「日本人は時間厳守」なのか
インドでの生活も2か月近くなり、終わりが迫ってきました。
さて、今日は簡単に。最近「時間厳守」について考えることが増えました。
日本人はよく時間に厳しいといいます。しかし果たして本当に「日本人が」時間に厳しいのでしょうか。それは「国民性」という魔法の言葉で片づけてしまってよいのでしょうか。
2つの側面から考えたいと思います。
そもそも「時間厳守」なのか?
私たちが「時間厳守」といったとき、何をイメージするでしょうか。電車が時間通りに発車する、授業や会議が時間通りに始まる、などが挙げられるでしょう。確かに時間厳守ですね。
さて、このように「はじまりの時間」には厳しい一方で、「おわりの時間」についてはどうでしょうか。会議や授業の延長は日常茶飯事、残業時間は世界的に見ても多く、過労死は社会問題化しています。
私たちは、過度に「はじまりの時間厳守」に囚われた社会で生活しており、「おわりの時間厳守」を「時間厳守」の外に追い出していることがよくわかります。
(なお、日本だけがそうだというつもりはありません。私が今いるインドでは、「はじまり」も「おわり」もどちらもルーズです。)
社会が「時間厳守」を支えてくれている
さて、では一旦「はじまりの時間厳守」に絞って見てみましょう。確かに日本では時間厳守で物事が進むことが多いように思います。
しかし、これは「日本人だから」なのでしょうか。
今インドで生活していると、予測不可能なことが毎日のように起こります。
停電やブレーカーが落ちるといったことは日常茶飯事で、ラッシュ時の交通渋滞は半端ではありません。その時間は30分待ってもタクシーは捕まらず、捕まっても牛歩のごとく進まないことがあります。当然バスは20~30分の遅れや運休が当たり前です。雨期で大雨が降った日には一層ひどくなります。日本とオンライン会議をしていても、突如インターネットが止まり、復旧まで5分ほど参加できないこともしばしば。
こうしてみると、「時間厳守」というのが、国民性や文化もさることながら、そもそも社会的インフラの充実によって支えられていることがよくわかります。
当たり前のように電車が到着し、当たり前のようにネットがつながり、当たり前のように電気が使え、当たり前のように雨水が排水される日本という社会において、「時間厳守」であることは実ははるかに簡単なのです。
逆に、今私が暮らすインドの街で常に時間厳守を求められたら、私が日本人であろうがなかろうが、それはかなり難しい注文です。自分にできないことは当然人にも求めません。会議は遅れてスタートが当たり前であり、交通機関の遅れにも寛容になっていくものです。
私たちは、「時間厳守の文化/国民性」があるから時間厳守なのだと錯覚しがちですが、本当は逆なのではないでしょうか。充実した社会インフラがあって初めて、「時間厳守」の文化や国民性が生まれる土壌ができるのです。それがないところで時間厳守を求めるのは、プラスチックのバットでホームランを打てというようなものです(一部の怪物にはできるのかもしれませんが)。
ちなみに、新興国に限らずアメリカの大都市でも交通渋滞は大きな問題です。日本がいかに恵まれているかを考えさせられます。
※それと同時に、日本でも最近その社会インフラの一翼を担うタクシーの台数不足が叫ばれています。その意味で、ライドシェアの導入は日本の時間厳守にとって必要不可欠ですが、なかなか思い切った緩和には時間がかかっています。(この話はまたいつか)
「文化」や「国民性」と呼ばれるものの裏に何があるかを考えてみると面白いかもしれませんね。
ではまた。