ボン ベートーヴェンとHARIBOグミ
デュッセルドルフ近郊の街、ボン。
ここは、旧西ドイツの首都。
賑やかなイメージのベルリンと比べると、ボンは大国西ドイツの首都だったとは思えないほど、落ち着いた雰囲気の街だ。
デュッセルドルフから近い割に、私はここを三度しか訪れていない。
こんな小さな街に首都が置かれたのは、旧西ドイツ初代首相コンラード・アデナウアー(Konrad Hermann Joseph Adenauer)の力だと言われている。
彼はケルンで生まれた後、首相時代にはボン近郊に住んでいたそうだ。
街角で彼の銅像を見つけた。
東西ドイツ統一後、ベルリンに首都が置かれた後も、ボンには連邦政府機関が多く残っている。
また、国際連合事務所も、2006年よりここに置かれている。
また、国際連合近くの通りには、今もたくさんの大使館が置かれている。
そのためか、ボンはとてもインターナショナルな街だと聞く。
ボン大学には日本語学科があるため、ボン大学で日本語を学んだというドイツ人も多い。
ボンは、ベートーヴェンの生まれた街としても有名だ。
街の中心辺りには、ベートーヴェンの博物館がある。
2020はベートーヴェン生誕250周年でもあり、盛大なお祝いになる年だろうと思っていたけれど、コロナの影響でイベントもできなかった。
とても残念だ。
2020年、ドイツポストでは、ベートーヴェンの記念切手を発行した。
たまたま郵便局に切手を買いに行ったら、担当してくれた受付のかたが、嬉しそうにこう言った。
あなたはラッキーよ!さっきベートーヴェン記念切手が入荷したところなのよ。
せっかく買うなら、もちろんベートーヴェンのほうを買うでしょう?
その嬉しそうな笑顔につられ、1シート(EUR0.80の10枚入り)だけ買う予定だったのに、なぜか2シートも買ってしまった。
いつでも使えるから別に損はないのだが、切手を貼る度に、その受付の女性の笑顔を思い出して、頬が緩んでしまった。
2020年には、ドイツ統一30周年の祝賀会が催されたが、ベートーヴェンの第九は、ベルリンの壁とも深い繋がりがある。
ベルリンの壁が崩壊した後の、最初のクリスマス。
バーンスタインが指揮を執った歴史的なコンサートで、第九が演奏された。
統一した事を強調するために、西ドイツ、東ドイツ、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの全6カ国の楽団で編成され、壁がなくなった喜びを分かちあった。
その時に、バーンスタインが、合唱団に歌詞を変更させて歌わせた事は、特に有名な話だ。
第九の合唱、歓喜の歌(歓喜によせて、喜びの歌とも言われる)は、ベートーヴェンがシラーの詩を引用して作った。
ドイツ語では、An die Freudeという。
Freude(喜び)
その喜びの部分を、自由という言葉に変えたのだ。
Freiheit(自由)
自由が奪われていたベルリンの街で、どれだけの人が『自由』を喜んだのかと思うと、心が震える。
因みに、ベートーヴェンの第九が日本で初めて演奏されたのは、鳴門市だ。
そこには、ドイツ軍人たちの収容所があった。
他の収容所と違い、そこでは捕虜の方たちへの温かい配慮があったと聞く。
スポーツや音楽が許されただけでなく、地元のかたとの交流もあったそうだ。
更には、この鳴門市とドイツのLüneburg市は、姉妹都市になっている。
私は、鳴門市でベートーヴェンの第九が演奏されたことは知っていたが、実は姉妹都市のことまでは知らなかった。
私にその事を教えてくれたのは、パートナーの両親だった。
彼らが休暇中にLüneburg市を訪れた時に、日独協会を訪れたそうだ。
日本とドイツの繋がり、捕虜のかたの生活の事など、たくさんの展示物を目にしたそうで、その写真を見せてくれた。
パートナーの母は、その中で一枚の写真を私に見せ、この意味をもう一度教えて欲しいと言った。
それは、毛筆でかかれた一枚の作品だった。
一期一会
これが、実際の写真だ。
私は、この言葉の意味を伝えるために、たくさんの言葉を使った。
この言葉を伝えるためには、まずは茶道のお話をせねばならない。
そして、一生に一度の機会・出会いであるという事を、私の伝えられる限り伝えた。
パートナーの母は、しっかりと私の目を見て話を聞いた後に、こう言った。
日本語はすごい言葉ね。
たった4つの言葉で、あなたが今言ったこと全てを表せるなんて。
そして、パートナーの母が、こう話してくれた。
あなたがた日本人が、ドイツの軍人を丁寧に扱ってくれたことに感謝したい。
なんという重い言葉だろう。
私は今、日本人の代表として、その言葉を受取っているのだ。
先人のかたの良識に、私こそが感謝すべきなのだ。
心臓をギュッと掴まれたような、そんな気分だった。
一人の人間として、そして海外にいる間には特に『日本人』として、これからも真っ直ぐに生きていこうと、背筋がピンとなった瞬間でもあった。
もし私が何か間違いを犯した時には、後々の時代まで、『日本人』としての悪い噂や歴史がつきまとうであろうから。
私には、生きているうちに大きな功績など残すことはできない。
しかし、誰にも迷惑を掛けてはいけないと、そう強く思うのだ。
パートナーの両親は、私と知り合い、それがきっかけとなってこの場所を訪れ、そして日本の歴史の一部を知ってくれた。
パートナーの両親の、こうした日本への興味を、私は素直に嬉しく思う。
そして、いつもながら、パートナーの両親には、感謝の言葉しか出てこない。
普通の生活をしていても、こうして時折、戦争の傷跡に触れる事がある。
その度に、ドイツ日本両国のみならず、世界が平和であって欲しいと切に願う。
シラーが書き残し、ベートーヴェンが曲を作った第九の通り、人類はみな兄弟になるのだから。
最後に。
ボンにはHARIBOの本店がある。
私は、HARIBOのグミが好きだ。
ブログのアカウント名を、かつてはこの名前を使っていた事もあった。
そして、HARIBOのCMも好きだ。
“Haribo macht Kinder froh – und Erwachsene ebenso”
ハリボは子供を幸せにする - そして大人もね
HARIBOのグミを食べていると、必ずその歌のフレーズが頭を駆け巡る。
自己暗示なのか、食べているだけで、何だか幸せな気分になる。
私も、誰かにとってHARIBOのような存在でいられたらと、ふと思う。
小さくても、その小さな一粒で、誰かを幸せにできるなんて素敵な事だ。
いや、自分が相手を幸せにするというのは、何ともおこがましい言葉ではないだろうか。
相手が幸せかどうかは、相手にしか分からないのだから。
私は、なるべく人に迷惑を掛けず、感謝を忘れずに、真っ直ぐ生きていきたい。
時々無性にHARIBOのグミを食べたくなるように、遠く離れた私の大切な人達が、時々ふと私を思い出してくれることがあったら、それだけでいい。