生まれ変わらずともキャベツになりたい2
そもそも、キャベツになりたいと思ったのは本当にふとした瞬間だった。
あれは確か、私がまだ小学生だった頃。
その日、我が家の食卓は笑顔で溢れていた。
父が出張から帰り、久しぶりに家族そろっての夕飯だったからだ。
お皿の上には色鮮やかなロールキャベツが整列しており、
リビング中が温かな匂いに満ちていた。
料理を食べながら、私はこんなことを考えていた。
「今このリビングが幸せに満ち溢れているのは
ロールキャベツのおかげかもしれない。」
ロールキャベツは家族を繋ぎ、幸せを振りまき、食卓を華やかにする。
そんな、最強の料理なのではないか。
こんなことを考えながら時間は和やかに過ぎていく。
それからの記憶は今では薄れてしまったが、この日がキャベツに対して
特別な想いを抱くきっかけになったのは間違いない。
意識すると、キャベツは実に様々な料理に使われていることに気が付く。
野菜炒め、ポトフ、お好み焼き、焼きそば、さらには揚げ物のお供まで。
メインからサブまで、多彩な姿をみせてくれる。
ほのかに甘く、主張しすぎず、それでいて他の具材に紛れ込まない。
その謙虚で奥ゆかしい姿勢に、私はどんどんと惹かれていった。
キャベツになったらこれまでと同じ生活は絶対に送れないし、
もちろん元に戻ることもできない。相当な覚悟がいることだ。
それでもキャベツになることを望むのには理由がある。
数十年間、人間として生きてみて感じたこと。
私は人間には向いていない。
これが一番の理由だ。たった数十年で何が分かるのか、
という意見もあるだろう。それでも私は、これまでの人生を
振り返ってみて、改めてそう感じる。
人間として生きることは、誰かと共に生きることに等しい。
人は独りでは生きていけない。これはなかなか厄介な問題である。
出会う人すべてが気の許せる関係になれるわけではないし、
長い時間をかけて築き上げた友情も、些細なことで崩れかねない。
その労力とリスクを耐え抜くほど、私は強くはなかった。
もう一つ理由がある。
人間の世界はどうも「できることが当たり前」という空気が充満している。
できない私は疎まれ、貶され、必要とされない。
人間でいる時間を重ねるほど、自分という存在が薄れていくような感覚だ。
こう理由を聞くと、ただ逃げているように思われるかもしれない。
とはいえ、決して生半可な気持ちでキャベツになろうというのではない。
キャベツにだって人付き合い、いや、キャベツ付き合いも大事だろう。
芯が通っていながらやさしく包み込んであげられるキャベツを目指す。
もう失敗は出来ない。
これは甘えや逃げ道などではなく、正真正銘の覚悟である。
【あとがき】
随分と時間が空いてしまいました。
「書く」って難しいですね。
これではキャベツになるにはまだまだのようです。
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