人生に使命があるとするならば
就職が決まり、遊んで暮らしていた最後の学生時代。
特別な理由があるわけでもなく「何かをしなくちゃいけない。」そんな想いが、心に浮かぶようになった。
何かをしなくちゃいけないという意味のわからない使命感はあるものの、それが何なのか全然思い出せない、そんな不思議な感覚だった。
就職活動中は全くそんな思考はなく、面接では最もらしい志望動機を述べても、本心は、「出来るだけ安定していて、居心地のよさそうな大企業で、出来れば興味のある仕事がいいな・・・」と思っていた。
気持ちの変化に一抹の不安を覚えながらも、4月になり、決まっていた企業へ就職し、社会に適応していくに連れて、「何かしなくちゃいけないんだけど。」という心の声もだんだんと聞こえなくなっていった。
当初は、不可解に思えたこの世の中のルールを使いこなす側になり、人生を縦横無尽に心地よく進めていると思うようになった頃、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかと思うような事態が起こった。
思考では、決して望んでいたワケではない「破綻」への道、いや、「破綻」と世間が定義している方角へ向かって、圧倒的な推進力で出来事が進んでいった事は奇跡のうちのひとつであるのだろう。
人生に保険をかけずに生きたことなどなかった自分に、まるで天啓のように、必然のように、歩いてきた人生の延長線上に、漆黒の暗闇へと続く道のみがくっきりと浮かび上がり、前に進むことしか手立てがないことをどれだけ嘆いたことだろう。
暗闇に明かりも携えずに飛び込むことが、世間的に危険とされていることは勿論知っていた。
そして、その暗闇へ飛び込む必然性と、その事態に遭遇するであろう確率に「なぜ私の身に・・・。」という自己憐憫とともに、抗いようのない宿命の力のようなものを感じた。
繰り返し、繰り返し、吐くように泣いた。
泣きながら、色々な事を思った。
これまで築いたものって、何だったんだっけ?
私は、全てを失うために頑張ってきたんだったけ?
人を幸せにしない社会システムの上で、それを受け入れ、順応してきた自身の歴史が憐れに思えた。
社会の仕組みの脆弱性を感じていたのに、気が付かないふりをしてきた自分を悔いた。
嘘ばかりの世界で、この世界の真実が露呈する、その瞬間の過酷さはもうこの世界に必要ないのではないだろうか。
今ここに、死にそうになっている人間がいるのに、社会システムを続行することを是だとする感性の支配を必要とし続ける人間はいるのだろうか。
心の中で何度も叫んだ。
あなた方の仕組みは間違っている。
あなた方の優先するものは、この世界の真実ではない。
そう叫びながら、暗闇の中で、過去の自分が天寿を全うしたことを知った。新しく生まれ、変っていく自分自身を発見し、再び歩みを進めることは楽しいだけではなかったように思う。
あの時、奇跡は起きた。
深い悲しみや痛みは、必ずしも全人類に必要なものではない。
もっと容易に、自分と向き合うことは可能なはずだ。自分自身の真実の声に、心の声に耳を傾ける時間が私達にはあるのだから。
私達は皆、この世界を平和で調和に満ちた世界へと変貌するためにここにいる。
「何かしなくちゃいけない。」気持ちは、常に私とともにいた。
私は、今、そのためにここに生きている。
在りように、そしてそれを誰も疑問に思わず、それを口にすれば。