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働いていないという劣等感

朝息子との運動がてら公園へ行くと、砂地に大きく「糞」と書かれてあった。それはそれは大きく糞と。

小学生の仕業だろうか。分解したら簡単な漢字かもしれない。読むのも容易い。だけどいざ何も見ずに書けと言われたら難しい。

爽やかな朝に糞という字をさりげなく消す。私が足で擦ることによって糞が塗り広げられていく。広範囲に糞の痕跡が残った。

今日は祝日で普段よりも公園に活気があった。普段なら学校へ行っている小学生や、保育園に通っている未就学児が親が休日のため遊びに来ているのだ。

こんな日は少し苦手で、息子には出来れば絶え間なく歩き回ってもらって、他の子には近づかないで欲しい。親同士会話をするのが苦痛だ。その場限りの当たり障りのない会話が虚しくなる。家に帰ったら思いだせないような会話に神経を使うのが嫌だ。

歩く息子の後ろをついて見守りながら手元ではポケモンGOのジム潰しをする。それがいちばんの癒しだ。

息子は草木を愛でながら木の実を拾い、私はジムで火花をあげ自分の色にジムを染める。WIN-WINだ。そして遊び疲れて午後からは昼寝してくれるのを待つ。それがいつもの流れだ。


今日は少し違った。同じ年頃の子のところへトコトコ歩いて行ってしまった。そのまま流れでしばらく一緒に遊ぶ。砂場セットを持参していなかった、借りるばかりになってしまい気まずい。

そして口には出さないが働いている人のハツラツとしたエネルギーに圧倒される。比べてしまって勝手に落ち込む自分が嫌だ。

同じくらいの歳の子がいるのに自分は…と思う。朝から糞という字を消すくらいしか社会貢献が出来ていない。

殻にこもりたくないけど働いている母親と話すと少し落ち込む。


最近「山奥ニート」について調べてみた。話の中でニートはエネルギーがたくさんあるけど、どの方向に向けていいか分からない。見つかった時爆発的な力を発揮するらしい。

たしかにそうだと思う。テレビで何度か紹介されていた。もはやニートではない。しっかりと働いて社会貢献し、自身の願いも叶えている。生き生きしている。YouTubeで動画も見れた。すごい。もうニートの定義が分からなくなってきた。

私も自分をニートだと思う時期があった。家族のために食事をつくり、家を綺麗に保ち、育児をする。それだけではダメだと思い続けていたらしんどくなった。区切りがなく達成感がない。

なんとなくそこに置かれたゴミは私が片付けないとずっとそのままそこにある。夫は空になったペットボトルですら所定の位置に捨てようとしない。

自分で自分を認められないことと、しんどいと言えないことが1番しんどいのかもしれない。

今たくさん溜まったエネルギーをどこに向けていいか分からない。エネルギーがあるはずなのにいつも身体はどこか疲れている。

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りょう。
無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。