男子がプリキュア好きでもええやんけ
どうも、ササクマです。以下の文章は2018年に書いたものです。プリキュアの新シリーズが始まったので、自分の思い出などを書き残そうと思います。当時PTA的な批判が目立ったためか、かなり攻撃的な表現が数多く見られますが、どうぞ。
プリキュアの思い出を語る。 僕がプリキュアにハマったのは高校2年の夏だ。それまで日曜の朝と言えば部活しか無かったが、外部コーチの指導方針に反発して練習をサボり始めた頃、朝に目覚める習慣だけ身についていた僕は何の気なしにテレビを点ける。それがハートキャッチプリキュアだった。
いかにも少女漫画に出てきそうな、白い学ランを着た男子が河原で少女と言い争っている。途中から観たので会話の内容は分からない。なんか知らんが苦悩しているようだ。やることもないのでボーッと観続ける。すると敵組織の幹部らしき邪魔者が現れ、モンスターっぽい生物を召喚してきた。お決まりのパターン。少女がプリキュアに変身し、正論と暴力で敵を捩じ伏せる。
しかし、プリキュアに変身したのは少女ではなく、白い学ランを着た男子の方だった。否、男子は女子だったのだ。この時点で僕は開いた口が塞がらない。男装の姿から可愛いプリキュアになる華麗な変身シーンから目が離せない。新たな扉が開く。同じ居間で母親が朝食を食べていて気まずくなろうと関係ない。頑張れ、プリキュア。負けるな。僕は無意識に彼女を応援していた。
その日から僕は毎週プリキュアを欠かさず観ている。どんな困難が待ち受けていようと、ひたむきに努力する彼女たちを見ていて元気を貰った。それは今でも変わらない。神聖さを感じる。だからこそ、だからこそ僕は今までプリキュアについて語ることを忌避していた。
そりゃシリーズごとに好き嫌いは分かれる。時には萌えに偏り、時には少女趣味に奔り、時には恋愛について語り、時には百合に傾く。こんなのプリキュアじゃない。これこそプリキュアだ。各々が理想のプリキュア像を思い描いていた。でも、それでいいじゃないか。幼女も、父親も、ただのオッサンも、好きにプリキュアを楽しめ。
しかし、しかしだ。今期のプリキュアは例年に無く論争が激化している。純粋なプリキュア好きだけではなく、世界を巻き込んでプリキュアが注目されている。もはやプリキュアは台風の目であり、その中心から誰も視線を背けない。なぜなら、今期のプリキュア(HUGっと!プリキュア)は現実問題を可視化させることに成功しているからだ。
例えば高齢化問題、いじめ問題、恋愛事情、ジェンダーレス、あの手この手で様々な社会に焦点を当てている。魔法少女という裾野の広いエンタメを意識しながら、日常の中で揺れ動く少女たちの葛藤を限られた時間内に描き切る。そのテーマに体当たりするような表現が評価される一方、教育的な側面について言及する声も上げられる。
本来、プリキュアは女児向けアニメーションだ。つまり教育アニメとして、大人向けの話は相応しくないという意見である。アホか。教育はサービスじゃねぇし、子供向けアニメは慈善事業でもねぇぞ。なぜならプリキュアの販売元はバンダイであり、おもちゃを売るために東映へアニメ制作を依頼しているからだ。
そしておもちゃを買う金を出すのは親である。親は子供が観るメディアが気になるものなのか、必然的にアニメを一緒に観ることになる。ゆえに、多少は内容を大人向けに傾ける必要性が生じ、そこでおもちゃを子供に買い与える判断を下す。だから実際のところ変わったのは大人の価値観であり、それに翻弄された末の企業努力が内容に反映されたにすぎない。
ちょっと話は本筋と逸れるけども、大人の価値観について変化点を明示したい。下記の箇条書きは映画の歴代興行収入ランキングだ。(興行通信社CINEMA)
1位 千と千尋の神隠し
2位 タイタニック
3位 アナと雪の女王
4位 君の名は。
5位 ハリーポッターと賢者の石
この順位を見て、何か違和感に気づかないだろうか。
ほぼランキングの上位を占めているのは、子供向けメディアでの大人向け作品だ。一昔前の親世代はアニメなんか観ないし、くだらない漫画も読まない。得体が知れないからこそ、子供が触れるメディアに対し過剰に反応する。
しかし、ゆとり世代が親となった今や、アニメや漫画に対して妙な偏見を持たない。なぜなら自分が子供の頃に通過したことだから。ポケモンやコナンなど、自分が知っているものは安心して子供に与えられる。
そしてプリキュアは15周年。初代から観ていた少女が、これから親になろうか差し掛かる時期である。つまり復帰勢とも言える視聴者をターゲットにしており、懐かしのキャラなどが登場する機会もあるので、今後とも動向を追いかけチェックしてほしい。
話を本筋である、直接的なアニメ表現に戻す。さんざん長ったらしく述べたように、プリキュアは現在の親(ゆとり)も視聴者と想定して製作している。そして、ゆとり世代は従来の社会規範に対し、少なからず自然な疑問を持っている。国や会社など、コミュニティ内での美徳意識が薄れているため、凝り固まった考え方にとらわれない。
そんな彼らにとって、いや私たちにとって、人間関係による差別は誰しもが共感できる問題なのだ。例えば男だから、女だからという勝手な理由で、どこにでも身近に差別はある。子供も大人も関係ない。自己の承認欲求を満たす。存在の否定は死と同等である。それでいて差別する人は無自覚なため、メディアを通し人格を表出させられると嫌悪感を示す。
だからこそ、プリキュアの直接的で、力強い言葉に私たちはリアリティを感じる。夢見がちでありながらも、本音で語れる少女の瞳が光り輝く。世間知らずなどと鼻で笑うことができない。夢に向かって努力する人の姿は生命力に溢れている。それは宝だ。誰に何と言われようと手放すな。
ポリコレ棒なんてワードが話題になる昨今、もはや何が正しいのか現時点では分からない。正しかったことだけ後で判明する。でも、間違いであることは現時点で分かるはず。それが理解できないのは過去の判例から学習してないだけ。脳みそ空っぽのバカ野郎ほど思考が自己完結する。自分でコントロールできる範囲で悩め。
大人になれなかった私たちも、常に自己をアップデートし続けて行こう。