熱心に動き、片手を壁について、いっそう激しく身体を後ろに滑らせる。彼がぶざまに寝ころがっていることも、その頭がヘッドボードにぶつかっていることもわかっているし、ヘッドボードが壁にぶつかっている音も聞こえているが、彼女は気にしない。相手が降参して受け入れるのを感じながら動き続け、彼の胸に爪を立てて絶頂に達し、ふたりの身体が同時に硬直するとき、彼の苦痛と悦びを感じ取る。
次の瞬間、彼女は横たわって息を切らしながら、建物の裏手の中庭から聞こえるごみ収集トラックの音に耳をすましている。それから、彼の両手が背中をなで終わるのを待たずに身体をころがしてベッドから出る。
「あの子が目を覚ます前に帰ったほうがいいわ」
「どうして? ぼくがここにいるのをあの子は喜んでるよ」
「いいから。起きて」
「ふたりでうちに越してくればいいのに」
彼女が彼の顔に向かってシャツを放り投げ、浴室に姿を消すと、彼はにっこり笑って枕に背中を預ける。
4
十月最初の火曜日。ようやく秋がやってきたというのに、今日は街の上空に低い天井を思わせる暗い灰色の雲が垂れこめ、雨が降り注ぐなかでナヤ・トゥリーンは車から飛びだして往来を駆け抜ける。携帯電話が鳴っているのは聞こえているが、コートのポケットに手を入れて取りだそうとはしない。片手は娘の背中に押し当てている。娘をせかしてラッシュアワーの渋滞のわずかな隙間を通り抜けられるように。けさは忙しかった。リーはもっぱらオンラインゲーム〈リーグ・オブ・レジェンド〉の話に夢中で、まだ幼すぎてなにもわからないくせに、このゲームのことならなんでも知っていて、〝パク・スー〟という名の韓国人プロゲーマーを自分の偉大なヒーローとして挙げた。
「長靴を持ってね、公園に行くかもしれないから。それと忘れないで、おじいちゃんが迎えにいくけど、道路を渡るときは自分でたしかめること。左を見て、右を見て、それから─」
「もう一回左、それにジャケットも忘れずに着ること、反射してちゃんと人から見えるように」
「じっとして、靴紐を結んであげるから」
学校に着いたふたりは自転車置き場の屋根の下にはいり、トゥリーンがしゃがみこむと、リーはブーツで水たまりのなかに立とうとする。
「あたしたちいつセバスチャンのとこにお引っ越しするの?」
「セバスチャンのところに引っ越すなんて言ってないでしょ」
「セバスチャンは夜うちにいるのに、どうして朝はいないの?」
「大人は朝忙しいの、セバスチャンだって急いで仕事に行かなくちゃならないし」
「ラマザンのとこは弟が生まれたから家系図の写真は十五枚になったよ。うちは三枚しかない」
トゥリーンはちらりと娘を見あげ、小さなかわいらしいファミリーツリーの列を呪う。教師が紅葉で飾りつけて教室の壁に貼りだしたのだ、保護者や子供たちが足をとめてじっくり見られるように。とはいえ、リーが当然のように〝おじいちゃん〟を家族の一員に数えていることはいつもありがたいと思う。厳密に言うと祖父ではないのだが。
「そんなことは問題じゃないの。それにうちだってファミリーツリーに写真は五枚あるでしょ、セキセイインコとハムスターも数に入れれば」
「みんなのファミリーツリーには動物なんていないよ」
「そうね、ほかの子供たちはそんな幸運に恵まれてないってこと」
リーが返事をしないので、トゥリーンは立ちあがった。
「たしかにうちは大家族じゃないけどわたしたちはちゃんとうまくやってるし、大事なのはそこ。わかった?」
「じゃあ、インコをもう一羽飼ってもいい?」
トゥリーンは娘をじっと見つめ、どうしてこんな話になったんだろうと考える。娘は自分が思っているより賢いのかもしれない。
「その話はまた今度ね。ちょっと待って」
携帯電話がまた鳴りだしている、今度は出ないわけにいかないだろう。
「あと十五分で行きますから」
「急がなくていいですよ」電話の向こうの声が言い、ニュランダの秘書のひとりだとわかる。「ニュランダは、けさはあなたと会う時間がとれなくて、ミーティングは来週の火曜日になる予定です。でも、今日は新しく来る人の面倒をみてほしいと伝えるように言われてます。彼がここにいるあいだなにかの役に立つように」
「ママ、あたしラマザンと一緒に行くね!」
トゥリーンは娘がラマザンとかいう少年のところへ駆けていくのを見送る。リーはそのシリア人一家のほかの家族ともごく自然になじんでいる。女性と、生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱いた男性と、ほかにも子供がふたり。トゥリーンの目には、その一家は女性誌に掲載される理想の家族特集から抜けだしてきたように映る。
「でもニュランダが予定をキャンセルしたのはこれで二度めよ、五分もあればすむ話なのに。いまどこにいるの?」
「たぶん予算委員会に向かっているところでしょう。あなたがどういう話をしたいのか事前に知りたがっていますよ」
一瞬、自分が重大犯罪課、通称〝殺人課〟で過ごしたこの九カ月がどんなふうだったか、警察博物館を訪れてどれほど興奮したか、そんな話だと秘書に告げようかとも思う。いまの任務には飽き飽きしている、警察のテクノロジーのレベルはコモドール64(一九八二年にコモドール社が発売した8ビットホームコンピューター)に毛の生えた程度で、自分はもっと先へ進みたくてうずうずしているのだと。
「たいした話じゃないの。じゃ失礼」
トゥリーンは電話を切り、校舎に駆けこんでいく娘に手を振る。雨がコートにしみこんでくるのを感じて、道路のほうに向かいながら、このミーティングはとても火曜日まで延ばせないと思う。行き交う車のあいだを縫い、自分の車に着いてドアを開けながら、不意に誰かに見られているという強い感覚を覚える。交差点の反対側、列をなして行き交う乗用車やトラックの向こうに人影を一瞬とらえる─が、車の列が通過してしまうと、人影は消えている。その感覚を振り払いながら、トゥリーンは車に乗りこむ。
5
警察署の広々とした廊下に足音を響かせながら、ふたりの男は反対方向へと歩いていく刑事の一団とすれちがう。重大犯罪課のニュランダ課長はこのような会話にはうんざりしているが、一日のうちで話ができそうな機会はいましかないとわかっている。プライドはのみこんで副本部長と歩調を合わせて歩いていると、聞きたくもない言葉が次々に繰りだされてくる。
「ニュランダ、とにかくわれわれはもっと経費を抑えなくてはならない。それはすべての部署に関して言えることだ」
「てっきりもっと人員を増やしてもらえるものとばかり─」
「問題はタイミングだな。目下、法務省が優先させているのはきみの部署ではない。彼らはNC3をヨーロッパ随一のサイバー犯罪部門にするという野望を抱いている。だからそれ以外のところは予算を削ろうとしているんだよ」
「だからといってうちの課が割りを食ういわれはないでしょう。いまの倍の人員が必要なことはずいぶん前から─」
「あきらめたわけではないが、これできみの負担も少しは減ったはずだ、そうだろう」
「負担は少しも減ってませんよ。欧州刑事警察機構から追いだされた捜査官がひとり何日かうちに来るというだけでは、なんの足しにもならない」
「状況次第では、もう少し長くここにとどまることになるだろう。だが法務省が逆に人員を減らすこともありうる。だからさしあたり、使えないやつでも最大限に活用しろということだ。わかるだろう?」
副本部長がその言葉を強調するように立ちどまってこちらに顔を向けたので、ニュランダは、いいえ、まったくわかりません、と答えようとする。前から言っているとおりもっと人員が必要なのに、ナショナル・サイバー・クライム・センター、気取った略称を使うならNC3の連中のためにこちらはないがしろにされている。かてて加えて、ハーグで不興を買ってお払い箱にされた用済みの刑事で間に合わせろとは、いかにも官僚的な最大級の侮辱ではないか。
「ちょっといいですか?」トゥリーンがいつのまにか背後に立っており、そこで話が中断したのをいいことに副本部長は会議室へするりとはいってドアを閉める。ニュランダはその後ろ姿をちらりと見て、それからいま来たほうへと頭を振り向ける。
「いまは時間がない、きみもだ。フーソムから事件の報告が届いているから当直の警官に確認しろ。例のユーロポールのやつと組んでさっそく仕事にかかってもらいたい」
「でも大事な話が─」
「いまここで話を聞いている暇はない。きみの能力を認めないわけではないが、きみはうちの課に配属された最年少の刑事だ。だから、班長だかなんだか知らないが、きみが手に入れたくて躍起になっているような地位を目指すのはどうかと思う」
「班長になりたいわけじゃありません。必要なのはNC3への推薦状です」
ニュランダの足がぴたりととまる。
「NC3です。つまりサイバー犯罪─」
「ああ、どういうところかはもちろん知っている。理由は?」
「NC3の仕事がおもしろそうだからです」
「どこと比べて?」
「別にどことも比べてません。わたしはただ─」
「そもそもきみはまだほんの駆けだしだ。NC3はだめもとで応募してくるような人間は採らない。試すだけ無駄だな」
「応募するようにとの要請が名指しであったんです」
ニュランダは驚きの色を隠そうとするが、トゥリーンの言葉が事実であることはすぐにわかる。目の前に立っている華奢な女性に目を向ける。歳はいくつだ? 二十九か三十といったところか? とりたてて目を惹くところもない、少し変わり者の小娘。彼女を過小評価していたことははっきり覚えている─よく知るようになる前のことだ。部下を査定するにあたり、ニュランダは刑事たちをA班とB班に振り分けたばかりで、トゥリーンはこの若さにもかかわらず、彼が迷わずA班に入れたうちのひとりで、同じ班には、まとめ役になってくれるはずのヤンセンやリクスといった経験豊かな捜査官たちもいる。じつを言えば、トゥリーンをこの班のリーダーにすることをニュランダは考えている。女性捜査官をえこひいきするつもりはないし、彼女のどこか超然とした態度は神経を逆なでするが、すばらしく頭が切れるし、担当した事件はことごとくあっさりと解決してしまうので、より経験のあるほかの刑事たちがみなぼんくらに見えるほどだ。トゥリーンからすれば、警察のテクノロジーのレベルは石器時代なのだろうし、彼女のようなテクノロジーに詳しい人間を自分がどれほど必要としているかはニュランダも自覚しているので、その意見には賛同せざるをえない。警察も時代の流れについていかなくてはならないのだ。それゆえ、何度かふたりで話をした機会を利用して、きみはまだ経験不足なのだと思い知らせてきた。あっさり出ていかれないよう手を打とうとして。
「誰に要請されたんだね?」
「あそこのボスに、なんとかという名前の。イサク・ヴェンガー?」
ニュランダは顔が曇るのを感じる。
「ここが不満だったわけじゃなくて、でもできれば応募したいんです、遅くとも週末までには」
「考えておこう」
「金曜日ではどうでしょう?」
ニュランダはもう足早に歩きだしている。一瞬、首の後ろに彼女の視線を感じて、金曜日にはその推薦状を手に入れようと彼女が追いかけてくるだろうとわかる。つまりこういうことか。重大犯罪課は、法務省の新たなお気に入り、NC3のためのエリート養成所となってしまったのだ。まもなく予算委員会がはじまれば、数字と厳しい予算の上限という形で、その優先順位を改めて突きつけられることになる。重大犯罪課のトップの地位に就いてこのクリスマスで三年になるが、ここへきて車輪はきしみをあげて急停止し、このままなにも変わらなければ、思い描いていたような出世のチャンスにはつながらないかもしれない。
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ワイパーがフロントガラスを流れ落ちる雨を横へ払いのける。信号が青に変わると、警察車は車列を抜けだして─バスの側面に描かれた、豊胸手術やボトックス治療や脂肪吸引術を提供する私立病院の広告から離れて─郊外へと向かう。ラジオがつけてある。おしゃべりしたり、セックスだの尻だの欲望だのを歌う最新のヒット曲をかけたりしていたホストが、飛びこんできたニュースにつかのま番組を中断し、ニュースキャスターが今日は十月最初の火曜日─国会の開会日だと告げる。トップニュースは案の定、社会問題大臣のローサ・ハートンの件で、自身の娘が巻きこまれた痛ましい出来事から一年近くを経て大臣に復職するという。国じゅうが息をひそめて成り行きを見守った事件だ。だがキャスターがニュースを読み終えないうちに、トゥリーンの横にいるよそ者が音量を絞る。
「はさみかなにか持ってないかな」
「いいえ、はさみは持ってない」
一瞬、道路から目を離して隣にすわっている男を盗み見ると、新しい携帯電話のパッケージを開けようと奮闘している。トゥリーンが署の向かいにある立体駐車場に着いたとき、彼は車のそばに立って煙草を吸っていた。長身で、姿勢がよく、なのにどことなくしょぼくれた雰囲気。雨に濡れたぼさぼさの髪、ずぶ濡れのはき古したナイキのスニーカー、薄手のだぶだぶのズボン、キルティングの黒いショートコートもやはり水に浸かったように見える。服装がこの気候に合っていない。きっとオランダのハーグからここへ直行したんだろう、とトゥリーンは考える。脇にあるくたびれた小さなボストンバッグがその印象を強める。彼が警察署に着いてから四十八時間もたっていないのは知っている。食堂へ朝のコーヒーを取りにいったときに同僚たちが彼の噂をしているのを小耳にはさんだから。ハーグにあるユーロポール本部に派遣されていた〝連絡担当官〟が突然解任され、失態の処分だかなんだかでコペンハーゲン勤務を命じられたという。そのあと同僚たちはばかにするような感想をいくつか口にした。デンマーク警察とユーロポールとの関係は、数年前にデンマークがEUとの協力関係において司法内務分野の適用除外を放棄することを否決して以来ぎくしゃくしている。
トゥリーンが立体駐車場で顔を合わせたとき、彼はなにか考えこんでいて、こちらから自己紹介をしても、握手をして「ヘス」と名乗っただけだった。あまり話し好きではなさそう。普段ならトゥリーンも同じだが、ニュランダとは首尾よく話をすることができた。重大犯罪課での日々が確実に終わりに近づいていることを思えば、逆境にある同僚に対して少しばかり親しみを見せても害はないだろう。そう思って、ふたりで車に乗りこんだあと、トゥリーンは業務に関して自分が知るかぎりのことをあれこれ話したが、相手はさして興味もなさそうにうなずくだけ。歳のころは三十七から四十一あたり、みすぼらしい街の浮浪児風の外見はどこかの俳優を彷彿させるものの、特定の名前は思い浮かばない。結婚指輪と思しき指輪をはめているが、とうの昔に離婚している─あるいは少なくともその渦中にいるのではないかとトゥリーンの本能は告げている。ヘスとのやりとりは、コンクリートの壁に向かってボールを蹴るようなものだが、それで上機嫌に水を差されることはなかったし、国際間の警察の連携には純粋に興味がある。
「それで、どれくらいこっちにいるの?」
「たぶんほんの数日。いま上が検討している」
「ユーロポールの居心地はいい?」
「ああ、悪くない。あっちのほうが気候もいい」
「ユーロポールのサイバー犯罪部門は、自分たちが追跡して正体を突きとめたハッカーを採用しはじめたっていうのは本当?」
「さあ、おれの部署じゃないから。現場の作業が終わったら、ちょっと抜けてもいいかな」
「抜ける?」
「一時間ばかり。アパートメントの鍵を取りにいかないと」
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
「でも、あなたの本拠地はハーグなんでしょう?」
「ああ、というか必要とされる場所ならどこでも行く」
「たとえばどんなところ?」
「あちこち。マルセイユ、ジュネーブ、アムステルダム、リスボン……」
彼はふたたび携帯電話のパッケージを開けることに集中するが、都市のリストは実際にはまだまだ続くのだろうとトゥリーンは推測する。荷物を持たない旅人のようなものだ。都会の輝きとはるかな空はとうの昔に失われてしまったけれど。仮にそんなものが存在したとして。
「向こうに行ってどれくらいになるの?」
「五年近く。ちょっとこれを借りるよ」
ヘスは座席のあいだのカップホルダーからボールペンを取って、てこの要領でパッケージを開けはじめる。
「五年も?」
トゥリーンは驚いた。自分が聞いたことのあるほとんどの連絡担当官の契約期間はせいぜい二年だ。延長して四年になる場合もあるが、五年も派遣されるなんて聞いたことがない。
「時間のたつのは速い」
「じゃあ警察改革のせいだったのね」
「なにが?」
「あなたの出向。聞いた話じゃ、大勢の人が不満を抱いて警察を離れたって─」
「いや、そんな理由じゃない」
「じゃあ、なに?」
「ただおれがそうしたから」
トゥリーンはヘスに目を向ける。一瞬だけ彼が見返してきたとき、はじめてその目に気づく。左目はグリーン、右目はブルー。不愛想な言い方ではなかったが、それは越えてはならぬ一線となり、それ以上の説明はなにもない。トゥリーンはウィンカーを出して道を折れ、住宅街にはいっていく。謎めいた過去をもつマッチョな捜査官を演じたいなら、それでけっこう。自分たちだけのサッカーチームを作るその手の男たちは署にも掃いて捨てるほどいる。
それはモダンな白い家で、専用のガレージが備わっている。場所はフーソムの家族連れの住む住宅街の中心部、道路に面して整然と並ぶ郵便受けとイボタノキの生垣のなかにある。中間所得層が、核家族を実現させて、なおかつ手が届けば越してくるような場所。治安のよい地域で、路上に設置された減速帯が、ここでは誰も時速五十キロの制限速度を超えたりしないことを保証してくれる。庭に置かれたトランポリン、濡れたアスファルトに残るチョークの跡。ヘルメットと反射加工したジャケットを身につけた児童数人が自転車で雨のなかを走り去ると、トゥリーンはパトカーと鑑識車両が数台とまっている横に駐車する。立入禁止テープの少し手前で住民が何人か傘をさしてひそひそ話している。
「応答しないと」ヘスが携帯電話にSIMカードを差してメールを送信してから二分もたたないうちに、それが振動音を発している。
「どうぞ、ごゆっくり」
トゥリーンは雨のなかに出ていき、ヘスは車内にすわったままフランス語で話しはじめる。昔ながらのコンクリートの敷石でできた庭の小道を駆け足で進みながら、トゥリーンはふと思う。重大犯罪課を離れるのを心待ちにする理由がまたひとつ増えたかもしれない、と。
7
アウター・ウスタブロ地区にある洒落た大邸宅に、テレビのモーニングショーの司会者たちの声が響き、彼らはスタジオの快適なコーナーソファにすわってコーヒーを飲みながら次なる話題の準備にはいる。
「さて、今日は国会の開会日で、また新たな年がはじまろうとしています。毎年特別な日ではありますが、今回は、ある政治家にとってとりわけ特別な日となることでしょう。昨年の十月十八日に十二歳のお嬢さんを亡くしたローサ・ハートン社会問題大臣のことです。ローサ・ハートン大臣が職務を離れたのはお嬢さんが─」
スティーン・ハートンは手を伸ばして冷蔵庫の横の壁に掛かっている液晶テレビのスイッチを切り、広々としたフレンチカントリー風のキッチンの木の床に落とした設計図と筆記用具を拾いあげる。
「ほら、用意して。お母さんが出かけたらすぐに出発するぞ」
息子はまだ大きなテーブルについたまま、朝食の残りに囲まれて数学のノートになにか書きこんでいる。毎週火曜日の朝、ゴスタウは通常より一時間遅く登校することになっており、毎週火曜日、スティーンは息子に、いまは宿題をする時間ではないと言わねばならない。
「でも、なんで自転車で行っちゃいけないの?」
「今日は火曜日で、おまえは放課後にテニスをするから、わたしが迎えにいくんだ。荷物はもうまとめてあるのか?」
「あるよ」
小柄なフィリピン人オーペア(留学先で現地の家庭に住みこんで育児や家事を手伝いながら語学を学ぶ女子学生)が部屋にはいってきてスポーツバッグをおろし、後片付けをはじめるのを、スティーンはありがたい気持ちで見守る。
「すまないね、アリス。行くぞ、ゴスタウ」
「ほかの子はみんな自転車だよ」
窓越しに、黒い大型車が私道にはいってきて外の水たまりのなかにとまるのが見える。
「パパ、今日だけだめ?」
「だめだ、いつもどおりにする。車がもう来てるぞ。おまえのママはどこだ?」
8
スティーンは妻の名を呼びながら階段をあがって二階へと向かう。築百年の瀟洒なこの家の面積は約四百平米あり、スティーンがみずから改修したので、人目につかない場所や隙間は知り尽くしている。この家を購入して越してきた当初はとにかく広さを重視していたが、いまとなってはいささか広すぎる。あまりにも広い。妻をさがして寝室と浴室をたしかめたあと、向かいの部屋のドアが少し開いていることに気づく。一瞬ためらってから、ドアを押し開け、娘が使っていた部屋をのぞきこむ。
コートとマフラーを身につけた妻が、壁ぎわにあるむきだしのマットレスにすわっている。スティーンはざっと部屋のなかを見まわす。がらんとした壁と、片隅に積みあげられた段ボール箱。それから妻に目をもどす。
「車が来てるよ」
「ありがとう……」
彼女はとっさにうなずくが、腰をあげようとはしない。もう一歩なかに踏みこんだスティーンは、部屋のなかが冷えびえとしているのを感じる。彼女は両手で黄色いTシャツをこねるようにもんでいる。
「大丈夫か?」
ばかげた質問だ。とても大丈夫には見えない。
「きのう窓を開けて、閉めるのを忘れたの、ついさっき思いだして」
その言葉は質問の答えになっていないが、スティーンは思いやりをこめてうなずく。廊下のずっと向こうから息子の声がして、ヴォーゲルが来たよ、と叫んでいるが、どちらも返事をしない。
「あの子の匂いがもう思いだせない」
彼女は両手で黄色い布地を優しくなで、織られた糸のなかに隠されたものをさがすようにじっと見つめる。
「ついさがしてしまったの。でもあの子の匂いはない。ほかのものにも、どこにもないのよ」
スティーンは妻の隣に腰をおろす。
「それでいいのかもしれない。むしろそのほうがいいのかも」
「そのほうがいいなんて、よくもそんな……いいはずがないでしょ」
スティーンが黙っていると、彼女の口調が穏やかになり、夫に対して声を荒らげたことを悔やんでいるのがわかる。
「こんなことをしていいのかどうか……まちがっているような気がする」
「まちがってはいない。これこそ正しいことだよ。きみは自分でそう言った」
息子がまた大きな声で呼ぶ。
「あの子なら、前に進めと言ったはずだ。あの子なら、きっと大丈夫と言ったはずだ。あの子なら、ママってすごいと言ったはずだ」
ローサはなにも言わない。しばらくTシャツと一緒にただすわっている。それから、スティーンの手を取ってぎゅっと握りしめ、笑みを浮かべようとする。
「オーケイ、よろしく、ではのちほど」ローサ・ハートンの私設顧問が電話を切ると、ローサが階段を下りて玄関ホールに向かってくるのが見える。
「来るのが早すぎたかな? 開会は明日に延期するよう王室に頼むべきだった?」
「いいえ、もう準備はできてるわ」
フレデリック・ヴォーゲルの溌剌とした態度に顔をほころばせながら、これでうまく気持ちを切り替えられるとローサは思う。ヴォーゲルがそばにいれば、感傷のはいりこむ余地はない。
「よかった。プログラムをおさらいしておこう。質問が山ほど寄せられてる。いい質問もあれば、予想どおり下世話な興味本位の質問も─」
「車のなかでおさらいしましょう。ゴスタウ、忘れないでね、今日は火曜日だからパパが迎えにいくわ。なにかあったら電話するのよ。いいわね?」
「わかってる」
少年は力なくうなずき、ローサが大急ぎで息子の髪をくしゃくしゃとなでると、すかさずヴォーゲルが彼女のためにドアを開ける。
「新しい運転手にも挨拶して、それからどうしても話し合っておかないといけないのが、これらの交渉をどういう順序で進めるかで……」
スティーンはキッチンの窓から彼らを見送りながら、新しい運転手に挨拶をして車の後部座席に乗りこむ妻に、努めて励ますような笑みを送る。車が私道から出ていくと、スティーンはほっとする。
「ぼくたちも出かけるんじゃないの?」
息子が問いかける声がして、玄関ホールでコートを着てブーツをはく音がする。
「ああ、いま行くよ」
スティーンは冷蔵庫を開けて、酒の小瓶のパックを取りだし、一本の栓をひねって中身を全部口に流しこむ。アルコールが食道を駆け下りて胃に納まるのがわかる。残りのボトルを鞄に入れると、冷蔵庫を閉めて、キッチンのテーブルに置いてある車のキーを忘れず手に取る。
9
その家に、トゥリーンは漠然といやな感じを覚える。その感覚がじわじわと湧いてきたのは、手袋と青いビニールの靴カバーをつけて家のなかに足を踏み入れたときで、暗い玄関ホールにはいると、コート掛けの下に家族の履き物がきちんと並べられている。廊下の両側の壁には繊細な額にはいった花の写真が掛けられ、寝室にはいってまず感じたのは、いかにも無垢な女性らしい部屋という印象で、おろしたままになっているピンクのプリーツブラインドを除けば、あらゆるものが白っぽい。
「被害者はラウラ・ケーア、三十七歳、コペンハーゲン中心部にある歯科医院の衛生士。就寝中に不意をつかれた模様です。九歳の息子は廊下の奥の部屋で眠ってましたが、どうやらなにも見聞きしていないようです」
年配の制服巡査から事件の概要を聞きながら、トゥリーンは片側しか使われていなかったダブルベッドを観察している。ベッド脇のランプがナイトスタンドから落ちて、分厚い白い絨毯の上にころがっている。
「息子が朝起きたら、家のなかが空っぽで、誰もいなかったそうです。ひとりで朝ごはんを作って、着替えをして、母親を待ったが、いつまでも現われないので、近所の家へ行った。その隣人がこの家までやってきて、誰もいないのを確認し、そのとき運動場のほうから犬の吠え声が聞こえて、そこで被害者を発見し、警察に通報してきました」
「父親とは連絡がとれたの?」
トゥリーンは巡査の横を通り過ぎ、子供部屋をちらっとのぞいてから、また廊下にもどり、巡査もそのあとについてくる。
「その隣人によると、父親は二年前に癌で亡くなってます。被害者はその半年後に新しい相手と出会い、一緒にここへ越してきた。その相手はいまシェラン島のどこかで産業見本市に参加してます。この現場に着いたときに連絡したので、まもなくもどってくるはずです」
浴室の開いたドアの向こうに、三本並んだ電動歯ブラシと、タイルの床用のスリッパ、バスローブが二着フックに掛かっているのが見える。廊下から開放感のあるキッチンにはいると、白い作業服の鑑識員たちが忙しそうに物証や指紋が残っていないか確認している。家具類はこのあたりではごくありふれたものだ。北欧らしいデザインで、おそらくほとんどはイケアかイルヴァのもの、テーブルには三人分のプレースマット、花瓶には装飾を施した小枝をあしらった秋の小さな花束、ソファにはクッション。アイランド型キッチンにミルクとコーンフレークのはいった深めのボウルがひとつあるのは、息子が食べたものにちがいない。居間にあるデジタルフォトフレームは、その隣にある空っぽの肘掛け椅子に向かって、小さな家族の写真を繰り返し映しだしている。母親と息子、そして同居中の恋人。三人とも笑顔で幸せそうに見える。ラウラ・ケーアは赤毛のロングヘアで、すらりとした美しい女性だが、温かみのある優しそうな目はどこか頼りなげだ。素敵な家なのに、トゥリーンにはどうしてもいやな感じがしてならない。
「押し入った形跡は?」
「ありません。窓もドアも確認済みです。被害者は、テレビを観て、紅茶を一杯飲んで、それからベッドにはいった」
トゥリーンはキッチンの掲示板にざっと目を走らせるが、そこに掛かっているのは、学校の時間割、カレンダー、地元のプールの予定表、樹木医のチラシ、自治会のハロウィーンパーティーへの招待状、国立病院の小児科での検診に関する催促状といったものばかり。通常はこれこそトゥリーンの得意とすることだ─重大な意味をもつかもしれない些細な事柄に目をとめること。昔はそういうことがよくあった。家に帰り、玄関の鍵を開けて、その日がよい日になるか悪い日になるかの予兆を読み取ることが。なのに、この事件では目につくものがなにもない。ごく平凡な一家とその穏やかな日常生活があるだけ。それは自分なら絶対に耐えられないような暮らしで、この家にいやな感じを覚えるのも単にそのせいかもしれない。つかのま、そんなふうに自分に言いきかせようとする。
「パソコンとかタブレットとか携帯電話はどうなってる?」
「見たところ盗まれたものはなさそうで、ゲンスの部下たちがその手のものを集めて持ち帰りました」
トゥリーンはうなずく。暴行事件や殺人事件はそういう方法で解明されることが多い。たいていの場合、携帯電話のメッセージや通話、電子メールやフェイスブックのメッセージが存在し、こんな状況に至った理由のヒントを与えてくれる。だからその元になる資料を手に入れたくて、トゥリーンは早くもうずうずしている。
「このにおいはなに? 吐いたの?」
家のなかをまわるあいだつきまとう強い悪臭を、トゥリーンはそこではじめて意識した。年配の巡査が恥じ入るような顔になり、その肌が青ざめていることに気づく。
「すみません。発見現場からもどったばかりで。自分じゃ慣れてるつもりだったんですが……案内しますよ」
「ひとりで大丈夫よ。同居中の恋人が来たら知らせて」
巡査が感謝をこめてうなずき、トゥリーンは裏庭に通じるテラスのドアを開ける。
10
トランポリンはくたびれており、テラスのドアの左側にある植物が伸び放題の小さな温室も同様。右側は、濡れた芝生が光沢のあるスチール製のガレージの後ろの壁まで続いている。便利で使いやすそうなガレージだが、モダンな白い家にはなんとなくそぐわない。トゥリーンは庭のはずれに向かって歩きだす。生垣の向こうに、投光照明と、制服巡査や白い作業服の鑑識員たちの姿があり、燃えるような赤や黄色の葉をつけた樹木や低木の茂みを抜けてゆっくり進んでいくと、運動場に到達する。雨のなか、子供用の古びた小さな家のそばでフラッシュが何度もまたたき、ここからでも、ゲンスが部下たちに指示を出しながらきびきびと犯罪現場の細部をカメラに収めているのが見える。
「なにかわかった?」
シモン・ゲンスがカメラのファインダーから目をあげる。深刻な表情だが、トゥリーンを見るとその顔がやわらいで一瞬笑みが浮かぶ。ゲンスは三十代半ばの活動的な男だ。聞くところによると、今年だけで五つのマラソンを走ったらしい。科学捜査課で史上最年少のボスでもある。トゥリーンは彼のことを、その意見が傾聴に値する数少ない相手と見なしている。頭の切れる専門おたく─端的に言えば、彼の判断力は信頼できる。ゲンスとのあいだに一定の距離を置いているとすれば、そのうち一緒に走らないかと誘われて、でも自分にはその気がないからにすぎない。重大犯罪課に来て九カ月、まがりなりにも関係らしきものを築いた唯一の相手ではあるが、トゥリーンが想像しうる性的な関係のなかでいちばんありえないのが、同僚との恋愛だ。
「やあ、トゥリーン。まだなにも。雨のせいでいろいろ面倒なことになっているし、犯行から何時間もたっているから」
「死亡時刻についてはなにか聞いてる?」
「まだ。検死官がもうじき来る。でも、雨が降りだしたのが真夜中ごろで、たぶん事件が起きたのもそのころじゃないかと思うんだ。地面に足跡が残っていたとしても、完全に洗い流されてしまったんだろうな、でもあきらめたわけじゃないよ。被害者を見るかい?」
「ええ、お願い」
芝生の上の息絶えた身体には鑑識が用意した白いシーツが掛けられていた。遺体は、子供がなかにはいって遊ぶ〝おもちゃの家〟の玄関ポーチの屋根を支える二本の支柱の片方にもたれていて、その光景は一見平和とも思える。背後では、鬱蒼と茂る低木にまじって赤や黄色の蔓性植物があざやかな色を炸裂させている。ゲンスが慎重な手つきで白いシーツをめくると、女性の姿があらわになる。ぬいぐるみの人形のようにぐったりとした身体、身につけているのはショーツとスリップだけで、雨でぐっしょり濡れたベージュのスリップには赤黒い血のしみがある。トゥリーンは近くに行って、よく見えるようにしゃがみこむ。ラウラ・ケーアは頭にぐるりと黒い粘着テープを巻かれている。テープは開いたまま硬直した口を横切り、後頭部と濡れた赤毛のまわりを何周かしている。片方の目が陥没しているので、眼窩の奥まで見え、もう一方は見えない目で虚空を見つめている。青ざめた顔は無数の掻き傷と切り傷と痣で無残な状態、むきだしの両足はすりむけて血まみれだ。両手は膝の上の落ち葉の小さな山に埋もれ、幅広のプラスティックの結束バンドで両手首のあたりをきつく縛ってある。遺体をひと目見ただけで、年配の巡査が耐えられなくなった理由がわかる。普段のトゥリーンは、死んだ人たちを観察することになんの抵抗も感じない。殺人課で働く以上、感情に流されずに死と向き合うことが求められるし、死体を観察できないような人間はよそへ移ったほうがいい。とはいえ、おもちゃの家の支柱にもたれているこの女性ほどむごい仕打ちを受けた被害者は見たことがない。
「もちろんあとで検死官から聞くことになるだろうけど、ぼくの見たところ、傷の具合からして彼女はどこかの時点で樹木のあいだを走って逃げようとしたようだ。家から離れようとしたのか、それとも家にもどろうとしたのか。でも外は真っ暗だったし、切断されたあとで相当に弱っていたはずだから、たしかに言えるのは、それが行なわれたあとにこういう姿勢をとらされたということだ」
「切断?」
「これを持ってて」
ゲンスは無造作に重いカメラとフラッシュをトゥリーンに持たせる。遺体のそばに行くと、尻をついてしゃがみ、懐中電灯を使って被害者の縛られた両腕を少しだけ持ちあげる。死後硬直がはじまっている彼女のこわばった両腕がそのまま持ちあがって、トゥリーンにもいまやはっきりと見える─ラウラ・ケーアの右手がない。てっきり落ち葉の下に埋もれていると思ったのに。おぞましいことに腕は手首から先がなく、斜めになったぎざぎざの切り口から骨と腱がのぞいている。
「いまのところ犯行はここで行なわれたと考えているんだ。ガレージにも家のなかにも血痕が一滴も見つからなかったから。もちろんうちの連中にはガレージを徹底的に調べるように、特にテープやガーデニング用品やケーブル用の結束バンドをさがすように指示してはあるが、いまのところこれといったものは見つかっていない。もちろん右手がいまだに見つからないのも不思議だけど、そっちはまだ捜索を続けている」
「犬が持ち去ったのかもしれない」
ヘスの声─いつのまにか庭を抜けて生垣のこちらに出てきている。ざっとあたりを見まわし、雨のなかで両肩をぶるっと震わせるヘスを、ゲンスが驚いたような顔で凝視する。その可能性もあるとわかってはいるが、彼が意見を口にしたことがなぜかトゥリーンをいらだたせる。
「ゲンス、こちらヘス、何日かうちで仕事をすることになってるの」
「おはよう。ようこそ」ゲンスが握手をしようと進み出るが、ヘスはただ隣の家に向かってあごをしゃくる。
「誰かなにか聞いてないのか? 近所の人たちは?」
がらがらという大きな音が響き渡り、運動場の向こう側にある濡れた線路を突然列車が疾走して、おかげでゲンスは返事を大声で叫ぶはめになる。
「いや、確認したかぎり、誰もなにも聞いてない! S列車は夜間はそれほど通らないけど、代わりに貨物列車がかなり頻繁に通るんだ!」
列車の音が遠ざかると、ゲンスはふたたびトゥリーンを見る。
「きみのために証拠がどっさりあればよかったんだけど、いまのところほかに言えることはなにもないな。ただ、ここまで残忍な手口は見たことがないよ」
「あれはなに?」
「あれって?」
「あそこ」
トゥリーンは遺体の横にしゃがんだまま、ゲンスが身体をひねらないと見えないものを指さす。死んだ女性の背後、おもちゃの家のポーチの梁からぶらさがっているものが、本体につけられた紐にからまりながら風に揺れている。ゲンスが梁の下に手を伸ばして紐のからまりをほどくと、自由になったそれが左右にぶらぶら揺れる。焦げ茶色の栗の実をふたつ上下にくっつけたもので、上は小さめ、下は大きめだ。小さいほうに開けられたふたつの穴が目になっている。大きいほうに差しこまれたマッチ棒は腕と脚を表わす。二個の球体と四本の棒からなる単純な人形なのに、一瞬、なぜか自分でもわけがわからないまま、トゥリーンは心臓がとまりそうになる。
「栗人形か。そいつを連行して尋問でもするか?」
ヘスが無邪気な顔でトゥリーンを見ている。ユーロポールでも昔ながらの警官流ユーモアは好まれているようだが、トゥリーンは反応しない。ゲンスとちらりと視線を交わすが、彼はすぐに部下からの質問を受け、話の続きはできなくなる。ヘスがまた鳴りだした電話に応答しようとジャケットの内側に手を入れたとき、家のほうから口笛が聞こえる。先ほどの巡査で、庭からトゥリーンに合図を送っている。トゥリーンが立ちあがって運動場を見まわすと、そこは黄金色の葉をつけた木々に囲まれており、ほかに見るべきものはなにもない。濡れたブランコやジャングルジム、アスレチックコースがあるだけで、大勢の巡査や鑑識員が雨のなかを苦労して歩きまわりながら一帯を捜索しているというのに、荒れ果てたわびしい感じがする。トゥリーンは家に引き返す。ヘスがまたフランス語で話している横を通り過ぎるとき、ふたたび列車が轟音をたてて通過する。
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