「生死の今際に立つとき」
2024 4/29
虚ろなる果てを知らぬ数々の死者たちの狡智の限りを尽くした分類記載する数知れぬ混沌の中に薄ぼんやりと光っているのが見える。それは一体何なのか?我が意志を、我が牢獄なる自我を、我が魂を持ってしてでも捉まえることは出来ない。虚無を通して、私の身体に侵入してきたこれらの異物は、転落のなかへと垂直に落下し、私の色々を探っているようである。随分と昔のことだ。私は自分が何も出来ず、極めて無価値な存在であることに苛立ち、この世界の成り立ちから終わりに至るまで、何の成果も残せないだろう。すべて不浄なるものどもが踏み荒らし、この私を弄んできたのだ。はるか遠くから、私に残した悪臭を、私に対して激烈な攻撃をしかけてくる。こいつらを全部撃退させねばならない。もはや、言葉なんぞ何の役にも立たないであろう。ただ、こいつらを駆逐しなければ。私は本来の景色を取り戻したいだけだ。私は本当にどうしようもないので、周囲の人の親切に頼らざるを得ない。多くの学者や知識人のように論理的な帰結なんぞ、学問的追及なんぞ、私は求めてはいないし、現実は極めて不条理なものだと思っているし、自由と主観性を損なうものである。見境もなく、心に思うことを外側に吐き出すことは、断じて「言葉」を使用しているとは言えない。外の現実で使われている言葉が真実なのだから。そして、私は同時に世界に切り離されている。
私はこの破壊の加担者なのであろうか。今のところ、私はそのことに漠然とした、しかしかなり強い嫌悪感を持っている。心理やら価値やら意味といった二次局面においてではなく、その背後にぴったりとくっついた一次局面を見つめてみようか。
私はまた眺める。人がいるはずもない場所に何人もの人影が現れている。彼らは立ち止まって私のほうを見つめている。全員が薄ぼんやりとしている。私はもう見るのをやめる。何人かが話している。支離滅裂な意味を排した言葉。実在している人間なのか?私には分からない。最初のほうの恐怖は得体が知れないが、もはや慣れてしまった。慣れてしまうことも怖いのだが。ある側面を見ると、その連中は全く同じ容貌をしている。対岸、遠方の、ちらちらしている光が見える、救いの手を差し伸べる、私は川の水面を見つめながらどうにか精神を落ち着かせようと試みる。私はこういったことを繰り返し、本来の世界を発明し、まだ生き残って死にきれない愚かな自分を見つめてみる。視線の狂暴さは死が何も消さないという事実を示している。そのことは考えることはもうおやめなさい…私はどこか見知らぬところに帰りたい…もうこんなに疲れきっているというのに…どうにも手の打ちようがないというのは確かなようだ。実際に人間に関わる一切の物事を私は忘れてしまう、それは余計な感情を思い出したくないからだ。私は悲しみに胸塞がれつつも、全世界に向けて激怒している。本当に、本当に、長い道のりだ。いよいよ最後の段階にきてしまったとも思える。もう周囲のマシな奴等は殆ど行方不明になるか死んでしまった。そのことを思い出すとやるせない。私はまだ何かしなければならない?どうして私に何らかの使命感を植えつける?お前らは卑怯じゃないか!私は20際だった、26歳だった、33歳だった、どんどん自分がみすぼらしく耐え難い容貌になっていくのに耐えられない。君たちは若いままだ。ずるいじゃないか!でも、もう遥か昔のことのようにも思えると同時にいま、現在私を苦しめている要因であるとはどうやら言えそうだ。時々発作的にフラッシュバックのように陥るこれらの発作が、すべてを否定したくなる、破壊したくなる、忘れたくなる気分の急変は、たとえ誰かに打ち明けようとも、誰もが実は同じような経験していることで知っていることであるように思えるのだし。
モロッコで私と6か月共にしたKは酷いヘロインの中毒者だった、私は何度も母国に帰るように言った。彼は言った。母国には何もないんだ、空っぽなんだ、私を苦しめる奴等ばかりだ、私を踏みにじってきた奴等ばかりだ、彼は母国の文学部の仏文科の大学を優秀な成績で卒業し、フランスかどこかの大学院に入る予定だったと昔、少し私にこぼしたことがある。その奨学金を、彼は学問には使わなかった。もう、俺は何も信用しないことにしたんだ、本でさえもねとKは言った。ただ、時間をやり過ごすためだけにヘロインを使った。その気持ちはよく分かる。別にメランコリックに陥ってるわけではないし、自分のために最もいい選択を選んでいるだけだと彼は冗談を言うような軽口で笑いながら語ったが、彼は恐らく色んなところで魂を盗まれ、もう疲れ果ててたのだと思う。私も当時Kと同じような心境だった。ほぼすべての財産を費やした映画を撮った後で、私は本当に疲れ果てていた。
その映画はドイツのとある映画祭で賞を貰ったが、私の心はまるで満たされることはなかった。むしろこの出来事はすべてなかったことにしたいと思った。ドイツから帰国した後で、私は自分の唯一師匠と言える方に電話をした。その方は映画も観に来てくれた。私が沈黙が身を守る手段として一番正しいと思っていた20代前半の頃、京都に行ってその方と会った、私はほぼ一言も言葉を発しなかったのだが、映画を撮りたいということだけは訴えたような記憶がある。Sさん、映画に関わっている奴等は本当に薄汚い奴等ばかりです、私はあの世界に1秒たりともいたくはない、どうせ何をしても報われないんだったらね、作品をほぼ何も書かなかったあるフランス人の詩人をこの世に蘇らせてみせますと。Sさんはヤク中の戯言だと思ったのだろう。ああ、そうかと一言言っただけだった。実際、私はその頃フランス語は全くと言っていいほど分からなかった。
あらゆる夢と世迷言とはりぼてのような虚構はすべて現実に打ち砕かれたな、そういう気持ちだった。手元にある、貴重な本をほぼすべてを売り払って、僅かばかりの金を手にして、私はモロッコへの片道切符を買った。実際に、この時の私の心境はもう殆ど思い出せないのだが、日本に帰る気はなかったように思う。他に遊ぶ相手もいなかったから、モロッコのフェスのゲストハウスのKのもとに私は毎日のように通った。象徴主義やポストモダンやスコラ学、シュルレアリスム、ダダイズム、シチュアシオニスト、話題は幾らでもあったが、Kはダダ自殺3人組が好きだった。一回ゲストハウスから彼は旅立って、ロンドンでライブをして(私はレーベルからお金を出して貰い彼のライブに同行して撮影しにいった)、アルバムを出した。そして、あるレーベルに認められ、自分の名前が売れていくにつれて、私にはKが日に日に衰弱しているように思った。もう、何もかもやめたい、音楽もやめたいんだと彼は言った。そして、一緒にまた、モロッコに戻ることにした。
また麻薬中毒者の日々に戻った。それはお互いさまではあったのだが。でも、私は卑怯なので、1週間薬をつかって、1週間薬をぬく、そんな循環をしていたので本格的な麻薬中毒者になることはなかった。Kのほうはどうやら事情は違うようで、その頃交際していた女性と縁を切られ、音楽にも文学にも価値を見出せなくなって、日に日に口数が減っていった。どんどんヘロインに溺れていって、部屋から外に出ることもなくなっていった。ある日、私は言った。お前、もう、国に帰れよ、金がないんだったら大使館の奴を呼んでやる、どっかで金を盗んできたっていい、このままじゃ死んじまうぜ、私は何度も彼に訴えたのだが、彼はそれに応じることはなかった。食べ物も何も口にしないし、もう自分でトイレに行けなくなるほど衰弱していたのだから。私は看病しに通っていた。
一方で、私は、路上生活者の自称ストア派の老人にフランス語を習っていた。授業料は阿片だった。私は毎日一行だけある自殺した詩人の詩を訳し始め、彼のところに持っていった。その訳とは到底言えないでたらめな代物に彼は真剣に向き合ってくれた。授業は英語とフランス語とスペイン語のちゃんぽんみたいな感じで何とか意思疎通が出来る程度だったが、彼はとても面倒見が良かった。私は実際、この時期この詩人にとり憑かれていたように思う。夜によく夢をみた。何もせずにくたばってしまった過去の友人たちと過去の悲惨な体験の数々、何も思い出したくないのに、夢のほうはどうやら忘れてはくれなかった。その詩人も頻繁に夢に出てきて、何とかして日本でお前の訳を出版してくれないかと、そうでなければお前を殺すと、毎晩のようにその詩人は出てきたのだ。実際、いま、冷静に考えてみるとその詩人は自分自身のことであったのかもしれない。
ある日、私は酷い下痢と悪寒に苦しんでいて(ヘロインの離脱症状だ)、3日ぶりにKのもとに行ってみると、彼の姿はもうなかった。人型の窪みがベッドに出来ていた。それで私はすべてを察した。宿の奴に聞いたら、ああ、彼は2日前に死んで母国に送り返されたよと言われただけだった。私は何も出来なかった。私は彼に何も与えることが出来なかった。Kの住所も素性も殆どのことは知らなかった。何も出来ない自分がどうしようもなく腹ただしかった。
何もやることがないのと、じっとしていると耐えられないので、とり憑かれたように毎晩書いた。正確には書かずにはいられなかった。ただ、頭で考えていることを言葉にしているという感覚ではなくて、もはやそれは翻訳ではなくて、言葉が勝手にやってくるので、それをそのまま書き留めておくことにした。Kはその詩人にとてもよく似ていたし、死んでまで私に仕事を要求するのかと少し恨んだりもした。だから、Kがそうするように仕向けたのだなと私は解釈することにした。実際に何日間閉じこもって書いていたのか覚えてやしない。覚えているのは恐らくこれが私の最後の仕事で、おしまいになるのではという予感があった。私は自分が死ぬのを待っていた。そして、その時はその詩人の自殺とKの死と私の死が起こることで作品は完成するのだと妄信していた。どうにかしてその固定概念みたいなものから、固着した思考から逃れようとも思ったことも正直あった。でも死者たちから逃れようとももう彼らが死んでいる以上、私にはどうすることも出来なかったのだ。こう言ってよければ、人生の神聖な平衡と自分が一心不乱に信じてきたものの不正な機構を難じた。こういった何もほぼ作品を残さなかった詩人の手紙を、状況の不可測性を承諾し、実際のところ、その状況と動揺に不可思議に一致していたのだ。
モロッコという国で書かれたその明証性、そして、それが存在しているという事実にいまだに戦慄する、距離、土地、海、大陸、戦争、時間を飛び越えて、別の時間と別の場所へと流布されていったのだった。夜中にK=詩人のわけのわからぬ言葉を叫び、助けを呼び求め、愛と憎悪を喚きたてた。夜は何も答えてはくれなかった。それが実際に真実であるにせよ、ないにせよ、ここに「在る」ということを私は一度認めてしまったのだ、承認してしまったのだ、したがって、引き返すことは不可能だ。血を思わせるヨード色がかった注射器と血管、その光が私を導くようにまだ手招きしていると錯覚している。私の思考にも、なんの跡も、眼に見えるような何の瘢痕も残さないのだから。痛めつけるわけでもなく、かといって慰めてくれるわけでもない。問題はそんなこととは別だ。あなたたちが予測しうるどんなところからも隔たった現実に恐らく私はいる。これを何千回も、何万回も、この先繰り返されり悪夢に耐えなければならない。それ自体に何の確証もないのにも関わらず。内面的な差異に関わる知覚を排除して。死の出現なんてもう二度と繰り返したくはない。だから、私はもう人を遠ざけたい。もうこれ以上、人と深い関係性を結びたくない、でなければ、私はもう壊れてしまいそうだ。苦しみたくて苦しんでいるわけではない。私の感情が勝手にそうさせるのだから。これは私の性質上どうしようもないことだ。私にこれ以上恐怖心を与えないでほしい。生きるにせよ、死ぬにせよ、正直どちらでもいいのだが、もう一切の感覚を遮断する術を私は学ばなければならない。こういった迷路の中で、真相の究明不能な状態に紛れ込んでしまったとしても不思議ではない。
近すぎるから、遠すぎる。
遠すぎるから、近すぎる。