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[心理学ノート]ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』高橋洋[訳]

よう、オレだぜ。今回紹介するのはコイツだ。

本書の目次は以下の通り。

●第1部 まず直観、それから戦略的な思考
――心は〈乗り手〉と〈象〉に分かれる。〈乗り手〉の仕事は〈象〉に仕えることだ
第1章 道徳の起源
第2章 理性の尻尾を振る直観的な犬
第3章 〈象〉の支配
第4章 私に清き一票を

●第2部 道徳は危害と公正だけではない
――〈正義心〉は、六種類の味覚センサーをもつ舌だ
第5章 奇妙(WEIRD)な道徳を超えて
第6章 〈正義心〉の味覚受容器
第7章 政治の道徳的基盤
第8章 保守主義者の優位

●第3部 道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする
――私たちの90%はチンパンジーで、10%はミツバチだ
第9章 私たちはなぜ集団を志向するのか?
第10章 ミツバチスイッチ
第11章 宗教はチームスポーツだ
第12章 もっと建設的な議論ができないものか?

ジョナサン・ハイトは道徳の情動的・直観的な基盤、また党派間や文化間で道徳のとらえ方がどう異なるかを研究しているアメリカの社会心理学者だ。

本書は過去のリベラルな心理学者たちがガキの道徳心の発達過程をどのように捉えようとしていたかを概観することから始まるが、文化人類学のリサーチを追っていくことで、心理学者たちの企みはどうも偏ったものだったんじゃないか、ということがまず紹介される。

たとえば、異なる文化圏で道徳的なジレンマが発生するストーリーについてのインタビュー調査をすると、ニンゲンたちが自分の情動を後付けで合理化している様が明らかになっちまうんだな。アメリカじゃ非難されるようなことがインドでは問題なかったり、その逆もまた然りだ。

道徳的な直観は、道徳的な思考が始まるはるか以前に、すばやく自動的に生じる。そして前者は後者を駆り立てようとする。真理を発見するための道具として道徳的な思考をとらえると、自分の意見に賛成しない人は、愚かで、偏見に満ち、非合理であるように見え、それに対して自分はつねにフラストレーションを感じることだろう。しかし社会的な目的を達成するために、言い換えると自らの行動を正当化し、自分が所属するチームを守るために、人類が発展させてきたスキルとしてとらえれば、ものごとをよく理解できるはずだ。直観に注意を払い、人々の繰り広げる道徳的な議論を額面通り受け取らないようにしよう。それらは、戦略的にその場ででっち上げられた正当化である場合が多いからだ。

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』
高橋洋[訳]、紀伊國屋書店、p.17

どうやらニンゲンは事実についての認知の精度を高め、熟慮した結果、何かを「悪い」と見做すのではなく、認識する時点で既に「悪い」と決めてかかってしまう生得的な傾向を持っているらしいぜ。

そして、何を「悪い」と見做すかはどういう集団の中で育ってきたかによると。ガキは「何をしたら危険か」という合理的な推論から自分の道徳観を形成するわけではなく、自分が所属している集団の中で何が「嫌悪」「不敬」の対象と見做されるかも手がかりにしている。

また《道徳的な思考》は概ねその判断を後付けで正当化するために働く、とハイトは言う。おまけにニンゲンは直観的に下した最初の《道徳的な判断》をその後の思考によって変えたがらないときた。

こういったことはハイトが勝手に言い出したわけでもなく、メディア論の古典であるウォルター・リップマンの『世論』なんかでも指摘されていたな。

ステレオタイプは人間の好みを担わされており、愛憎に満たされ、恐怖、欲望、強い願望、誇り、希望に結びつけられている。ある特定のステレオタイプを喚起する事物があれば、それが何であれそのステレオタイプにふさわしい感情によって判断される。思慮深くどちらにも偏らない状態を保っているときは別として、われわれは一人の人間を調査してから悪い人だと判断するわけではない。われわれはその人を見るときすでに悪人として見ているのである。

ウォルター・リップマン『世論(上)』
掛川トミ子[訳]、岩波文庫、pp.162-163

SNSを眺めていると、毎日のように世界中で誰かが誰かを非難しているのを見かけるだろう。特にニュースに対する反応は酷いもんで、エコーチェンバー(同質な集団内でコミュニケーションを完結することで自分たちの信念や危機感を独善的に増幅させる)とフィルターバブル(自分たちの信念や危機感に適合する情報しか得られない環境の中で孤立する)の合わせ技で「こいつら、内戦でも始めるんじゃないか?」と言いたくなるほどの誹謗中傷合戦が発生している。

じゃあ、なぜこんな事態が起こっちまうのか? ハイトによると、進化によって獲得したニンゲンの集団志向性が関係しているんじゃねえかってことみたいだ。

ゴキブリジュースを飲みたくないと思うことは、道徳的な判断ではなく個人の好みの問題であり、「なぜなら、飲みたくないから」という返答は、自分の主観的な嗜好の正当化として完璧に受け入れられる。それに対し、道徳的な判断は主観の表明ではない。それは誰かが何か悪いことをしたという主張のことだ。ある人の行動が気に入らないというだけで、その人を罰するよう社会に働きかけられるわけではない。そのためには、自分の嗜好以外の何かを指し示す必要があり、この指摘のプロセスこそ、道徳的な思考なのである。私たちは、「なぜ自分がある特定の判断に至ったのか」を説明する、現実的な理由を再構成するために道徳的な思考を働かせるのではない。そうではなく、「なぜ他の人たちも自分の判断に賛成すべきか」を説明する、考え得るもっとも有力な理由を見出すために道徳的思考を働かせるのだ。

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』
高橋洋[訳]、紀伊國屋書店、p.87

個パンダ的な生理的感覚でしかない不快感をもとに他者を非難することはできない。たとえば、電車の隣席に座った誰かが風呂に入っていないために体臭が強く、それを不快に感じさせられたとしよう。そのような時にオレたちは、そのニンゲンの「配慮の欠如」を非難することになる。不快感そのものではなく、「みんなが自己管理しているのに、そいつはそれをせずに不快感を他人に強いている」ことを問題視する。

ニンゲンが何かを「悪い!」と感じ、《道徳的思考》を働かせて非難する時、それは同時に周囲のニンゲンに「コイツは悪いヤツですよ!」と言いふらしているわけだな。《道徳的情動》は集団心理そのものってことだ。群れの中で生きたことがない、無人島で独り生まれ育ったニンゲンは《道徳的情動》を持ちえないだろう、ということでもある。

ハイトはニンゲンの集団が環境に適応(個体が生きながらえ、子孫を残す)するのに、進化の過程でどのような道徳的情動を習得する必要があったかをモラル・マトリックス(ケア/危害、公正/欺瞞、忠誠/背信、権威/転覆、神聖/堕落)にまとめたりしてるな。

一度生じた情動を合理化する過程に偏見や憶測、保身、未熟さが横たわっていたとしても、同意してくれる他人さえ見いだせるならば、何の根拠もなく、それどころか事実に反するような判断も正当化されることがあるってんだから、まったくニンゲンは恐ろしいぜ。

私たちは何かを信じたいとき、「それは信じられるものなのか?」と自分自身に問う。そして次に(クーンとパーキンスが発見したように)、それを支持する証拠を探し、一つでもそれらしきものが見つかると、そこで思考を停止してしまう。それを信じる許可が下りたからだ。誰かが質問しても、理由を答えられる。それに対し、何かを信じたくない場合には、自分自身に「それは信じなければならないものなのか?」と尋ねる。それから反証を探し、たった一つでもそれが見つかれば、信じたくないものを放棄する。

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』
高橋洋[訳]、紀伊國屋書店、p.147

たとえば、ジョージ・オーウェルの評論の一節に次のようなものがあるぜ。

ほんとうはどうなっているのか、誰にもよくわからないとなれば、なおさらかんたんに狂気じみた信念にしがみつくことになる。何一つ証拠もなければ反証もないのだから、どんなに明々白々な事実でも厚顔に否定できるのだ。これにくわえて、ナショナリストというのはたえず権力だ、勝利だ、敗北だ、復讐だといったことを考えているくせに、現実の出来事にはいささか無関心というばあいが珍しくないのである。要は自分の属する組織が他の組織を圧倒しているという気持を味わいたいだけであって、そのためには事実を調べて自説の根拠を確かめるより、むしろ敵をやっつけるほうがかんたんなのだ。(パンダ強調)ナショナリストの論争はすべて討論クラブの水準のものでしかない。どの論者もきまって自分が勝ったものと信じているのだから、結論など出るはずはないのだ。一部のナショナリストは精神分裂症といってもよく、現実の世界とは無関係な、権力と勝利というまことに幸せな夢を見ているだけなのである。

ジョージ・オーウェル『オーウェル評論集』「ナショナリズムについて」
小野寺健[編訳]、岩波文庫、pp.325-326

周知の通り、ジョージ・オーウェル自身は社会民主主義者でド左翼だったが、当時隆盛していたマルクス主義内部のどうしようもない現実を思い知ってから、保守へと政治信条を変えることもなく、当時の知的環境では許されなかったソ連などへの批判を始めていった。ここでオーウェルが言う《ナショナリスト》には平和主義者や共産主義者も含まれている。

あるいはアメリカの哲学者のフランクファートが「ウンコ議論」と呼んだものでもいい。

彼女は自分の発言の真理値を気にしていない。だからこそ彼女は嘘をついているとは言えない。というのも彼女は真実を知っているとは主張しておらず、したがって偽であると想定するような発言を意図的に広めようとしているはずはないからである。彼女の発言は、それが真であるという信念にも基づかず、嘘であれば必然であるような真でないという信念にも基づいてはおらぬ。かような真実への配慮との関連欠如――物事の実態についてのこの無関心ぶり――こそまさに、吾輩がウンコ議論の本質と考えるものなのである。(パンダ強調)

ハリー・G・フランクファート『ウンコな議論』
山形浩生[訳]、ちくま文庫、p.37

いわゆる「ポスト・トゥルース」は「客観的事実よりも(真理値を持たない=真実か嘘かを判別できない)感情的な表現が世論形成に大きく影響する状況」を指すが、それは「事態や事実を正しく認識できているか」よりも「自分はどの集団に所属するか」に注意が向いている状況だ。

精神科医である中井久夫による「妄想」に関する記述を参照してもいいだろう。

妄想の類似現象は意外なところにある。またしてもサリヴァンであるが、彼は昇華と妄想とが近縁だと言っている。昇華によって、たとえば慈善事業に打ち込んでいると、他のことをしている人間は皆するべきことをしてない人間に見えて来て、自分の仕事に参加するべきだと考える(パンダ強調)ようになり、「わずらわしい大義の人」になるという例を挙げているが、これはたしかに妄想症の一歩手前である。

中井久夫『世に棲む患者』
ちくま学芸文庫、p.140

ニンゲンは各人が抱える課題の一つ一つを熟慮していては処理しきれず、情動による素早い対応をしていく必要がある。物を受け渡す時に乱暴に机に置いた、挨拶を無視した、憮然とした表情をしている、等々、といったちょっとした所作にすら相手に対する敬意を損なっていると判断されるが、それはほぼ反射に近いもので、自分が所属しているコミュニティ内で爪弾きに合わずに生きていくためには身につけなければならないものだ。

そのためにニンゲンは自論の補強、自己の社会的評価の向上(≒他者の社会的評価の操作)のために知能を働かせがちであり、また馴染みのない思考について、特に自分が嫌悪している行動を取るニンゲンやコミュニティの思考についてチャリタブルに想像をめぐらすことは極度に「不快」らしい。

ハイトは群淘汰のアイディアにかなり依拠しており、ヤツの専門でない生物学的な説明はかなり怪しく感じる箇所がある。なので、いくらか割り引いて読む必要はあるが、それでも本書は、ニンゲンどもが自分固有の独立した感情だと思っているものが、実のところ、自分が所属する集団内の緊張、集団間の緊張を反映したに過ぎない可能性についてスッキリした見通しを与えてくれるぜ。

人類は無条件にあらゆる人々を愛するべく設計されている、と信じられるのならとてもすばらしい。しかし進化論的な観点から言えば、そんなことはまずあり得ない。だとすると、類似性、運命の共有、フリーライダーの抑制によって強化される郷党心、すなわちグループ愛は、私たちが達成できる最大の成果ではないだろうか。

同書、p.379

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