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肉声と文章


SNSにおいて肉声と文章はどちらが本当の人柄を表しているのだろうかという純粋な疑問がある。でも要するにこの話って、人柄や性格や本当の自分と呼ばれるものがなんであるのかという考え方の違いや、なんらかの制約の中での人間というものが想定されることになる。


肉声はその人の社会的な性格そのものであるから、我々に認知できる他者としての本当の姿としてイメージしやすい。その意味でそれがその人の素であると表現しているなら全くその通りである。でも、どうも肉声って身体という媒介を通じてでないと外と繋がれない感じがして、それが本当の自分だとはあまり思えないのが正直なところ。人は中身よりも伝え方とか見た目で判断してしまうし、同じ内容でも男の声と女の声とではまた評価のされ方が変わってくることもある。通常は発話内容よりも声に出したり表情や身振りで語る要素の方が多いわけだし、肉声もリアルタイムの表現なので、脳内の思考そのものが経験によって身体的に加工され出力される感じがしてしまう。


一方で文章は内面を細かく表現できると感じる。文章だけでは老若男女のどちら様が書いた文章か分からないときもある。性別を超えて社会的な制約のない表現方法だと思う。脳内の思考はSNSや文章表現で直接かなり細かいところまで表現できる。文章表現は、言語という枠組みの中で育まれた自分として、という制約が付くかもしれないけれど、単独な存在としての感受性を表していないか?とは思う…。


もう一つの観点としては意識か無意識かというのもあるかもしれない。人間の社会的な部分というのは無意識に作られていくものなのに対して、文章は意識的に作っていくものだから。


しかし、改めて考えると難しいな。そもそも、制約なしのありのままの自分ってのも存在しないのだから考えても無駄なトピックか…。

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