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ノンセクト・ラジカルの視点から振り返る10年代の学生運動

間違えて消してしまったため再度アップします。これは自分が書いた文章になります。


1. はじめに

法政大学の学生運動、「りべるたん」というシェアハウス、「直接行動」(以下DA)という学生団体に関わっていた視点から、10年代のノンセクト運動に関する個人的な見解を以下に述べておく。事実関係や運動の経緯に関しては「第一期・第二期DA 活動の足跡」という非公開の文書にまとめている。また、「情況」にもノンセクトの経緯は掲載されている。10年代の運動をめぐる総括については非公開であるが、その他の文書がいくつか存在する。ここでは、あくまでも10年代に見られた運動を整理すること、個人的な雑感をひたすら述べることに徹しようと思う。10年代以前については外山恒一の『全共闘以後』を参考にしてほしい。


2. 運動の経緯

ノンセクト・ラジカルは党派に属さない大学自治を志向した学生運動のことである。その運動のフィールドが変化したために、ノンセクトが指し示すものも変容してきたといえる。

従来の学生運動は、①セクト(前衛党の革命の手段と勢力拡大として)②全共闘的なノンセクト(大きな物語として政治課題にコミットする)③自治派のノンセクト(小さな物語としてのキャンパス、学館、学生寮)に大まかに分類できると思う。①は細々と活動が現在まで続いているが、実質ないに等しい。②は70年代に入ると急速に消滅した。80年代以降はそれぞれの現場で個別課題闘争に参加するか、市民運動にコミットするか、もしくは卒業したあと労働運動に合流するかのパターンが多い。③は70年代以降も、それぞれの大学において地道に続いていたが、ゼロ年代を迎えてから、キャンパスのリニューアルや学館の取り壊しなどを経て、場所そのものを失いほとんど消滅した。以上の「ノンセクト・ラジカル」の運動と変遷についてはそもそも記録がほとんど存在しない。一時的でローカルな運動で、属人的に成り立っていたからである。非常に小さいながらも大学自治という個別のプラットフォームを形成してきていたといえる。

10年代を迎えてからは、3・11を境目に新たに政治にコミットする学生が出てきた。時系列を無視してノンセクトを中心とした視点から次のように分けてみる。①大学の自治を取り戻そうとする運動②学費、奨学金問題、若者の労働に関して取り組み、対外的にアピールする運動③シェアハウスとオルタナティブを目指す運動④学習会・サークル活動⑤学生の行う政治運動⑥路上開放的なお祭り騒ぎ創出を目指す運動

ここで注目するのが「ゆとり全共闘」の周辺にあった活動である。ゼロ年代にはほとんどの大学で自治を問う運動が消滅していたが、運動が激しかった法政大学の学生や上の世代の姿を見て魅力を感じた物好きな学生は存在していた。大学内だけで運動が作れないと悟った学生たちがSNSの普及と相まって集まっていた。3・11以降にSNSを介して結成された彼らの活動には幾つかの方向性(上でいう①②③④)があったと分析できる。この団体が呼び掛けた、大学鍋や、キャンパス内のジグザグデモ、法大デモに参加したりする活動はまさに①である。「就活ぶっ壊せデモ」や「学費奨学金問題対策委員会」彼らの周辺メンバーが行った「BABL」は②である。更に、彼らの一部が立ち上げたシェアハウス「りべるたん」は③に該当する。学習会なども行っていたしこの団体自体がサークル活動であるから④にも該当する。
ただ、全ての方向性において頓挫してしまい数年で解散してしまう。①はそもそも、物好きがやっているだけで流行らないし、②は主要メンバーの卒業に伴って継続できなかったし、③は途中からシェアハウスのあり方が変容し、既に解散している。

また、「DA」は「ゆとり全共闘」の方向性を踏襲しようと試みたが、当初①に関して力を注ぎ、キャンパス内に運動に挫折し、②について無意識的に放棄し、安保法制をめぐる大きな政治をめぐる潮流にコミットし既存の枠組みに乗っかっていくことで⑤の運動を直接行動的なスタイルで展開した。安保法制の運動以降も⑤はしばらく継続するが、現在では界隈を形成するに留まる。「第一期DA」の方針は「大学をめぐる問題を直接行動で解決すること」であり、法大闘争への参加と寮自治への参加であった。

まず、10年代の学生運動が学内を完全に離れたという現状を指摘しておきたい。そもそも、10年代に入った時点で自治派の勝ちは存在し得なかった。①は消滅するべくしたといえる。②③は模索するべきだが、実際には継続させるのが難しいことが明らかになった。④は緩く界隈を形成するのに役立って入るが、それ以上でもそれ以下でもない。
時代の流れとして、ノンセクトの定義が曖昧になりつつある。ある見方によっては消滅したともいえる。10年代以前であれば、「公私という観点から空間を巡る闘争を展開し、あるいは創出を目指す。大学の自治を獲得する」ことが志向されていた。自治空間という拠点を手にすることは活動の大前提でもあるからだ。しかし、拠点を失った現在では大学内での学習会や講演会を主催する他は、大学生が独自に「学生や若者特有の政治課題に取り組む」こと「政治的なオルタナティブを目指す」ことがノンセクト的であるといえるのかもしれない。

その他のノンセクトの活動としては③では「オストロイテ」というシェアハウスがあったり、④では、サークル活動として各大学に「アナキズム研究会」が乱立している。勉強会や講演会などを行っている。⑥では、松本哉の「素人の乱」系や、ヒッピー系の野宿界隈、外山恒一の周辺、「渋谷区の路上の自由を守る会」が該当するのではないかと思われる。もう年齢的にみんな学生ではないが…。

また、ノンセクトという視点から少し離れるのであれば、10年代において、①では「中核派」が法政大学で非公認化された文化連盟を乗っ取り活動しているし、全学連は細々と続いており他大学で何かしらの活動を行っている。②では最低賃金の問題を訴える「AEQUITAS」という若者団体が存在していた。③には元ゆとり全共闘だった「えらいてんちょう」による「エデン」や「しょぼい起業」などがある。京都にある「サクラ荘」というシェアハウスも自治という視点からは重要である。⑤には「SASPL」、「SEALDs」、「未来のための公共」などがあった。


3. 10年代を振り返ってみて

3.1空間と持続
本来的にノンセクト運動は一過性に過ぎない運動なのであって、消滅を前提としていることは仕方ないと思われる。学生運動は敗北の歴史の積み重ねである。ただ、10年代を迎えてからは、物理的な拠点を作ることの難しさが目立つ。こうして振り返ると場所の持つ力が大きいことが分かる。大学で運動が展開できなくなった結果として、シェアハウスの運動に手をつけたのには合理性があるといえる。自治の運動は場所をめぐる運動でもあった手前、そもそも、否定する対象が消滅し、獲得する空間の可能性が想像できなくなっている。概念的な獲得ではなく、既存のシステムにおいて学生が主導権を握るという意味であり、ゼロ年代において物理的な空間そのものが失われた現在では既に空間が予め存在するということがない。ただ、空間がなければ持続のための基盤が形成できないのではないため、この自治空間という拠点の獲得の問題は今度も重要になってくることは間違いない。公共空間のあり方について一石を投じる姿勢でいることや、何らかのオルタナティブな模索を行っていく必要がある。

3.2学生であることの意味
事実、空間的にも人生設計の観点からも、多くの学生は大学を広場ではなく通り道として認識しているし、それを望んでいる。学生は大学を選ぶ立場でもあり、お客様でもある。自分の生活に関する自治に対して直接的に関与するという従来までの意味合いは失われている。自治をめぐる各大学のあり方などローカルな課題を超えて、学生であることの意味を考えるのであれば、学生や若者に特有の政治課題については取り組む主体となるということだと思われる。単に「学生がする政治運動」(大きな政治課題へのコミット)なのではなく、「学生が作り出す政治運動」(学生や若者をめぐる問題を中心に添えた活動)を目指すべきである。
「反原連」・「しばき隊」・「連合」などの支援を受けた「SEALDs」の運動は、若者の運動ではなく、反原連の周辺にいた若い人たちを指すだけである。そこで囲い込んだ学生たちは、政治課題のムーブメントが終わり次第、結局のところ解散することになる。
学生の身分として特権は存在している。社会人になると良くわかるが、学生は経済的な制約があっても、時間や社会的な制約がない。これが運動への参加しやすさであり、特権であるといえる。社会人に片手間で運動に参加する余裕は存在しない。学生が主体であるということは戦略的に有効である。

3.3「党派orネットワーク」論争と立場の明確化
10年代のノンセクトをめぐる重要な議題として「党派orネットワーク」論争を無視することはできない。10年代に出てきた、SNSを通じた緩やかなつながりという新しさは、物理的に場が存在しない故に運動が下の世代に引き継がれないという断絶に対しては無力であり、言い訳でもあった。運動の主体として責任を引き受けるという意味においても、好ましくないと考える。また、緩いネットワークを重視するがゆえに多くの対立を生んでいた。ノンセクトを自称する故に立場性を明確には打ち出さなかったのが問題である。

これらについては象徴的なエピソードを指摘できる。1つ目は法大闘争への参加と救援をめぐる経緯である。「ゆとり全共闘」は、「逮捕・処分覚悟あるいは人生をかける覚悟での決起か嫌々ながら就活したり、学内規制に従うという100か0しかない学生の状態に1~99の幅を作ることを考えた。」とあるように、法政大学における警察からの厳しい圧力のあるような活動に参加する学生も集えば、それについていけない学生もいた。そして、イベントへの呼びかけ文はあっても、綱領などは存在しない。そのため、法政大学で逮捕されたノンセクト学生の救援をめぐって分裂し、それが原因で解散した。
2つ目は「勝手に集会」への批判に対する対応である。詳しいことは知らないが、早稲田では「革マル派」と混同され批判を受けてしまうということがあったようだ。そこで、彼らはあえて、「革マル派」ではないと主張しないという対応をとった。ノンセクトとは、非党派的・横断的であることを言うのだから、特定の党派を排除するのはおかしいという理由であるそうだ。それが原因でどうこうというわけではないが、学生からは過激派だと勘違いされていたと思う。
3つ目は「BABL」と「SASPL」の対立である。「BABL」は「就活デモ」や「学費奨学金問題対策委員会」の後継として、「ブラック問題」(ブラック企業・ブラックバイト・シュウカツ)を訴える団体で、法政大学ではなく、早稲田の学生を中心に運営されていた。首都圏青年ユニオンを招いての学習会やデモなどを行っていた。当初、「SASPL」に所属していた「BABL」の中心メンバーとなる学生がいた。しかし、「BABL」の行ったデモで法政大学の文化連盟の学生が参加しており、これについて反原連から中核派に親和的であるとの強い批判を受けた。そして、「SASPL」に所属していた彼は今後「BABL」と関わらないことを宣言させられた。
4つ目はヘイトスピーチへのカウンター行動で逮捕された学生の救援に対する批判が起きたことである。「中核派」が参加していたことに対して市民運動からの多くの批判を受け、以前以上に断絶が深まった。ただ、この場合は立場性が明らかになったからこその断絶である。

以上の経験を踏まえると、10年代のノンセクトの運動は、ネットワークを志向することによって人を集めて一時的に成功を収めるが、実はその反面、すぐにそれが原因で大きな分裂を生み失敗しているという構図が見えてくる。様々な立場の人間が集まって運動が盛り上がりを見せると、すぐさま警察が介入して、それによって分断が繰り返されるという事態である。10年代にも、このような現象を不毛なことに何度も繰り返している。日本の学生運動が成功しない理由はここにある。それをしたところで防げるとは思えないが、少なくとも、これを避けるための策の1つとして、最低限何らかの立場を明確に打ち出しておくべきであるというのも10年代の反省である。

いま、SNSの登場で一人一人が判断し、自分の意思で参加することが持て囃されている。例えば、「SEALDs」などは、それをアピールポイントにしていた。しかし、一つ言えるのは、拠点がない以上は学生が主体とはなり得ないのではないかということである。物理的な空間としての拠点や組織性や前提を失ったシングルイシューの運動は地に足がついておらず、どこか、目の前で起きている事象を飛び越えて、抽象的な政治に、ただ1人の無力な人間として具体的な政治課題に対して文句を言い、たまにある選挙に一票を投じる以上の参加がありえなくなってしまう。どのような活動も結局は選挙に集約されてしまうのではないかと見ている。そこで囲い込んだ学生たちは、政党のフロント団体でしかなく、つまるところ政治課題のムーブメントが終わり次第、選挙が終わり次第、解散した。このように、SNSを介した自発的な活動でさえ、政党の党派性に回収されてしまう現状を直視しなければならない。課題解決のための議場での意思表明や法案提出だけでなく、もっと学生生活に密着した運動を展開することを模索する必要があるかと思う。それに関してはどんな手段があるか思い浮かばないけれど。

3.4 暴力と議会制民主主義の限界
ノンセクトとその他の運動の相違は暴力と議会制民主主義に対する見解にある。新左翼党派のように暴力を公然と肯定する立場に対しても疑問を抱いているが、市民運動や「SEADLs」の主張に含まれる、暴力に対する無頓着さに対しても否定的であるという立場である。
実際に、「反原連」・「しばき隊」・「SEALDs(SASPL)」からはかねてより、多くの批判を受けていた。安保法制への反対運動が盛り上がっている時期においても、市民運動の中心メンバーによる、ノンセクトに対する批判、攻撃的な発言が多く見られた。これは、市民運動の目指す対外的なイメージ戦略に邪魔であるからである。
社会システムに影響を受ける全ての生活様式には犠牲があり、人間は存在の暴力性を有しているという観点をノンセクトは前提として有しているように思う。そして、直接行動の第三者、その外部の人間を、行動で従わせることを間接的にでも態度的にでも認めざるを得ない我々は、やはり暴力性からは逃れ得ないと考え、非暴力の運動は存在し得ない、という立場を取る。運動どころか、あらゆる行動、そして生活と生存のための行為が非暴力であったことなどなかったと考える。その行為を暴力とみなすかどうかは、状況や時代において市民がどう捉えるか、あるいは、権力者の都合による判断で行われるわけであるが、ノンセクトは、自分自身で判断することを重要視している。そこにあるのはよりマシな暴力の選択だけである。当然ながら、選挙が最終的な問題解決の手段である市民運動から忌み嫌われるというわけである。市民運動は国会前が崩壊したという絵を作ろうとしているだけであって、所詮はパフォーマンスに回帰していくと否定的に捉えている。しかし、ノンセクトも彼らは彼らで、運動が先鋭化し自滅して終わったり、後先考えずその場のノリで過激な行動に出てしまう、というのがこれまでの伝統である。そうでもなければ、課題解決に向かうのではなく、生き方の問題やオルタナティブな選択へとシフトしがちであるというのも認めざるを得ない事実である。これに対しては自戒しなければいけない。


4. これから

これから、ノンセクト的な活動をするのであれば、「直接行動」の理念を忘れて欲しくないと考えている。いまに至るまで明確に言葉にして表すことはなかったが、これは法政大学の学生運動からゆとり全共闘を経由して「第一期・第二期 DA」まで引き継がれてきた文化でもある。
「学生のする政治運動」ではなく、全てが議会制民主主義に集約されるでもなく、オルタナティブを指向するでもなく、まずは学生と若者が、彼らの立場を主張できるようなプラットフォームを作っていく方向が望ましいと考える。そして、直接行動の精神を引き継いでほしいと思っている。ただ、この時代の抗議活動のスタイルというのは所詮パフォーマンスでしか成立し得ない、ということには留意すべきだと思われる。あらゆるものが見せかけの演技でしかなくなってしまう。本来の直接行動はもう少し違った戦略性を持っていたはずだ。それを目指して見るのも良いのではないか。政治的な戦略によって発言できないことはたくさんある。しかし、可能な限り素直に分かりやすく立場性を明示することを避けるべきではないというのも10年代の一つの結論であると思う。現場を失ったノンセクトには原則的な戦略と、強固な立場性を明示する必要があるように思える。あえて何も隠すべきではなく、誰におもねるでもなく、どこまでも自己規定を行うべきである。
もし、個人的に引き継ぎ事項があるのであれば、次の点について態度として持っておくべきだと思う。①自らの運動を従来のノンセクトの経緯の延長線上に位置付け、選挙に回収されない方法で具体的に課題解決のために何ができるのかを考える。②原則的でより抽象的な前提を見つけ出し言語化する。また、立場を明確に言語化する。自他の境界、対話可能なもの、拒否するべきものを明らかにして前面に出す。③ノンセクト運動ならではの取り組むべき課題を設定する。④主要メンバーが卒業して社会人になり運動が停滞しないように組織化する。そのための物理的な空間としての拠点を作り維持する。


5.その他、感想

ノンセクトの学生運動の面白さは、その年代特有の物語と原風景が存在しているところにある。その時々には最新で完璧なように見えて、それでいて断続的、不完全で偏見に満ちた前提である。この前提を、少なからず同年代は共有している。それを明らかにすることに特段意味があるとは思わない。ただ、たった数年の世代差において、大学において、眺めている風景が大きく違っているような気がして寂しくもある。ある意味それを残しておきたいと思いながらこの文章を書いた。活動を通して学んだのは、正しさだけで人は動かないということである。大学での自治空間は嫌がおうにも政治的なゴタゴタに巻き込まれる機会が生じる場所でもある。なんか変な奴がいるぞとつい目に入ってしまう、興味を持つ、話を聞いたら面白かった。運動への参加は強い政治的な主張を最初から持っていた学生によって行われていたわけではなく、巻き込まれていくものであった。政治的な活動とは誰かの他者となっていくことでもある。他者に規定され、また規定し返す営みでもある。だから、まずは自己を明確に位置付けて、一般人にとっての迷惑な存在となることを目指すべきだと思う。

何度も主張しているが空間や場所の喪失というのは大きい。これまでの黒ヘルの活動は属人的でも成り立った。学内問題に関わることで、身近なこととして感じられたからである。そして、私は学生であるという意識もあったと思う。どういうわけだか、法政大学のキャンパス自治に憧れのようなものを感じる。当時のドキュメンタリ映像が残っているのだが、今とは違う大学の雰囲気といったものがよく感じられる。体育会系でもあり、人情味があり、属人的であることことが、魅力の一つでもあった。そこに、自治をめぐる運動の原風景としての憧れがある。現在は「中核派」であるが、同時はノンセクトだった斎藤郁真の法大デモへの呼びかけには、「講義が終わって帰ろうとしたら、なぜかキャンパスで綱引きをやっている奴らがいる。落ち葉とビラを集めて焼き芋をしている奴らがいる。こたつをピロ下に出してみかん食ってる奴らがいる。カラオケセットを持ち込んでカラオケをしている奴らがいる。布団を出して寝ている奴らがいる。しかも、友人に「5限出るからそれくらいに起こして」とか言ってる。そして友人はもちろん起こさない。」とある。アジ用の言葉ではあれど、なんか面白そうなのである。それと同様に、当時ゆとり全共闘やりべるたんがTwitter発信していた言葉もかなりユーモアに満ちていたことを思い出す。思い出を作る運動でしかないと批判されそうだけど、そういう空間の面白さが人を惹きつけるのだと自分は思っている。

りべるたんの試みによって、面白い空間は一瞬だけ学外に蘇ったりもした。けど、持続しなかったのは、キャンパスの自治のように、たまたまそこにいて、いやがおうにも目に入ってきて、巻き込まれてしまうという状況が作り出し難かったということなのだろうと思う。そして、学生であることは重要だ。若くて時間の余裕のある人を獲得できなかった。

「第一期DA」は法大闘争への参加を目指したが、実質、「中核派」が運営しており、ノンセクトとして独自性を出すのは難しかった。そこで、各大学で新歓のアジテーションやビラ配りなどをノンセクトでも独自に行おうとしたが、そこで警備や警察からの弾圧が酷すぎたのを目の当たりにし、学内路線から切り替える契機となった。管理化はもう完成されてしまっているんだなと自覚したのが個人的には虚しかった。悲しいくらい手応えがなく…。これから、時代がどう移り変わるか分からないけれど、自治を求めることが戦略としても、あり得ないものになっている。自由な自治空間としてのキャンパスなんていうローカルな原風景は誰によっても共有されない。あまりにも無力である。「誰かの所有物でも固定組織」でもなく「行為の積み重ねによるモンタージュ」というのは意外と脆く、移ろいやすく、思い出と共に消えて無くなる。

そこで「第二期DA」の活動は学外に出ることになるが…。学外に一歩でも踏み出したら、学生であるというアイデンティティはなくなってしまう。学生であるのはただの戦略的な武器でしかなく、本質的な意味が失われている。その中でどう、学生として取り組むかが、難しい課題である。ゆとり全共闘が成功したのは、主に就活デモに対してである。それ以外の活動は上手くいかなかったように見える。この就活デモ路線(=学費奨学金路線=BABL路線)をもっと取り組まなかったことが悔やまれる。いまからでも、志を持ってやってくれる若者はいないだろうか。

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