よう、オレだぜ。今回紹介するのはコイツだ。
本書の目次は以下の通り。
ジョナサン・ハイトは道徳の情動的・直観的な基盤、また党派間や文化間で道徳のとらえ方がどう異なるかを研究しているアメリカの社会心理学者だ。
本書は過去のリベラルな心理学者たちがガキの道徳心の発達過程をどのように捉えようとしていたかを概観することから始まるが、文化人類学のリサーチを追っていくことで、心理学者たちの企みはどうも偏ったものだったんじゃないか、ということがまず紹介される。
たとえば、異なる文化圏で道徳的なジレンマが発生するストーリーについてのインタビュー調査をすると、ニンゲンたちが自分の情動を後付けで合理化している様が明らかになっちまうんだな。アメリカじゃ非難されるようなことがインドでは問題なかったり、その逆もまた然りだ。
どうやらニンゲンは事実についての認知の精度を高め、熟慮した結果、何かを「悪い」と見做すのではなく、認識する時点で既に「悪い」と決めてかかってしまう生得的な傾向を持っているらしいぜ。
そして、何を「悪い」と見做すかはどういう集団の中で育ってきたかによると。ガキは「何をしたら危険か」という合理的な推論から自分の道徳観を形成するわけではなく、自分が所属している集団の中で何が「嫌悪」「不敬」の対象と見做されるかも手がかりにしている。
また《道徳的な思考》は概ねその判断を後付けで正当化するために働く、とハイトは言う。おまけにニンゲンは直観的に下した最初の《道徳的な判断》をその後の思考によって変えたがらないときた。
こういったことはハイトが勝手に言い出したわけでもなく、メディア論の古典であるウォルター・リップマンの『世論』なんかでも指摘されていたな。
SNSを眺めていると、毎日のように世界中で誰かが誰かを非難しているのを見かけるだろう。特にニュースに対する反応は酷いもんで、エコーチェンバー(同質な集団内でコミュニケーションを完結することで自分たちの信念や危機感を独善的に増幅させる)とフィルターバブル(自分たちの信念や危機感に適合する情報しか得られない環境の中で孤立する)の合わせ技で「こいつら、内戦でも始めるんじゃないか?」と言いたくなるほどの誹謗中傷合戦が発生している。
じゃあ、なぜこんな事態が起こっちまうのか? ハイトによると、進化によって獲得したニンゲンの集団志向性が関係しているんじゃねえかってことみたいだ。
個パンダ的な生理的感覚でしかない不快感をもとに他者を非難することはできない。たとえば、電車の隣席に座った誰かが風呂に入っていないために体臭が強く、それを不快に感じさせられたとしよう。そのような時にオレたちは、そのニンゲンの「配慮の欠如」を非難することになる。不快感そのものではなく、「みんなが自己管理しているのに、そいつはそれをせずに不快感を他人に強いている」ことを問題視する。
ニンゲンが何かを「悪い!」と感じ、《道徳的思考》を働かせて非難する時、それは同時に周囲のニンゲンに「コイツは悪いヤツですよ!」と言いふらしているわけだな。《道徳的情動》は集団心理そのものってことだ。群れの中で生きたことがない、無人島で独り生まれ育ったニンゲンは《道徳的情動》を持ちえないだろう、ということでもある。
ハイトはニンゲンの集団が環境に適応(個体が生きながらえ、子孫を残す)するのに、進化の過程でどのような道徳的情動を習得する必要があったかをモラル・マトリックス(ケア/危害、公正/欺瞞、忠誠/背信、権威/転覆、神聖/堕落)にまとめたりしてるな。
一度生じた情動を合理化する過程に偏見や憶測、保身、未熟さが横たわっていたとしても、同意してくれる他人さえ見いだせるならば、何の根拠もなく、それどころか事実に反するような判断も正当化されることがあるってんだから、まったくニンゲンは恐ろしいぜ。
たとえば、ジョージ・オーウェルの評論の一節に次のようなものがあるぜ。
周知の通り、ジョージ・オーウェル自身は社会民主主義者でド左翼だったが、当時隆盛していたマルクス主義内部のどうしようもない現実を思い知ってから、保守へと政治信条を変えることもなく、当時の知的環境では許されなかったソ連などへの批判を始めていった。ここでオーウェルが言う《ナショナリスト》には平和主義者や共産主義者も含まれている。
あるいはアメリカの哲学者のフランクファートが「ウンコ議論」と呼んだものでもいい。
いわゆる「ポスト・トゥルース」は「客観的事実よりも(真理値を持たない=真実か嘘かを判別できない)感情的な表現が世論形成に大きく影響する状況」を指すが、それは「事態や事実を正しく認識できているか」よりも「自分はどの集団に所属するか」に注意が向いている状況だ。
精神科医である中井久夫による「妄想」に関する記述を参照してもいいだろう。
ニンゲンは各人が抱える課題の一つ一つを熟慮していては処理しきれず、情動による素早い対応をしていく必要がある。物を受け渡す時に乱暴に机に置いた、挨拶を無視した、憮然とした表情をしている、等々、といったちょっとした所作にすら相手に対する敬意を損なっていると判断されるが、それはほぼ反射に近いもので、自分が所属しているコミュニティ内で爪弾きに合わずに生きていくためには身につけなければならないものだ。
そのためにニンゲンは自論の補強、自己の社会的評価の向上(≒他者の社会的評価の操作)のために知能を働かせがちであり、また馴染みのない思考について、特に自分が嫌悪している行動を取るニンゲンやコミュニティの思考についてチャリタブルに想像をめぐらすことは極度に「不快」らしい。
ハイトは群淘汰のアイディアにかなり依拠しており、ヤツの専門でない生物学的な説明はかなり怪しく感じる箇所がある。なので、いくらか割り引いて読む必要はあるが、それでも本書は、ニンゲンどもが自分固有の独立した感情だと思っているものが、実のところ、自分が所属する集団内の緊張、集団間の緊張を反映したに過ぎない可能性についてスッキリした見通しを与えてくれるぜ。