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暴力を否定する重さ


最近は言葉の重みが失われているように感じる。暴力に反対する言説は全て言葉の表象と意味世界の乖離でしかない。この期に及んで安全な立場から、言論の自由を盾に取り、暴力に反対することは自らの暴力性に無自覚であることの裏返しになる。


自由を盾にとって、なんでもアリと状況を容認してきた人たちが暴力反対を訴えたところで軽い。民主主義は多数決でもなければ言論の自由に立脚するものでもない。みんなが自分自身の言葉に責任を取ることだ。もっと覚悟を引き受けて暴力を堂々と肯定すべきだと思う。


もっと覚悟を持って言葉を発信すべきで、特に政治家は死を持って責任を追求される可能性が出てきたことは非常に望ましい。「何らかの絶対的な正当性が手続によって承認されるという状況」を覆す可能性が示されたわけだからね。


暴力反対の綺麗事を発するための条件そのものが暴力によって存立しているのではという問題提起がもっとあっても良い。自らも暴力的な存在であることを忘れて、わかりやすい暴力だけを批判するのは虫が良いだろうと思うので。


自分は人を殺す選択をしないし、他の人にも殺させる選択をさせない。これは暴力の否定ではなく選択ということ。暴力を否定するということは他の暴力を許容するということでしかない。選択をさせない、これが重要だ。

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