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小説「淡紫色の季節」(上)




 千里が、びくりと身体を震わせた。
 彼女の息遣いは荒く、恐怖心を押さえ込む様にして、僕の手に汗ばんだ両腕を強く絡ませてくる。毅然とした印象が強い普段の横顔でさえ、不安げな顔色に染まっていた。
「センリ?」
 今度は僕の声に驚いたのか、再び千里は声を上げて身体を硬直させる。予想外の行動に、僕まで驚いて懐中電灯を落としそうになったが、間一髪の所で堪え抜いた。その物体が生み出す、まさに機械的な光線が闇を照らしている。二人を包む冷たい風も、爽やかな虫の音も、夜空や懐中電灯の光でさえ、今は恐怖にしか想えない。
 刹那、風に煽られた艶のある黒髪が僕の腕に触れた。漸く千里は僕に身体を寄せていたことに気が付いたらしい。彼女は大きく目を見開いて、僕との距離をとった。
 何方の意でもない静寂が、ただ流れていく。
「ごめんね、直人……」
 千里は、僕の上着の裾も触れられない位置に移動していた。きっと何かに触れていなければ、心の平安が取れないのだろう。彼女は落ち着きなく長い髪を弄んでいる。
 触れそうで、触れることのない距離。
 幼馴染という曖昧な関係のまま、今日まで続いてきた距離。
 それを僅か数秒間で体現されたような気がして、胸を強く打たれた気がした。冗長な自尊心と恋心が仇となり、僕の心を抉るばかりだ。
「な、直人?」
 途切れがちな弱い声のする方へ目線を合わせると、千里の苦笑が見える。口元だけが綻び、笑顔を必死で取り繕おうとしているが、長年の幼馴染の僕には、明瞭であった。悔いの色が垣間見える瞳は、涙が含まれている為に潤んでいて、眉間には皺が現れている。いわば自身の失態を正当化したい、そう強く願っている時の顔だった。
「大丈夫、僕は全然気にしてないから」
 僕がそう告げると、千里は瞳に溜めていた水分を少しずつ放出し始めた。
 僕は彼女の気持ちを丁寧に汲み取らなければならない。
 だが、彼女との距離を縮める事はあってはならない。
 それ故に、僕は彼女の幼馴染以上になってはいけない。
 彼女の心を正当化してやらなければならない。
 彼女が望んでいる優しい言葉を掛けて、悲しい表情をやめる理由を作ってやらなければならない。
 たとえ、自分の考えに背いていたとしても。
「泣くなよ、センリ。湿っぽいのは、嫌だから。そうやって、いつも言ってきただろう?」
 僕は空いていた方の手で、千里の涙を拭いた。
「ありがとう。でも私、怖いから……」
 戸惑った様子の彼女に対し、僕は嘘に浸食された微笑みを返した。
「センリの馬鹿、墓場に幽霊なんて居る訳無いよ。人は皆、死んだ場所に縛られるんだ。だから、安心してくれ」
 千里が怖いと称したのは、この状況ではない。先程、僕と腕を組んだ事実が明るみに出る可能性が生まれた事の方だ。要するに、彼女の思いを知っていたにも拘らず、僕は知らないふりをしたのだ。
 左手の懐中電灯は、闇の先に未だ道が残されている事を明確に示している。仲間達が待つ場所に戻れば、千里は有無を言わずに僕の傍を離れていくだろう。否応無く突きつけられる現実が待っているのだ。そう始めから理解しているからこそ、千里と二人きりで居られるこの尊い時間だけは、あの男を世界から葬り去りたい位だった。
 だからこそ僕は、証拠のない偽りの情報を真実として彼女に伝え、二人で居なければならない理由を作るのだ。
 彼女の名前を呼ぶ度に、不思議と優越感が募る。
 そんな心の矛盾を見透かす様に、隈なき月が天に在った。
 やはり神様は、嘘を吐かない。
「センリ、早くオモテまで戻ろう。帰るのが遅すぎると皆が心配するだろうし」
 僕の言葉に促される様に、千里は漸く一歩を踏み出した。
「そうだね、宏樹に変な心配させたら大変だもん」
 まるで僕の意図を見抜いたかの様に、千里は笑みを見せた。その無邪気な笑顔は、僕にとって残酷以外の何物でもない。
「ああ」
 彼女の瞳から僅かに零れた涙が、奇しくも僕の恋心を深く突いたのは、言うまでもない事だった。


  2

 皆と別れたその夜の出来事だった。
 耳に触れる音が、徐々に人の声へと変わる。やがて僕は、あまりに多くの声に囲まれていることを知った。辺りを見渡すと、ぼやけた視界に血ではない鮮やかな赤が明滅しているのが映った。カメラのピントを合わせるように、ゆるやかに焦点が定まっていく。赤の正体は回転灯だった。いくつもの赤い光が、パトカーの車体を煌々と照らしている。
 作業用の大きな白熱灯に照らされる野次馬の姿も見えた。その多くが、現場を見て戸惑いや同情の表情を浮かべている。
 命を落としてもなお、卑屈な精神が已まない自分がひどく滑稽に思え、僕は笑んだ。
 ふと、思うのだ――何故僕は自らの死を自覚して、動揺していないのだろう、と。
 だが、その答えは至って明快なものだった。今の僕には、様々なものが欠落しているからだ。
 まず第一に、嗅覚の欠如。これだけ目の前に血溜まりがあるというのに、あの独特な鉄臭さでさえも、今は鼻に届く事はない。
 第二に、触覚の欠如。手を握りしめようと試みても感覚が無い。その上、夜風に肌が撫でられる感覚もなくなっていた。
 具体例を挙げれば数多くあるはずだが、先程の感情もその例の一つだろう。きっと、それ以外にも抜け落ちている部分があるに違いない。
 恐らくこの感覚こそが、死なのかもしれない。
「……直人」
 傍観者の喧噪に混じって、知った声が確かに聞こえてきた。声の方を見やると、僕の死体を眺めていた傍観者達の波が割れ、そこを歩いてくる影々が見える。
 深く身体を折って嗚咽を漏らす母。
 その肩を抱えて支えていた、茫然自失の父。
 二人の背後の千里は、整った顔を驚愕に歪めていた。
 事故現場の惨状を見るや、家族はその場に泣き崩れた。
「直人!」
 あの自転車に僕の姿を重ねているのだろうか、母は嗚咽しながら僕の名を何度も呼んでいた。その姿は、余りにも悲壮だった。
『母さん、父さん!』
 懸命に声を張り上げたが、誰も僕の叫びに気付く様子はなかった。ただ湿っぽい風の音が、耳の横を通り過ぎるだけだった。
 その後、遺族の到着を確認した警官の一人が両親の元に駆け寄り、母に何かを告げていた。恐らく遺体を確認しろという内容なのだろうか。家族だけが連れられて、僕の視界から消えていった。
 現場に一人取り残された千里の頬には、やはり涙が伝っていた。それも、あの時と同じ苦笑を浮かべて。
「私は、君を忘れない! 忘れたくない!」
 千里は涙を堪えながら、そう叫んでいた。
 上原千里に、もう一度だけ純粋な笑顔を取り戻したい。
 無理だと分かっていても、僕は願うばかりだった。


  3


 亡くなってから大体、一年が経過したと思う。
 現世に何か未練が残っている為なのか、僕は今もこの地上の世界を放浪していた。
 天国なんて高望みはしないから、せめて地獄にでも行って早く成仏したい。
 次第に夏の本格的な暑さが和らぎ、寛ぎやすい気候になってきたが、体感温度は相変わらず高く、暑苦しい状況にある事に変わりはない。日光で熱せられたアスファルトを眺めているだけでさえ、何故か暑さに近い物を感じてしまう。
 幼気な少年が、僕の横を通り過ぎていった。同時に、嘗ては当たり前だったその風景が、とても遠く感ぜられる。確かに彼の声は聞こえるし、目線に捉える事は出来る。だが彼が手に持つかき氷の匂いや甘みも、大気の唸る様な暑さも、僕には既に伝わらなくなっていた。暫く視覚と聴覚だけの世界に居る事を余儀なくさせられていた為か、この世界が酷く簡素で退屈なものに思えた。
 感じるがままに道を進んで行くと、次第に見慣れた風景が増えてきた。それにつれて、心の高揚も大きくなり始める。
 すると千里の声が脳内に蘇り、自ずと何度も再生されていき、繰り返し反復するうちにクレシェンドしていく。
『センリ!』
 小さな古書堂の前を通り抜けると、幼少期によく遊んだ公園に辿り着く。あれから一年を経た現在でもかき氷を売り捌く、あの中年男性がいた。自前の生産機械と、王道からマニアックな味まで折々の風味が味わえるシロップを携え、今日も活躍中だ。元気そうで何よりだった。
 何故僕は、千里に会いに行こうとしているのだろう。
 居なくなった事で、あれほど辛い思いをさせてしまったのに。
 僕の脳裏を不安が過ったその時、一心不乱に丁字路を曲がる。突如、心を鷲掴みにされた様な衝撃が走った。気付けば先程の感情は、意識の奥へと葬り去られていった。あの高揚感に似た何かが、心の中で更に大きく跳ねる。
『センリ!』
 今も恋い焦がれて止まない彼女が、淡紫色の小さな花束を携えて立っていた。傍らの瓦塀には、息絶えたアブラゼミが転がっていた。仲間の死を弔う彼らの挽歌が辺りに響き渡る中、千里は唐突に座り込み、持っていた花束の中から一本、シオンの花を抜き取って蝉の傍にそっと置いた。
『成仏しろよ』
 千里が例の表情を浮かべていたからかもしれない。苦しそうに目元を歪めて、それでも無理矢理取り繕おうとする毅然さを兼ね備えた脆い苦笑を、彼らに向けていたのだ。
『センリ!』
 思いが届く事は決して無いと分かった上で、僕は彼女の名を呼ぶ。やはり彼女は僕の存在を知らないままに立ち上がり、彼らを一瞥すると歩き出した。
 そうだ、僕はもう死んでいるのだ。
 今の僕には、彼女の後ろをただ歩んでいく事しか出来ないのだ。


  4


 千里が向かった先は、近所で唯一の寺院だった。様々な気象現象に晒されて黒く錆びれた門を抜けると、更に境内の裏側の敷地に墓地はある。その立ち並ぶ灰色の墓石群の中に、僕の骨が眠る墓もあった。苔むした石、黒ずんだ卒塔婆、どこか寂しげな空気。だが、何処か懐かしさがある。そう思うのは、親しい友人達で集まって此処で肝試しをした、という記憶が残っているからかもしれない。
 それは、彼女と二人きりでいられた最後の日。
 彼女に触れられた最後の日。
 生前に彼女の苦笑を見た最後の日。
 ふと瞳の奥に、あの日の千里が浮かべた苦笑が浮かぶ。
 繰り返し思い出される、彼女の表情。途轍もなく重い錘で頭を殴られたかの様な衝撃が走った。頭を抱え込んでその場に屈んだ僕の中を、堰を切って溢れ出した物が蹂躙する。
 何故僕は、今でも一心不乱に彼女ばかりを想っているのか。
 そもそも僕は、何をする為に此処へ帰って来たのか。
『センリ!』
 思いの丈を込めた叫びすら、生の世界にいる千里には到底届かない。僕が発した言の葉は風に姿を変えて、何処か虚空に消えていく。そして僕を嘲笑うかの如く、鳴き止まないセミが喧噪をまき散らすばかりだ。
 千里は手桶と勺を提げて、僕の墓前に立っていた。頬には、伝う一筋の涙が見えた。
 その時、僕は悟ったのだ――僕はその涙を止める為に、この世界に残ったのかもしれない。自らへの悔恨と、千里への懺悔の為だけに、僕は此処にいるのだ。
 つまり死後も千里に強く固執していたのは、砕け去ったはずの恋心が残っていたからではない。幼馴染としての役割を放棄した事、それが引き金になり彼女の苦笑を泣笑に変えてしまった事への未練。
 それが、俗世に未練を残し成仏出来なかった、現在の僕なのだ。
 千里の頬を流れた涙が再び一滴、地へと落ちた。
 状況から推測すると、千里は数日に一度は必ず僕の墓を訪れていた。今日来る前も綺麗に片付いていた墓を観れば、一目瞭然だ。
 千里は、頬に涙の跡を残したままで僕との思い出を語り始めた。勿論、見せかけの笑顔を取り繕って。
『センリ!』
 その表情のから窺える脆さや弱さが、無情にも痛々しかった。自身の目的を知ったところで、今の僕には何も出来ない。誰よりも近くにいるはずなのに、涙も止めてあげられない。
 絶望がやがて無気力を引き起こすと同時に、周辺から色が消え始めた様にも思えた。緑の木々は灰色に変わり、通り過ぎる人々も白黒の濃淡で構成されている。だが相変わらず、千里の姿だけは鮮明のままだった。自ずと、僕の罪や未練を意識させられてしまう。
 僕は、一体どうなっていくのだろう。
 千里以外の全てを拒絶し、全てが千里だけに溢れた世界に閉じ込められていくのだろう。
 空虚な絶望を抱える、逝き損ないの身体は涙を流す事さえも許してはくれない。それでも闇の中に微かな光がある様に、絶望の中に希望が存在しないはずはない。だからこそ、希望を手に入れた身体で、ただ僕は彼女を見つめていた。


  5


 朝から妙に墓が騒がしい。どうやら今日は、僕の一周忌法要の日らしい。
 モノクロの世界に居ても喪服だと鮮明に分かる服装の人々は、涙を流すこともなく、何とも言えない表情で立っていた。死者の弔いがここまで形骸化してしまうと、逆に清々しい心持かもしれない。
 そんな中、坊さんは正面の僕の存在に気づく様子も見せず、読経に没頭していた。法を極めた者でさえ、僕に気付く事が出来ないと思うと、更に身体の奥が痛む。
 次に僕は、活けられた無数の花を眺めた。やはり豪華な仏花の中にも、心に響くものは無い。因みに千里が飾ってくれていたものは、あの紫色の花だった。シオンの花は質素で古臭い様にも思えるが、僕にとっては心を篭めた贈り物である事は充分に伝わって来る。
 親族などが焼香を済ませた後、今度は嘗ての級友が束になってやってきた。彼らは、手向ける花の代わりにサンドイッチを持って来ていた。
「おい直人、大好物のサンドイッチ持ってきたぞ。あの世でもこれ食って、元気出してくれや」
「いやいや、腐ると不味いから持って帰るわ」
 矛盾も甚だしい言葉を放って、早々と去っていった。だが生前と全く変わらない、そのやり取りが懐かしく嬉しくも感じる。
 あの頃と決定的に違うのは、意思伝達が双方向では無い事だ。やはり彼らが居なくなった空間は、酷く荒んで見えた。生者が騒げば騒ぐほど、自身の孤独が顕著になってしまう。
 そう思うと、溜め息ばかりが零れる。

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