終わり、そして始まり
少し前に父の話を書いたが。
思いの外、早いタイミングで状況が変わってきた。しんどいことほど表に出して、ストレス軽減につなげたい派なので、記録しておこうと思う。
今は、地元を出て自宅方面へ向かうバスの中。
12月29日のTHE ALFEE 大阪城ホール公演参加のため、子どもたちと大阪旅行をして、千歳に着いたのが30日の18時。
機内モードを解除すると、妹からLINEが。
「明日、早めに帰ってこれない?父さんがヤバい。テレビを倒して壊そうとしたあと、奇声をあげて殴りかかってきた。」
は?
ちなみに、日常的に暴力を奮ったりする父親ではない。叩かれたこともない。
ピンときた。これは妄想からくる他害が始まったな、と。
今は施設にいる夫の父親が、認知症を発症した際に、他害行為があった。義母に殴りかかる、炊飯器を投げつける。
我が家に避難していた義母を探して家に来た義父と、取っ組み合いになったのはもう10年前…
昨日の事のように思い出した。
とりあえず妹に避難を促すも、落ち着かせたから大丈夫、こんな状態で置いて出られないとの返事。
いやいや、まずは自分の安全確保!と説得するも、耳を貸さない。
うちの父は、脚を中心に身体を動かすことに関わる障害をもっているため、暴れても押さえつける力は娘たちのほうが強い。それでも、包丁を持ち出したり家に火をつけたりということも考えられる。
空港に迎えに来てくれた夫と相談して、札幌での1泊を取り止め、急遽実家へ向かった。
21時過ぎに到着。父は2階の自室で寝たとのことで、一安心。状況を確認して、明日同じ状況になったら救急要請しようと決めて休んだ。
それでも、なにか起きるんじゃないかとソワソワ、ウトウトしながら朝を迎えた。
大晦日の朝7時、朝食のため父が1階に降りて来た。私の顔を見るなり、メソメソ泣きながらマシンガントーク。
昨日は妹にとんでもないことをしてしまった、最近はご飯も作れないんだ、車もうまく運転できない、転んでばかりでどこにも行けないし何も楽しいことがない…
何かするときは声に出して確認することを決まりにしたんだ、それでも関係ないことをしてしまうから、そのときはゴメンと謝ることにした(誰に…?)、でもそれも全部わざとなんだ(?)ふざけてるだけなんだ…(最早意味不明)
うんうん、それは大変だ、困ったね…と共感を示しながら話を聞くも、次第に父は不穏状態に。歯噛みをして、奇声をあげ始めた。
うわー…もうこれは完全に病気のやつ…と思いながら、まあまあご飯食べよう、お茶入れようか?とごまかして、何とか落ち着かせる。
その後はまたメソメソモード→独り言モードを繰り返し、午前中をやり過ごす。午後は、買い物に行く夫の車に一緒に乗っていきたいと言うので、私と長男も同乗して買い物へ。でも、父は一度も車から降りることなく、夫の買い物が終わるのを車内で待っていた。
16時頃、家に戻ってきて大爆発。
歯噛み→ウロウロ→奇声をあげて壁に殴りかかろうとし始めた。
あ、もう駄目だこれ。
不思議なほど冷静だった。躊躇いなんてなかった。
夫と二人で父を取り押さえ、妹に救急要請の電話を指示。その間も、舌を突き出して真っ赤になって叫ぶ父。舌を噛みそうで、それだけが怖かった。
「父さん、救急車呼ぶわ。普通じゃない、危ないよ。」
「救急車」というワードに反応する父。
呼ばんでいい、ふざけてるだけだ。こんなの遊びだ、冗談だ、と言い始めた。
…いや、遊びでこんなことされてたまるかい。
もう電話したから、というとオロオロモードに。
こんな年末になんてことを、迷惑だ。正月料理はどうするんだ(そこかよ!)、みんな困るだろ、税金の無駄遣いだ(私も妹も十分払ってるわ!)…
言いながら、だんだん落ち着いてきて、抑えなくても話ができる状態に。
基本的に、父はとても外面の良いタイプ。自分の弱みは絶対見せたくない。救急車が来たら近所にバレる、救急隊員にも今の姿を見られる。それは嫌だ、普通にしなければ…というのが手に取るようにわかる。
押し問答をしているうちに、救急隊が到着。暴れていると連絡しているため、警察も同行。
状況を説明して、病院への搬送と措置入院をお願いするも、年末年始にかかっているため難しい、という反応。病院が始まる4日まで何とか家で…と言われたけれど、いやいや無理だよ。
かなり粘り強く交渉して、何なら話もちょっと盛って、救急の精神科に連絡して診察してもらえることに!
勝った!…これが本音。
様子がおかしいな、と思い始めてから、何度も病院の受診を促してきた。一緒に行くかい、と提案もした。拒否されたけど。ここ数か月は自分で通院していたけれど、自分の変化や症状について、どうやら正直に伝えていないことも、この日の会話からわかってきた。家族から見ると明らかに病気なのに、なんの治療も始まっていなかった。
時間外のイレギュラーではあるけれど、これでやっと、家族同伴での診察に繋がった。
父に言われた。
「こんなの、計画的だろう。」
そうだよ、ずっとチャンスを伺ってた。
何とでも言って。この判断は絶対間違ってない。
救急車には私が同乗、夫と妹は自家用車で病院へ。父は、救急車の中でもひたすら申し訳ないと謝っていたけど、よくわからない独り言も出ていた。暴れてはいなくても、普通じゃないことは明らかだった。もう、体面を保ち続けることもできなくなっているんだな、と思った。
私たちの話を聞いた担当医の見立ては、おそらく統合失調症、あるいは認知症の併発。それも、かなり重い状態。
すぐに医療保護入院が決まった。
18時頃に実家に戻り、留守番をしていた子どもたちに状況を説明した。怖かったしょ、ごめんねと言うと、
「俺こそなんもできなくてごめん。気の利いたことも何も言えなかったわ。」
と長男。
初孫で、父がとても可愛がって信頼を置いていた。父が元気だったら、実家から高校に通わせるつもりだった。断念して下宿に入れたけれど、学校帰りに実家に寄ってくれたと父はとても喜んでいた。
次男は、
「大丈夫だよ、只事じゃないのは僕だってわかるよ。」
と、妹に話していたそうだ。小学生の三男にくっついて、努めて明るい雰囲気を作ってくれた。
その後は、一見何事もなかったかのように年越しそばを食べ、紅白を見て、年越しをして寝た。
2階には父がいるような感覚が抜けないまま、新年を迎えた。
夫と子どもたちは、一足先に2日に帰宅。
その後は、入院の手続き、必要な備品や着替えの準備、高額医療費と介護認定の手続き、末の妹との情報共有。支払いに充てる父の通帳の捜索。
住人がいなくなってしまう、実家の片付けや水落し。雪下ろしは全部はできなかった。
ご近所への挨拶。子どもの頃からかわいがってくれたおばさんが、「あなた達も大変だったね」って言ってくれたのが嬉しかった。
妹と一緒にバタバタと済ませ、地元を離れた。順調にいけば、明日は自宅に帰れる予定。
とりあえず、ホッとしている。
病気であることがはっきりしたこと。入院したことで、余計な心配がいらなくなったこと。治療が始まることで、改善の希望ももてること。
自分たちだけで悩まなくてもよくなったこと。父を疎ましく思ってしまう罪悪感に苛まれなくて済むこと。このまま嫌いにならずに済むこと。
私はともかく、近くに住んでいる妹のメンタルがかなりやられていた。父を放っておく自分が悪い、要求に答えてあげられない自分が悪い、母さんならきっとこうしていたはずなのに、自分にはできない…。
たとえ病気のせいだとしても、嫌味を言われて、酷いときはあからさまに責められて、それでも会いたい!なんてなるわけがない。年に数回しか帰らない私でさえ、正直ここ1年は父に会いたくなかった。
私(長女)と三女が遠方のため、どうしても次女に負担がかかる。少しでも分散して、距離を取らせたいと思う。
退院の目処は、一応3か月。自宅には戻さずに、病院経由で施設を探す予定だ。一人で暮らすことはもうさせられないし、かと言って同居もできない。きっと、そのほうが父にとっても良い。
まずは一区切り付いた。
年の暮れも差し迫った時に、駆けつけてくれた救急の皆さん、警察官の皆さん。受け入れてくれた病院の先生とスタッフさん。休みなのに、着信を見て折り返し、救急要請というアドバイスをくれた包括センターの職員さん。
父を、私達家族を助けてくれて本当にありがとう。
ここから、また新しいステージだ。
家族みんなが笑っていられるように、頼れるところは頼り、助け合っていきたい。
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