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小説/フリージアはまだ散らない

 安い酒で容易く酔える自分は、簡単な女だと思う。だからモテないのだ。いや、そもそも外面だって大して良くないのだから、簡単だろうか複雑だろうか、モテないものはモテない。でも、特にそれで困ったこともない。ニコニコと愛嬌だけはあるから、おじさんにはよくしてもらえた。好きな男ができたら、めげずにアタックしていてたらなんとか付き合うことができた。男と飲みに行って、寝てもいいな、と思えば、大概セックスした。もちろんそれっきりのあっさりした関係である。悪くない。女にだってヤりたい時はあるのだ。そういう時に、付き合ってもいない男と関係を持つことだってある。多分、みんなやっている。外面だけ、乙女を装っているだけだ。
 その昔、腹立たしかったのは、サークルの先輩が酔っ払った私を見て「お前とつきあってやってもいいよ」と上から目線なセリフを吐いたことだ。ブスでつまらない女に手を差し伸べてやってるつもりなのだろうか。むかついたから聞こえないふりをした。それ以上その先輩も何も言わなかった。だったら最初からつまらねぇ台詞言うなよ。こっちなんか、人類の生き残りがお前と私だけになったって願い下げだ。
 いやしかし。
 とにかくモテなくても、困ることはそんなにない。
 モテる人はどんな人生なんだろうか。想像すらつかない。あっちにもこっちにも、自分を褒めて愛でてくれる異性が列をなして待っているのだ。どんな気分だろうか。「あまり好きではない人から告白された。いつか好きになると思ってつきあってみたけど、やっぱりダメだったから別れた」などとたまに聞くことがあるけれど、そんな人生一度くらい歩んでみたかった。これまでの人生、相手から好きになってもらったことなど一度もない。いつも私から好きになり、私から告白し、相手から振られる。そんな人生だった。多分、この先もずっとそうなのだ。プロポーズだって下手をしたら自分からすることになるかもしれない。もし、この先私と結婚してくれるような変人が現れればの話だが。
 きっと、モテるようなタイプの人は、私のような人間を可愛そうに思うんだろう。ブスが強がっていると思ったりするのかもしれない。私の被害妄想かもしれないけれど。でも、どんな被害も、一人で妄想するだけなら問題にはならない。一番ひどいのは、その被害妄想を誰かに吐露し、同情を買おうとすることだ。思い込みを現実のものと捉え、相手を責め立てることだ。これが一番良くない。本当にやばくて、可愛そうな人になってしまう。だから私は何も言わない。私の心情を誰にも告げない。常に笑顔を絶やし、私は幸せです、と顔に書く。そして、羨ましいなぁ、と声に出して相手を褒める。僻みを表に出してはいけない。
 感のいい人に、全てを悟られてしまうから。

 生きるというのは、ややこしいことでいっぱいだ。

 「ななちゃん、今日で最後かぁ。新しい仕事も頑張れよ」
 ジョッキに残ったぬるいビールを飲み干し、沼田さんは赤ら顔でそう言った。ちょっと寂しそうな表情を見せるものだから、こちらも少し申し訳なくなってしまう。本当にお世話になりました、と卓上におでこを擦って礼を言うと、本当だよ本当!新入社員で入ってきた時はさぁ、と沼田さんは何度目かの思い出話を始めた。その声につられて、周りにいた社員たちもワラワラと集まってくる。私はもう、そんな話は一つも聞かずに上の空である。ビールを随分飲んだ。頭がぐわんぐわんする。悪くない気分だ。
 沼田さんの大きなお喋りを、いく人かの部下たちが相手にしているので私はニコニコしながら席を立ち、トイレへ向かう。酒を飲むと、飲んだ以上の水分が下から出てくる気してならない。ずっと沼田さんのお喋りに付き合っていたから、そろそろ限界である。
 店を出ると、地下街特有の低い天井が左右へ伸びている。視点の定まらぬままお手洗いマークを探すが、どうにも見つけられない。もしかしたら私は、相当酔っているのかもしれない。しばらく立ち尽くしていたら、後方から新島さんが現れた。
 「七石さん、トイレ行くの?」
 新島さんは、顔色ひとつ変わっていない。仕事用のネクタイがとられ、首元のボタンがだらしなく空いている。隙間から見える、首筋。
 「あ、はい。どっちですかね?右か、左か…」
 「はは、随分酔ってるね。こっちだよ。右です」
 新島さんが私の背中に手をやって、導いてくれる。なんだかくすぐったいけれど、笑って手を退ける気にもなれず、されるがままに歩く。
 「新島さん、素面ですか」
 「うん、飲んでないからね」
 「飲まないんですか」
 「下戸だもん、俺。でも楽しいよ。七石さんの送別会だし」
 にこり、と新島さんは笑う。かっこよくはないけれど、なかなか人を心を掴む笑顔である。いや、でもそれって、つまりそれって、かっこいいってことじゃないですか?酔っているので、よくわからなくなる。とにかく悪い気分ではない。
 「あ、水買っていいですか。ちょっとしんどくて」
 「そしたらお手洗い、先に行っておいで。俺買ってくるよ。自販機あっちだから」
 にこり。発言の度に笑う男である。礼を行って、私は用を足す。個室の便座に座って自分のお腹を見ると、マダラ模様に赤くなっている。酒飲むと毎度こうだ。絶対飲まない方がいい体だと思う。まぁ、酔いが覚めれば赤みは引くのだけれど。そのままセーターをめくって今日つけているブラジャーを見る。ヨレヨレだ。多分、前の彼氏と付き合っていた頃に買ったやつ。あの頃はピカピカだった。私自身もピカピカだった。今はもうヨレヨレ。下着も、私も。まぁ、それでも生きていける。胸を両手で揉むと、暖かくて、丸くて、ホッとする。胸はそこそこ大きいと思う。形は少し不格好だけど。こんなおっぱいでも困ったことはない。
 前に付き合っていた男は、私のおっぱいを見て乳首が離れすぎていると文句を言っていた。だからなんだというのだ。余計なお世話だ。ナニを挟まれて嬉しそうにしているのはどこのどいつだというんだろう。それをいうならば、その男の右乳首からは長い毛が1本生えていたし、そいつはその毛を大事に大事に育てていた。それに仮性包茎だった。私はそれを揶揄したことなんか一度もない。だって個人の身体のあれこれが私にとってどれくらい重要だというのだろう?どうでもいい部類に入ることなのだ。私たちは恋人同士になるという口約束を交わし、ただ入れたり出したりしているだけなのだから。
 ああ、疲れた。
 頭でつぶやいたつもりだったが、口から言葉が出ていた。個室の外から、コホン、と乾いた咳がした。外にいる人が、「人がいますよー!」という合図を送ってきたのだと思われた。急いでセーターをおろし、ズボンをあげる。水を流すと、トイレットペーパーが渦を巻いて吸い込まれていった。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 手を洗い外に出ると、新島さんがペットボトルの水を1本持って立っていた。にこり。目が合うとまた笑った。少しめまいがする。
 「はい、お水」
 「ありがとうございます」
 下からアルコールが出ていったおかげで、少しだけ視界がスッキリする。うそ、そんなわけはない。全ては気のせいなのだけれど。
 「新島さんは転職しないんですか」
 「うーん?いきなり突っ込んだこと聞くね」
 はは、と声を上げて笑い、それから少し考える素振りを見せる。
 「そうだねぇ。でも、七石さんが辞めて、いきなり俺まで辞めちゃったらみんなびっくりしちゃうからなぁ」
 しばらくは働くかな、と新島さんはにこりと笑う。
 「フゥン」
 聞いておいて、さして興味はなかった。辞める会社の人事がどうなろうと、私には全く重要じゃないから。全然興味ないじゃん、とケラケラと新島さんは笑って、それから私の頭を軽く撫でた。なんだこりゃ。
 普段ならけしてそんなことは聞かないのだろうけれど、酔っている私は、思ったことがそのまま口から出てしまう。今だって、そうだ。多分聞かなくていいことだろうに、飲み会の途中で頭を撫でられたら、思ってしまったんだ。誰だって思うでしょう?そうであって欲しい。
 「新島さんって誰にでもこんなことするんですか」
 私はすっとぼけた顔で、自分の頭を撫でながら尋ねた。新島さんは、私の顔を覗き込んで少し目をまあるくすると、「誰にでもはしないよ。かわいいな、て思ったからしたんだよ」と恥ずかしげもなく言った。ああ、やだやだ。私は正面に顔を向けて「うっわぁ」と心底嫌な顔をした。
 「そんな顔する?ひどいなぁ」
 「イヤホント、そーゆーの辞めた方がいいとオモイマスヨ」
 肩を竦めてさらに顔をしかめる。新島さんはそんな私を、親戚の姪っ子でも見守るような優しい目をしながら、ただ口元に曖昧な微笑を浮かべているだけだった。正解も不正解も提示することはなく、ただ、私の頭を撫でた事実だけがふわふわと二人の間を漂っている。
 可愛い、という言葉を簡単に口にする男は、多分、誰にでも言っているんだろうと思う。可愛い、と言われたら悪い気はしない。けれど、可愛くないことなど私自身が一番よく分かっている。男の言う可愛いは、お世辞だ。否定したくなる。否定をすれば、そんなことないよ、という言葉が返っている。堂々巡りだ。だから、感謝の気持ちだけ伝え、私は可愛いと言う言葉をそっと、どこかに置いてくる。私の中には取り込まない。それが最善の策だと思った。
 以前付き合っていた男が一度だけ、情事の最中に「今、すごい可愛い」と言ったセリフだけが、私の中にある。多分、あのセリフだけは本当の気持ちなんだと、素直に受け止められたからだろうな、と思う。過去の男の言葉を今でもたまに思い出してしまうのは、情けなくて、馬鹿らしくて、どうしようもないのだけれど。生きていると、どうしても記憶というものは溜まってしまうから。そしてその記憶は、都合よく消したり上書きしたり、できないようになっているのだ。

 沼田さんが音頭をとった一本締めで、送別会はお開きとなった。各方面から参加してくれた会社の先輩や同僚が、頑張れよ、と言って握手をしてくれる。在籍していたのはたった1年と半年ほどだったのに、私の旅立ちを祝福してくれる面々に、胸の奥がギューッとなる。新しい職場でも、きっと、頑張ろう、と心に刻む。隣の部の部長が、私の手を両手で包み込みながら「君ならどんなところでも通用するよ」と言ってくれた。ありがとうございます、と深々と頭を下げた。必ず恩返しをしよう。社会は繋がっているから。この社会に無駄な仕事なんて一つもない。私が暮らすこの世界の全ては、さまざまな人の仕事がつながって出来ている。私の頑張りが、必ずみんなの幸せに繋がるように。きっと、上手くやって見せよう。


 「ななちゃん、電車一緒だよね?」
 ゾロゾロと駅に向かう道中、沼田さんに声をかけられた。後ろには、本部長がひょこりと顔を出している。
 「あ、そうですね、一緒です」
 「一緒にかえろう。あ、本部長も一緒でしたっけ?」
 「一緒じゃないか。沼田くん、七石さん独り占めしようとしたってダメだよ〜!」
 やだなぁ、そんなんじゃないっすよ!
 おじさん同士の下らないやりとり。ぐわんぐわん、と頭の中で鐘がなっていた。私の体は、いよいよ酔いの最終フェーズに突入している。最高に気持ちが悪かった。かと言ってここで倒れるわけにも行かないし、なんとか自宅までたどり着かねばなるまい。そしてこのおっさんたちの前でひよった姿を見せるわけにもいかない。「家まで送ろうか?」なんて絶対言われたくないから。沼田さんは、本当にそう言うことを言い出しかねないタイプの人間なのだ。
 「七石さん、大丈夫?」
 視界にペットボトルが差し出され、見れば新島さんが心配そうな顔で立っていた。ペットボトルはまだ蓋が空いておらず、バーコードのところにセブンイレブンのシールがペトリと貼られていた。
 「水、飲みな」
 わざわざ買ってきてくれたんですか?
 「俺の分のついでだから。餞別ね」
 ジョークを拾う気にもなれず、ペットボトルを受け取って飲む。ゴクリ、ゴクリ、と喉の奥がなった。自分の音ではないみたいだった。これは相当酔っている。いや、さっきから酔っていたのだけれど、段々と「飲まなければよかった」と後悔するタイプの酔いに変移してきている。
 「俺も電車、方向一緒だから。一緒に行こう」
 新島さんの手が背中を優しく叩く。はい、と返事をして彼に続いた。

 金曜日の夜というだけあって、電車は満員だった。後から乗り込む乗客によって、ぎゅうぎゅうと、車内の奥へ奥へと追いやられる。人の匂い。タバコ。アルコール。夜の電車には、不健康で人工的で都会的な、悪臭ばかりが詰め込まれている。
 「いやー、さすがに混んでますね!」
 人目も憚らず、沼田さんが大きな声で現状報告をする。混んでいることなど、言葉にせずともそこにいる全員が分かっているのに。沼田さんは身長が高いから、満員電車でもよく目立った。にこやかで機嫌のいい赤ら顔がくしゃっと歪む。その隣では、本部長が窓の外を見ながら、うんうん、と小さく頷いていた。私は上の空で、天井の蛍光灯を睨む。何かに集中していないと気持ち悪さが加速しそうだった。
 私の隣に立っている新島さんが、私の顔を覗き込む。私は視線を合わせず、ただ蛍光灯を見ていた。
 「そういえばさ、新島って」
 沼田さんが新島さんに話を振った時、私の右手を誰かがぎゅっと掴んだ。その温かい手は、ゆっくりと私の手を包み込み、それから指の一本一本の間に、長い指を滑り込ませている。
 力強く、その手は、私の手を握った。
 「俺もそう思いますよ」
 新島さんがいつもと変わらぬ調子でそう答えていた。私の右側で。

 電車が私の最寄駅に到着するまで、新島さんはずっと私の手を握っていた。満員電車の中で、その結び目は、誰にも気付かれることなく、ただ私たちの間にあった。沼田さんは一人でぺちゃくちゃと話し、新島さんと本部長が変わる変わるにその相手をした。私は少し相槌を打ったり、笑ったりするだけで、話の内容は何も分かっていなかった。手が温かくて幸せだった。男性の手はなんでこう、大きいのだろう。包み込まれると、やっぱりどうして、安心してしまうんだろう。私は女なんだな、と痛感する。私は女である事実から逃げられず、その温もりを欲してしまう。一度その温もりを手に入れたら、離したくないと思ってしまう。どうせ叶わぬことなのに。それもまた人生。来週からは、また新しい職場で新しい人たちと働かねばならない。なら今ぐらい、この暖かさに甘えていたって、バチは当たらないはずだから。
 ぎゅっ、と手を握ると、新島さんもぎゅっと握り返してくれた。それだけでもう、胸がいっぱいだった。4人の中で、私が一番最初に電車を降りた。ギリギリまで指先は解かなかった。
 「じゃあな、ななちゃん、頑張れよ!」
 沼田さんがニコニコと大きく手を振って、その後ろで2人が手を上げていた。新島さんはいつも通りの笑顔だった。
 皆に一礼して、電車が見えなくなるまでホームから見送った。寒さがしんしんと足元から競り上がっている。気持ち悪さはどこかへ行ってしまったみたいだった。でもまだ、自分の内側と外側が分離していて、冷静なもう一人の自分が、体の外側から私を見ていた。早く家に帰ろう、温かいシャワーを浴びて、ベッドに潜り込もうじゃないか。

 新島さんの温かい手のことを考えていたら、元恋人のことを思い出してしまった。今頃何をしているんだろうか。確か入社して、遠くの支所に配属されたと聞いた。同じように会社の人とお酒を飲んで、はしゃいだりしているんだろうか。
 元気だろうか。
 たまには、私のことを思い出たりするんだろうか。
 明日になれば、多分全部夢だったと思うのだろう。だってこんな頭じゃ何が本当だったか判断できるわけがないもの。ジンジンと痛む頭を抱えて、帰路を急いだ。冷蔵庫に牛乳はあっただろうか。コーヒー豆の残りを挽いて、とびっきり濃いコーヒーを入れよう。そこに少しの牛乳。コンビニで甘ったるいパンを買って、明日の朝はそれを食べよう。右手を見ると、そこにはいつも通りの私の手があった。頬に触れると、温かさと冷たさが衝突してジンジンした。生きているんだな、と思う。体は絶えず代謝し、熱を作り出している。

 「頑張るぞぉ」

 私の声は、夜の暗闇の飲まれ、誰にも届くことなく消滅していった。それでもいい、自分が自分らしくいるためには、誰のためでもなく、自分のために証明し続ければいいだけだ。
 今日も、明日も、その先も、全部。

(201212)小林ハレ


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