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短編小説「夢境」


 ユメの国へ行ってくる。

 お父さんが家から消えた日の翌朝、手紙が食卓の上に置かれていた。

 ソフィアは書かれた文言を眺めながら、楽しそうに話している。

「ユメの国って、どんなところなの?」

「とても楽しいところだよ」

 私は冗談交じりにそう答える。

 幼いソフィアは、お父さんのことが本当に大好きだ。

 お父さんも彼女の気持ちを汲み取っていたようで、出張で長い間帰れなくなるだろうと判断すると、必ずソフィアに向けた手紙を残していた。

 家で会える貴重な時間には、お父さんがソフィアの遊びによく付き合っていた。

 実際、お父さんは1か月に10日ほどは出張という形で、こういった外出を繰り返している。

 ただ私は、この手紙に対して、得体の知れない違和感を抱いていた。

 今までの文章と筆跡が明らかに違う。

「ユメの国って、どうやったら行けるの?」

「分からない。私も行ったことないから」

 好奇心旺盛なソフィアが「お腹すいた」と強く要求してきたので、私は急かされるように朝食の準備を始めた。

 今日は学校も無く、日めくりカレンダーの日付が赤くなっている。

 時間なら、両手では持てないほど充分に有り余っているはずだ。

 ソフィアは高い椅子に跳ねるようにして座り、テレビの電源を押した。

「……ねえ、朝ごはん、まだ?」

 冷蔵庫を開けたばかりの私は、微笑しながら卵を2つ取り出した。

「朝ごはんにスクランブルエッグは、いかが?」

 私の家庭は、両親、私、ソフィアの4人家族。

 お母さんは複数のパート職を兼務しながら、家計を立てている。

 そのため、出張で忙しいお父さんの事情を考慮しても、家族全員が揃う機会は限られていた。

 最近になって、その傾向がより顕著になったのは言うまでもない。

 両親の仲については、長女の私ですら把握しきれていないが、良くもなく悪くもなくといった状況だった。

 逆に、この家庭環境のおかげで多少の家事は、不自由なく出来るようになったのかもしれないと思うと、感謝の気持ちも湧いてくる。

 私が台所でコーヒーを飲んでいた時、ソフィアは「ごちそうさま!」と元気に声を上げた。

 テレビの画面は、先ほどのアニメからニュース番組に切り替わっている。

「今日は、食べるの早かったね」

「だって、お姉ちゃんの作る卵、おいしい」

 ソフィアの唇にマヨネーズが少し付いていたので、私はカップを食卓に置いてから彼女の口に手を当てた。

「そう、それは良かった。でも、私は卵作ってないけどね」

 嬉しくも悲しくもない感想だったが、それよりも私はソフィアの無邪気な仕草や表情を見て、胸が飛び出そうになっていた。

「寝てもいい?」

「いいよ、床にタオル引いてあげるから、ちょっと待っていて」

 相変わらずソフィアは「早く、早く」と、やはり私を急かしていた。

「ソフィア、準備が出来たから寝てもいいよ」

「お姉ちゃん、ありがとう!」

 私は彼女の頭を優しく擦りながら、そっと「おやすみ」と一言だけ囁く。

 そうだ、さっきのコーヒーを飲まないと。

 食卓の上にあったソフィアの食器を台所に戻し、再びカップを手に取った。

『――次のニュースです』

 1件目のニュースを伝えたテレビ番組が、次のニュースを報じ始める。

『山奥で、男性の遺体が発見されました』

 物騒な世の中だ。

 私はそう思いつつ、残っていたコーヒーを飲み干した。

 味はいつも通りだったが、温度が少し冷えていたためか、物足りなく感じる。

 次の瞬間、私の目には予想もしない光景が目に映った。

 遺棄された遺体が、私のお父さんだったのだ。

 持っていた運転免許証から身元が判明したらしい。

 名前も、年齢も、在住州も、癖の強い髪型も、何もかも。

 その主要な特徴は、明らかに一致している。

 現場の状況から、死因は毒殺の可能性が高いそうだ。

 私は衝動的に、テレビの電源を落とした。

 お父さんに会いたがっている様子のソフィアに、この現実を教えたくない。

 知られてしまったら、どれだけ彼女が悲しむだろうか。

 彼女よりも年上の私だって、相当悲しいのに。

「1人にしないでよ……」

 自ずと、震えた声が出た。

 落ち着かない。

 零れそうになる涙を私は、全力で堪える。

 ソフィアの前では絶対に泣かないって、決めていたのに。

 私が泣いたら、ソフィアだって泣いてしまう。

 隠れるようにして部屋を飛び出し、廊下へと逃げ込む。

 扉を閉めて、様子を見られないように。

 私は適当な場所に腰を下ろして数回深呼吸をした。

 心臓の音が収まってほしい。

 落ち着かない。

 朝とはいえ、光が差し込む隙間のない廊下は、更に不気味さを増していた。

 妙な薄暗さに対して、怖気づいてしまう。

 玄関のチャイムが鳴り、私は更に嫌気を募らせた。

「やめて」

 今は、誰にも会いたくない。

 そう思っていた私には、自分からあの扉を開けることは到底簡単ではなかった。

 数回チャイムが鳴る度に、緊張感が増していく。

 暫く鳴り響いていたその音が落ち着くと、私は安堵した。

「愛しのハンナ、ソフィア!」

 私には、この声に聴き覚えがあった。

 きっと、間違いない。

「ただいま、ハンナ」

 お母さんは、扉を開けながら私に向かってそう言った。

「おかえり、お母さん」

 私はお母さんに強く抱かれながら、喜びを噛みしめる。

「朝ごはんは食べた?」

「スクランブルエッグ食べた」

「……あら、そうなの、それなら良かった。ところで、ソフィアは?」

「寝ているよ、テレビの前で」

 ソフィアのいる方を指で差すと、お母さんは微笑していた。

「中に入って、温かい紅茶でも淹れようか」

「うん」

 平静を取り戻しつつある私は、お母さんとともに部屋に戻り、食卓の椅子に座った。

 お母さんはペットボトルから水をポットに移したうえで、スイッチを押した。

 すると、そのままお母さんは、私と正面で向き合う形になって、椅子に腰を下ろした。

「私がいない間、大丈夫だった?」

「学校がある日はちゃんと学校行ったし、ソフィアの見守りもしっかりしたよ」

 お母さんは嬉しかったのか、自然と笑顔を取り繕っていた。

「ねえ、お母さんは何やっていたの?」

「久しぶりに、お父さんと一緒にユメの国へ旅行していたのよ。普段はお父さんが1人だけでユメの国に行くんだけどね、今回は2人で行ったの。とても良い時間を過ごせて、楽しかったわ」

「お父さんは、いつ帰ってくるの。いつものユメの国から」

「そうね、今日の夜ごろかしら」

 少し間を空けてからお母さんは返事をした。

 どうやら、少し動揺しているようにも見える。

 何しろ、お母さんは嘘を吐いているはずだからだ。

「お父さん、誰かに殺されたんでしょう?」

 その質問をすると、まるで人が変わったかのように、お母さんは次の言葉を発した。

「ねえ、ハンナ」

 ふと私は顔を上げる。

「――ハンナはもうすぐ何歳になるの?」

「16歳だよ」

 不審に思いながらも、私は答えた。

「じゃあ、ソフィアは」

「4歳かな」

「今から、簡単な算数の問題を出すから答えてね。ハンナとソフィアの年齢の差は?」

 私は迷う事無く「12」と発した。

「では、問題をもう一つ。ハンナとソフィアは、なぜ年齢がこんなに離れていると思う?」

 懸命に解答を考えたが、私には思い浮かぶはずも無かった。

 それゆえ、私は正直に「分からない」と言葉を返した。

 部屋に沈黙の時間が流れる。

「――その理由はね、姉妹の母親が違うからなの」

「えっ、それはどういうこと?」

 心から自発的に浮かんだ率直な疑問を、私はお母さんに尋ねる。

「ハンナの母親は私、ソフィアの母親はお父さんのもう1人の妻よ。私はハンナのことはとても好きだけど、あのソフィアとお父さんが楽しそうにしているのを観ると、腹を立てて気分が悪くなるの。だって、私の娘じゃないから」

「いや、違うわ。ソフィアはお母さんの娘でなかったとしても、間違いなく私の妹よ。お母さんにとって無関係でも、私にとっては間違いなく特別な存在だよ……ところで、お父さんはなんで殺されたの、2人で一緒にユメの国へ行っていたんだから、何か知っているはずでしょ?」

 するとお母さんは怪訝そうにして、こう言い返した。

「あら、簡単よ……私がパパを殺したの」

 私は咄嗟に食卓を叩きつけて立ち上がり、お母さんの近くまで寄ってから「ふざけるな!」と耳元で吠えるようにして叫ぶ。

 ソフィアは相変わらず、自分のペースで眠っている。

 彼女の表情は、今の私にとって唯一の癒しだった。

「いや、ふざけているのはパパの方よ。私に、旅行だの出張だの嘘を吐いて、もう一人のママと――」

「もう黙っていて!」

 お母さんの言葉を遮って、私は先ほど以上の奇声を上げる。

 真相をこれ以上知ったところで、誰も得しないのは眼に見えている。

 私だって、もう立派な大人になるはずだ。

 ただ普通に15年以上も、生きてきた訳ではない。

 もうすぐ私は成人して、少年Aにはなれなくなる。

 銃を持っていなくてよかった。

 実母を殺して、犯罪者になるのは絶対に面倒だ。

 もっと自分のことに責任を持たなきゃ。

「……お、おねえ、ちゃん?」

 今度は、ずっと眠っていたはずのソフィアが寝言を吐いていた。

 私は彼女に向かって、小声で「大丈夫?」と尋ねる。

(うん、私は大丈夫だよ)

 そう聞こえた気がする。

 瞳は閉じているようだったから、まだ目は覚ましていないのだろう。

 私は少しだけ、安堵していた。

「お母さん、お願いだから、此処から出ていって――ソフィアがこんな所を見てしまったら、絶対に悲しむだろうから」

「うるさい!」

 お母さんは、また怒鳴るようにして言う。

「お願いだから静かにして、あの子が起きちゃう。ソフィアが悲しかったら、私も悲しいの。それから、今すぐ私たちと縁を切って」

 お母さんは「分かった」と軽く頷いて椅子から立ち上がると、玄関へと歩いて行った。

「――ずっと好きだったんだよ、お母さんのこと」

 廊下まで見送りに来た私がそう告げると、一瞬だけお母さんは笑顔を見せた。

「立派な大人になってね」

 丸腰のお母さんが、家を後にした。

 開いていたはずの扉が、無慈悲な音を立てて元の位置に戻る。

 私が16歳になるまで、あと3日の出来事だった。

 数日経っても、私はその状況を受け止め切れないままだった。

 両親が帰って来ないという事実を、どう伝えるべきか。

 もうソフィアが、大好きなお父さんに2度と会えないことも。

 お母さんがお父さんを殺してしまったことも。

 私が、お母さんのことを追い出してしまったことも。

 ソフィアは今日も呑気にテレビの画面を眺めている。

 やっぱり、彼女は何も考えていない。

 でも時折、息苦しい様子も見せている。

 玄関の扉が、今日も恐怖に怯えているようだった。

「――さん」

 何処か遠くで名前を呼ばれた、そんな気がする。

 テレビのバラエティーやアニメ番組は時々目を通していたが、ニュース番組はあれから一切観ていない。

 真実をソフィアに知られてしまうからだ。

「――さん、居ますか」

 自宅付近には何人かのマスコミが常に屯しており、私たちの様子を窺うことがあった。

 昨日の夜、私は玄関のチャイムを壊した。

 多少は騒音も和らいだはずだ、と思いたいところである。

 その後少し玄関で待機していると、扉の向こうの騒めきが無くなっていた。

 扉に開いた僅かな通し穴から、外を凝らすようにして眺める。

「もう夜だ」

 腹が減った私は、部屋にいたソフィアの方に行き、彼女に向かって言葉を発した。

「夜ごはん、食べようよ」

 しかしソフィアの目線は、テレビ番組の方に釘付けになっている。

 どうにかして彼女に振り向いてほしい、ただそれだけだった。

「一緒に、お父さんに会いに行かない?」

「えっ、本当に会えるの?」

 ソフィアは明らかに違う様子で、私に答える。

 君は、お父さんのことが大好きなんだね。

 そんな事を考えていた時、私の脳裏に1つの名案が閃いた。

「……ええ、本当よ。私と2人で、ユメの国へ行けるわ」

 すると彼女は、満面の笑顔を私の方へと見せた。

「さあソフィア、準備を始めよう――夜が明ける前に家を出なきゃ」

 私たちが家を出たのは、夜の11時を過ぎた頃だった。

 既に夜闇は漆黒を醸し出しており、数百の星が肉眼で捉えられるほどだった。

 路線バスに揺られながら、全力で海岸線の道路を駆け抜けていく。

 目的地のバス停は終点で、近くにある小さな灯台の名前がつけられている。

 この場所は幼少期に私も来たことがあるためか、変わらない景色が懐かしく思えた。

「ソフィア、着いたよ」

 灯台が見えてくると、私は眠っていた彼女を起こそうとした。

 ソフィアは起きるのを少しだけ抵抗したものの、運転手が私たちの下車を快く待っていてくれた。

 バスを降りると、一緒に乗車していたお爺さんが声をかけてきた。

「こんな遅い時間に此処へ来るなんて、変わった娘さんたちだね」

 妙に小汚い服装から判断するに、生活はあまり恵まれていないのだろう。

「そうかもしれないですね。最後にもう一度だけ、思い出の場所を巡りたかったんです」

「それは、どんな思い出だったかい?」

「私の人生で、一番幸せな時間でした」

 お爺さんは私の方を見て「良かった、良かった」と呟くと、微笑していた。

「――ところで、君は今何歳だい?」

 私は右手を繋いでいたソフィアを指差しながら、こう答えた。

「この娘が4歳で、私がもうすぐ16歳になります」

「ということは、年の離れた姉妹か」

「一応そうなりますね、正確には異母ですけど」

「あはは、これは失礼。君が余りにも大人びていたから親子だと思ったよ。今日は楽しんで行ってくれ」

 会釈をした私たちは、お爺さんと別れて、暫く進んできた道路から数段の階段を降りて、夜の砂浜を歩いていく。

 灯台の光が強くなるにつれて、私は高まる気持ちが抑えきれなくなっていた。

 今から数えて、20年くらい前だったかな。

 癖毛のお父さんが、若々しいお母さんをこの場所に連れ出してドライブしに来た時。

 あの灯台の下で夜景を眺めながら、永遠の愛を誓ったこと。

 嬉しくて印象に残っていたのだろうか、何か良いことがある度に、両親は私たちに聞かせてくれた。

 私が初めてこの灯台に来たのは、今のソフィアと同じ年頃だった。

 視界を遮る障害物が極めて少ないためか、砂浜から眺める夜景に私は心を奪われた。

『大きくなったら、大切な人を此処に連れていきたい』

 両親の話では、私はあの時、そんな言葉を呟いていたらしい。

 無論、私はその言葉を全く覚えていない。

 私の隣には両親が居て、皆で一緒に絶景を眺めていたのは、鮮明に覚えている。

 間違いなく、私の人生で一番幸せな時間だった。

 今は、隣にソフィアが居る。

 私にとって最も大切で、唯一無二の存在だ。

「お姉ちゃん、時計見て」

 ソフィアの言葉に驚いた私は「あっ」と声を上げる。

「誕生日おめでとう」

 私はつい嬉しくなって、彼女を抱え込むようにして抱きしめる。

 以前よりも少しだけ大きくなった感動に、私は嬉し涙が出そうになっていた。

「ありがとう」

 お父さん、お母さん。

 立派な大人になれたかな。

 私は今、世界で一番幸せです。

「――お姉ちゃん、海の方へ行ってもいい?」

「いいよ、二人で行こう」

 ソフィアは私の手を握ったまま、砂浜を進んでいった。

 小さな足跡と大きな足跡が、無垢な地面を彩っていく。

 やがて片足が冷たい海水に軽く触れた時、ソフィアは立ち止まった。

「ねえ、お姉ちゃん」

 私は「なあに」と言いながら、彼女の背丈に合わせるようにして腰を屈めた。

「お父さんは今頃、何しているのかな」

「きっと、元気でやっているはずよ」

 ソフィアに嘘を吐いてでも、今はそう伝えるしかない。

 少しでも彼女が前向きになってくれば、それだけで充分満足だ。

「ユメの国って、どんなところなの?」

「とても楽しいところだよ」

 私は冗談交じりにそう答える。

 幼いソフィアは、お父さんのことが本当に大好きだ。

「ユメの国って、どうやったら行けるの?」

「あの海の下に行けば、会えるはずよ」

 そう言うと、迷わずソフィアは水の中へと入っていった。

 私も彼女を追う形で、先へと進んで行く。

 久しぶりに我が家へ帰ると、空虚な非日常が目に映った。

 逆に部屋のカーテンを揺らせば、変わらない日常が外に広がっていた。

 沢山の人が行き交う活発な道路を見た後だけに、その空しさが更に悲しくなる。

 ふと目線を部屋に戻すと、食卓に1枚の手紙を見つけた。

 頬を伝う涙を拭くことさえ、今は上手に出来なかった。

 ユメの国へ行ってくる。


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