社会課題に悪者はいない
3か月前にXでこんなことをつぶやいた。
さて、これは本当だろうか。社会課題に悪者はいないのだろうか?
なぜ、社会課題になっているのか
世の中では日々、私たち一人一人に無数の「問題」が起きている。
転んで怪我をした、スマホが壊れた、電車が遅れた、親が入院した、詐欺被害にあった、電気代が払えなくなった、…。
この数えきれない問題たちをここでは「個別課題」と呼ぶことにする。
(注:本記事では、「課題」と「問題」は区別せずに用いています。)
これらの個別課題の多くは、人々が個々人で解決できる「純粋な個別課題」である。擦り傷には絆創膏を貼れば良いし、使っているスマホが壊れたら修理に行けばよい。このようなケースは、大概何が/誰が原因だったのかは明確である。歩きスマホをしていて転んだなら自分が悪いし、その結果落としたスマホが壊れたなら、それも自分のせいである。誰かがぶつかって来てスマホを落としたのなら、その人のせいである。
しかし、そのような課題とは別に、果たして個別課題と言い切ってしまってよいのか怪しく思える課題も存在する。それは、複数の場所で複数の人が似たような個別課題を経験しているような場合である。
Aさんの「個別課題」
一人の子ども(Aさん)が親からの暴力を機に家出をしたとする。家は出たものの収入がない。食べることさえままならず、生活に困る。小中学生なので働くこともできない。
Aさんの個別課題である。親の虐待のせいでAさんは居場所をなくし、経済的に困窮している。悪者は明確である。
さて、その後行く場所をなくしたAさんは、新宿に「トー横」と呼ばれる場所があることをSNSで知る。足を運んでみると、なんとそこには同じような境遇の子どもたちがたくさん集まっていた。親に暴力を受けた子どもたち、親が家に全く帰ってこない子どもたち、帰ってきても無視される子どもたち。同じように苦しむ子どもたちがこんなにいるのか、とAさんは驚く。
さて、それでもまだ、Aさんの問題は「個別課題」だろうか。
さらに、トー横の仲間たちの話によれば、一部の子どもたちは収入を得るため「案件」と呼ばれる売春を行っているらしい。一度に数万円が手に入ると聞いた。収入がなく、どうしようもなくなったAさんは、友人の手ほどきを受けながら、腹を括って自分も案件を始めることにした。こうして新宿では今、売春/買春が横行している。そして東京に限らず、同じ現象は大阪の難波でも見られる。
ここまで来ると、Aさんの問題はそこに確かにあるはずなのに、どうも「個別課題」という言い方が不自然な感覚を覚える。というのも、全くもって「個別」感がないのである。
ここに「社会課題」の概念が生まれる。複数の場所で、複数の人間が似たような個別課題を感じているとき、そこには何か「個人の運の悪さ」や「個人の失敗」を超えた大きな課題が存在していることが多い。先の例で言えば、それは子どもの孤立・貧困であり、虐待であり、ネグレクトであり、児童売買春である。
社会課題の「悪者」は誰か
ここで、冒頭の問いに戻る。悪者は誰なのだろうか。虐待に走った親だろうか、計画なく家を出たAさんだろうか、Aさんに案件を教えたトー横の子どもたちだろうか、Aさんを「買う」大人たちだろうか。
なんだか、全員悪いような気もしてくる。「個別課題」としてこの現象を捉えれば、全員が(多かれ少なかれ)悪者に思えてくるのである。そして、その答えは間違っていない。
しかし、その悪者が改心すれば、この「問題」は解決するのだろうか?
虐待をするAさんの親が改心すれば、確かにこの「個別課題」は終わるかもしれない。しかし、他にも大量に存在するトー横の子どもたちの状況は変わらない。それでは、今度はトー横に集まる子どもたちの親が全員改心すればよいのだろうか。確かにそれで一旦は問題は解決するかもしれない。しかし、今後親になる人々が同様の虐待をはじめ、家出する子どもたちがまた増えるかもしれない。
なんだか揚げ足取りの議論のように思えるかもしれないが、決して机上の空論を並べたいのではない。
様々な場所で、様々な人々が同様の「個別課題」を経験しているとき、それは「個」を超えた「社会課題」である。そして、社会課題であるということは、何か社会の側に構造的な問題が存在しているということである。逆に言うと、そうでもなければ、同じような課題が場所や時や人を超えて、起き続けるはずがないのである。
「悪者はいない」とは言わない。虐待する親は間違いなく悪いし、子どもを買う大人は間違いなく悪い。しかし、誰かを悪者にするだけでは解決できない問題が、社会課題なのである。そしてそのようにして解決できないからこそ、「社会課題」に”なっている”のである。
「悪者探し」を超えて
であるからこそ、私は社会課題に向き合う時、「この問題には明確な悪者がいる」という思想を一旦捨てるべきだと思っている。個別個別のケースを見て悪者を見つけるのは簡単である。しかし、そこで終わってしまっては社会課題はいつまでも残り続けるのだ。本当の原因を探り、その解決策を考えるためには、「悪者探し」を超えていかなければいけない。
具体的には、なぜその「悪者」が悪い行動を取ってしまうのか、なぜそれを誰も止められないのか、というように、「なぜ」を深く深く、煮詰めていく必要がある。そして、その「なぜ」が社会に存在する構造や制度などの「仕組み」にまでたどり着いたとき、はじめて解決の糸口が見つかるのだと思う。
いやはや、本当はここから、2つの社会課題の事例を紹介しながら、いかに「悪者探し」が問題を矮小化してしまうのかを語るはずだったのだが…、長くなったので記事を分けることにする。
(ちなみに、次の記事で取り上げる動画は以下の二つです。ここまで書いてきたことを実践するのにとてもよい材料だと思います。)
また、もう公開は終了したと思いますが、是枝監督×坂本脚本の「怪物」もこの視点で見ると面白いと思います。こちらはご紹介まで。
ではまた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?