![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43775800/rectangle_large_type_2_159f385abce524a7f086b65696d08fe3.jpeg?width=1200)
知りすぎるとバカになる
先日、感染症専門の医者である岩田健太郎さんの「成人式には行かないで」というブログを読んでいて
『若者の最大の武器は「想像する力」なのです』
『過去の自分の体験でしかものを語れない、ぼくのようなじーさんやばーさん』
という言葉を見つけた。
たしかにおじいちゃんやおばあちゃんと話していると、人生の経験談を聞かされることがよくある。
だけど若者の最大の武器が想像力であるっていうのは実感したことがないし(自分が若者であるからかな)、老人たちに必ずしも想像力がないとも言えないような気がする。
ということで、想像力と経験について考えてみる。
①想像力ってなんだろう
経験という言葉がどういうものなのかはなんとなくイメージがつく。自分の実体験ないしそれを通して学んだこと的な。
一方、想像力は普段たまに使うけどなかなかイメージがつきにくい。広辞苑を引くと「想像する力」。そのままやんて。じゃあ想像しているなって思える場合はどういう時か。
小説を読んでいるときに情景を思い浮かべる
飲み会で友達と夢を語り合う、などなど
あえて言葉で表現すると、経験したことはないけどイメージが持てるもの的な感じか。
②経験と想像の関係性
こんな話を聞いたことがある。
古代中華帝国において、皇帝にゾウが献上された時の話。皇帝が家来たちに目隠しをしてゾウを触らせた。ゾウはどんな動物かと皇帝が聞くと、家来Aはゾウの足を触りながら「ゾウは丸太みたいに丸くて太い動物です」と言った。家来Bは耳を触りながら「ゾウはフライパンみたいに平たい動物です」と言った。家来Cはゾウの鼻を触りながら「ゾウは長くて細い動物です」と言った。
この話が何を表しているのだろうか。
ゾウの全体像を知らない家来が、ゾウの一部分を触ってゾウの全体像を推しはかっている。つまり抽象的に言えば世界の全体を知らない人が、自分の経験を通して世界を知ろうとしていると言うことができそうだ(経験を通して想像を生み出している)。
経験と想像力は相互に関係しているということがわかった。
では経験が全くない場合はどうなんだろう。
③経験値0から想像1は生み出せない
経験がなければ、想像することができないのだろうか。
ゾウを知らない子供がいるとする。その子供はゾウを描くことはできるのだろうか。(この場合正しいゾウの姿をかけていなくても、それらしき動物が描けていればよしとする)。
子供はゾウの絵を描くことができると思う。なぜならその子供はキリンという動物を知っているからだ。お母さんが「ゾウさんはキリンさんと仲良しなんだよ」と一言アドバイスすれば、子供は「ゾウさんには口があって、足があって、大きくて」と色々類推することができるからだ。
子供がキリンも動物も知らなかったとすればおそらくゾウは描けない。描けたとしてもゾウの姿から大きく逸脱した絵になるだろう。
つまり経験値0から想像1を生み出すことはできない。
たしかにこれは真理だと思う。なぜなら、今自分も「想像」といういまいちイメージできない言葉をイメージするために、過去の自分の経験を思い返した上で想像とはなんぞやっていうことを考えているからだ。今までの人生経験がなかったとしたら、想像とはなんなのか考えることもできないはずだ。
じゃあ、経験値1から生み出される想像は1なのだろうか。
④経験値1から想像3がありうる
これに関しては直感的に正しいと言えそうだ。というのもゾウという経験から、ゾウの群れのイメージやゾウに乗ってるイメージ、ディズニーのダンボのイメージなどたくさんの想像が生まれてくるからだ。
ここであれ?と迷った。
さっき想像とはなんぞやって考えたところ、経験したことないけどイメージが持てるものと定義した。
だけどゾウの群れやゾウに乗ってるイメージ、ダンボは今までに映像やアニメを通して経験したことだ。
ということは経験から経験しか生み出されないルートもあるということか。
ただウォルト・ディズニーにとってダンボはゾウという経験から生み出された想像である。
話が脱線した。時を戻そう。ひゅう〜。
経験から経験が生まれる場合をあるとわかったが、経験1から想像3が生み出されることが否定されたわけではない。
つまりゾウという経験からピンク色のゾウや鼻が2本あるゾウ、カレーライスを食べているゾウといった経験したことのない想像をいくつも生み出すことができる。
ここで一旦今までの思考を整理したい。まとめると、こんな感じか。
経験(Σ1→∞)→想像(Σ1→∞)
ちょっとカッコつけて書いてみたけど(あってるかわからない)、つまりはこうだ。
経験→経験→経験→・・・→想像→想像
●は経験、◎は想像
経験から想像が生まれるし、経験から経験しか生まれないこともあるし、想像から想像が生み出されることもある。ただ想像→想像のルートはメインテーマではないのであまり考えないようにする。
本題に戻ろう。
なぜ老人は経験でしか語れず、そして若者の最大の武器は想像力と言えるのか検討したい
⑤経験とは条件だ
世界は不定方程式で表されるように思える。不定方程式とは
X + Y = Z
のたぐいの式だ。Zは無数にあり、Zを達成するための方法X Yも無数にある(ただその中には正しくないXYの組み合わせも存在している)。
その世界の中で歳をとるとはどういうことなのか。
多分それは不定方程式の条件が増えていって答えが1つに定まってしまうということなのだろう。この式で言えば、Xは60以上61未満且つYも60以上61未満という条件がついてしまう。その結果生み出されるものが(X.Y)=(60.60)になりZ=120と決まってしまう。
それは条件の上では正しい答えであるが、条件が変われば正しくないものになる。例えていうなら、自分の両親の世代だと大企業に就職すれば将来が安泰と確約されるものだったということか。
シンニホンの著者である安宅さんが、こんなことを言っていたのを思い出した。
「知れば知るほど知恵が湧くのではなく、知りすぎるとバカになる」
これはつまり、経験を重ねれば重なるほど制約条件X Yが増えていき、X Yの取り得る幅が狭くなり(想像する力がなくなり)、Zが決まってしまう。だから無駄な条件を増やしすぎないことが大切だと思う。
このようなジレンマを解消し、の手段は2つある。
⑥ジレンマの解消方法
1つ目の解決策は環境を変えるということだ。質の良い条件XYを得る、すなわち質の良い経験を積む努力をするということだ。
何を求めているかにもよるが、刺激を貰える人と付き合う、仕事では会社に労働を提供するのではなく努力を提供する、などなど。
ノルウェイの森で、東大生の永沢さんが「大抵のサラリーマンは労働しかしてないんだ、俺はその10倍は努力してる」って言ってたのが印象的。
もっとも正直質の良い経験の定義は人によって様々だと思うので何が良いかは一概には言えない気がするが。
質の良い条件を揃えることができれば、X Yの取り得る幅が広がり、それは想像できる幅が広くなったことを意味する。
第2の解決策。ある意味強引な手段ではあるが、決まってしまった条件の中で最大の想像力を生み出す努力をするということだ。
環境を変えることは誰もができるわけではない。でもこっちの方法ならどんな条件に置かれていようとも自分の次第で想像力の最大値を引き出すことができ、ひいては身の丈Zの取り得る値を拡大することができる。
有効な手段としてはインプットとアウトプットの量を増やすことだと思う。沢山行動したり沢山本を読むことを通してインプットを増やすことは新たな見地の獲得に繋がるから大切だ。ただその反面、無駄な条件の獲得に繋がるリスクも多いにある。だからこそアウトプット、具体的には考えたことや反省を紙に書いて整理し、ベストな条件を選んでいくことが大切なのではないだろうか。
とここまで色々書いてきたが、結論として老人が自分の経験でしかものを語れない原因は自分の獲得してきた経験(条件)にしがみついていることが多いからだ。一方若者には素直な心で謙虚であることが多い故に想像力豊かであると言えるのではないか。
2つ目の手段に関係する面白い記事がプレジデントオンラインであるのでよかったら「孫正義 メモ」とぐぐってみてはいかがだろうか。
つまるところ、想像力を生み出すのは
謙虚で素直に物事を見つめられるかということだろうか。
noteを書くにあたってももっと工夫していきたいところである。
ではまた来週。アディオス!