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既知のものが失われ、新しい萌芽に期待できないとき、それでも希望を持つことは可能なのか?

失われていくもの

時間とともに、いろいろなものが失われていきます。
その最たる例が、個人の可能性。
時間が進み、未来が確定し、残り時間が減っていく。
すなわちこれは、無限に広がっているように見えた可能性について、その終点に近づくことそのものです。
他にも、失われていくものはあります。
連載漫画の終了なども当てはまるでしょう。

再構築されるものと、打ち捨てられるもの

コンテンツは、作り手の気持ちを無視し、ビジネスに巻き取られていきます。
連載漫画が終了したとき。可能性があるなら、次のステップへ。
そうでないなら、そこで終わり。また別の何かを生み出さなければいけません。
なぜ、失われてもなお再構築され、残り続けるものがあるのか。
なぜ、失われると同時に大衆から無視され、打ち捨てられるものがあるのか。
その答えは、よくわかりません。ビジネスだからでしょうか。
再構築されても、従前のものと同等あるいはそれ以上のものをもたらしてくれるとは限りません。
かつての未来が失われ、新しい未来が提示されたとき。その新しい未来に期待できないとき、僕たち人間は、どうすべきなのでしょうか。

明日への希望

人間は、明日への希望を胸に生きています。
言い換えれば、可能性。
言い換えれば、不確実性。
言い換えれば、未来そのもの。
それらは無条件に「期待」されます。
きっと良いものになるはずだ。悪いものであるはずがない。希望で満ちているべきなのだ……。
その「期待」が裏切られ続けたとき、果たして引き続き「期待」をまた続けられるのでしょうか。
そもそも「期待」とは、なんなのでしょうか?
人間は、なぜこうも期待せずにいられないのでしょうか?
期待することなしに、生きることはできないのでしょうか?
そうであるならば、人間は「期待する機械」でしかない、そう言えるのではないでしょうか。

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