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応用生態工学第20回日韓セミナー#2 ソウルの再開発プロジェクトであった清渓川再生

2024年7月25-26日の応用生態工学日韓セミナーの後に一人でぶらっと視察した,清渓川(チョンゲチョン)についてかるーく書きます.

前記事はこちら.

今回の訪問で訪れた清渓川(チョンゲチョン)は,ソウルの旧市街の中心を流れていた川を,一度蓋をして暗渠にして高速道路を走らせていたのを,2000年代以降に再び川に戻し,周囲の都市まるごと作り変えてしまった韓国のビッグプロジェクトの一つで,2002年にソウル市長だった李明博(イミョンバク)さんが旗を振って,その後大統領になったという市民の支持も大きく得られたプロジェクトであったようだ.
日本でも河川関係者界隈では有名な事案である.

初めての清渓川

清渓川はソウル旧市街を西から東に流れ,南に向きを変え,大河川である漢江(ハンガン)に流れ込んでいる.清渓川から南に約1kmの地下鉄2号線Sangwangsimni駅で降りて,約1kmを歩く.暑いだけでなく,やけにアップダウンがある.面白かったのは,清渓川に平行に自然堤防状の大きなマウンドがあったことだ.これが一体どんな地形なのかあるいは人工的なものなのかいずれ調べるとして,汗ダクダクで清渓川に対面する.

無學橋(MUHAK BRIDGE)なる橋の上から東(下流側)を眺める.おおこれが噂に聞きし清渓川!昨晩の大雨のせいか植物が倒れている.
かつて蓋された暗渠水路となり,蓋の上に道路,さらにその上に高架の高速道路があったことをモニュメントとして残したのだろう.高架橋の下部工が3本残されていた.
沈下橋や飛び石がところどころに.とても広い断面が確保されているが,私の予想では満杯になることは計画上も無いのではないか?都市の雨水排水やら下水処理水が入っている程度ではないか.この断面がどう決定されたのかが(日本語か英語で)わかる資料はちょっと見つけられなかった.
木杭かコンクリート擬木杭でできた帯工と,減勢効果が高そうな巨石.河床変動はほぼしていなさそうだ.

川の両側にある散策路に降りる箇所は狭い階段がところどころあり,スロープは数百メートルごとに一つあるかないかくらいだが,蒸し暑い土曜日の朝ではあったが散歩やジョギングをする市民とぼちぼちすれ違った.写真ではわからないが,おそらく下水処理水だろうか,湿っぽいムッとした匂いがする.我慢できないほどではないが,あまり水質はよくなさそうである.東京の人であれば,渋谷川ストリームのあの匂いとほぼ一緒だ.
とても蒸し暑かったこともあって,思っていたほどの感動はなく,そのまま清渓川博物館に向かった.(この途中のどこかでT-moneyカードを落としたらしい…)

展示が素晴らしい清渓川博物館でチョンゲチョンの歴史を学ぶ

清渓川博物館は,暗渠化されていた清渓川をオープンにして再開発をした区間の一番下流側(東側)にある4階建ての建物である.私は単に清渓川のプロジェクトの紹介なのかと思っていたら,想像以上の内容と展示の質であった.

清渓川博物館.記事を書きながら改めて見ると,暗渠化されていた河川とかつての高架道路をイメージした建物だったのだな,と今更気が付いた.

展示の順路はエスカレーターで4階に上がったところからのスタートで,入るとすぐにジオラマがあり,清渓川が百済以降の歴代王朝の首都であり,自然地形も活かした城塞都市の真ん中を西から東に流れていたのが清渓川であったことが分かった.
南大門とか東大門があったり,南大門が不思議な向きで残っていたのもかつての城塞の一部であったのだなぁと納得.

4階入り口から.展示の質は全体的に高かった.
百済王朝と朝鮮王朝の首都で城塞都市であった頃の姿.この盆地状の集水域の水を集め,南側を東から西に流れる漢江に排水していたのが清渓川だったのだ.清渓川は朝鮮王朝時代からど真ん中を流れる川だったということがわかり,清渓川再生はソウル市のローカルなプロジェクトというより,韓国という国の精神性につながった一大仕事であったことを理解.
ソウル市がどんどん広がっていったことがよくわかる図

清渓川の近代までの歴史で強調されていたのは,日本に植民地化されていた時代のことで,京城(ケソン)と名前を変えられて植民地時代に行政府がおかれていたことやその後の独立(光復)などの展示に交じって,日本の技術者が手がけた仕事の図面が展示されていたのが印象に残った.清渓川の河川改修も,量水標の設置も,道路計画も日本が占領している間にやった仕事だったのだ.(だからどう,というつもりはありません)

1900年頃はこんな風景だったそうです.洗濯してる写真もありました.
日本植民地時代におかれた量水標(Water Level Meter).尺の表示が15cmくらいしかないので,実物はもっとデカかったはずだと思っていたら…
実際に設置されていた頃の写真があった.川のど真ん中に量水標を置いて,橋から観測していたのだろう.
植民地時代に作られた地図.発行人は日本人の名前であった.イエローで記入されているのは計画道路か.
『京城の幹川清渓川の利用価値に就いて』なる専門誌の記事.河手セメント工業所の代表者大野さんという人が書いた論説のようだ.
京城交通計画図.既設電車,計画電車,乗合自動車(バス),郊外鉄道,高速度鉄道,地下鉄道…地下鉄の計画まで書き込まれているぞ.
河川技術者として最も気になったのはこれ.清渓川の平面図と縦断図.何が驚いたかって,現代と書き方がほぼ同じということですね.この図によれば,清渓川の計画縦断勾配は,上流側が1/300,大部分が1/400であることがわかる.結構河床高を下げる計画になっている.現代の技術者が同じ状態の清渓川を見たら,どういう計画をしたのか興味がある.

その後,大韓民国として独立した後,清渓川の両側には露店が立ち並び,市がたったりバラックだらけだったようだ.それを韓国政府は一掃し立ち退かせ(もちろん大きな反対運動があったとのこと),清渓川を暗渠化し,暗渠の蓋の上を道路に,さらにその上を高速道路にした.高速道路の両側には,露店市場に代わるものとして大型のビルが建設された.
半ばスラムに近い川沿いの住民や商人を立ち退かせて開発する,というのはどこの国にもある話で,日本でもほうぼうでもあった話だろう.「塩水くさび」が観察できることで有名な北九州市の紫川のへんの同じような経緯があったことが北九州市立水環境館の展示に書いてあったような.

いつのどんな写真か情報がなかったのだけれど,清渓川のまわりがこんな風景であったことはわかる.堤防状の盛土の上にムシロ旗みたいなのが上げられており,川の中の土砂を動かした直後のように見えるのでひょっとして河川改修中の写真かもしれない.

上記写真を撮影した野村基之氏について調べたところ、なんとこの方は「清渓川の聖者」と呼ばれた牧師さんで、この写真も野村牧師が1970年代に撮影したもののようだ。

2013/11/08
<鳳仙花>◆清渓川の聖者、野村基之牧師◆
 復元事業を経て、2005年にきれいに生まれ変わったソウルの清渓川だが、かつての清渓川沿いは「貧民街」と呼ばれて、貧しい労働者とその家族が暮らす一帯だった。
 1970年、工場労働者の待遇改善を求めて焼身自殺した全泰壱青年も、清渓川沿いの被服工場で働いていた。
 その貧民街を60年代末に初めて訪れ、人々の悲惨な生活に心を痛め救済活動を行ってきた日本人牧師、野村基之さん(82)が、ソウル市の名誉市民となった。遅すぎた受賞ではあるが、とてもうれしい出来事であり、今回の受賞が、韓日友好につながることを期待したい。
 野村さんの活動は、70年代初頭から韓国が経済発展する80年代半ばまで続けられた。やせ衰えた15歳の少女が、満足な治療も受けられないまま亡くなるのを見てショックを受け、東京の自宅を売却して、その資金で清渓川に託児所を建てた。
 野村さんの活動を支えたのは、キリスト者としての博愛精神と同時に、日本人としての戦争責任からだ。
 「日本の植民地支配がなかったら、1950年の韓国戦争も、清渓川の貧民街もなかったはずだ。日本は戦争責任を償わなければならない」と常々語っていた。
 「清渓川・貧民の聖者」と呼ばれた野村さんは、そこで生活する人々の姿も記録し続けた。06年、それらの写真や集めた資料約800点をソウル市に寄贈した。それらは1970年代の清渓川を知る貴重な資料で、今後の都市研究に生かされるという。
 野村さんは現在、山梨県の小さな教会で、質素な生活をしながら布教活動をしている。
 旧日本軍によって慰安婦にさせられた女性を描いた「平和の少女像」がソウルに建てられたと聞くと、昨年2月にソウルを訪れ、その像の前でフルートで「鳳仙花」を吹いて、被害者を鎮魂した。神の使命を果たした半生に、深く敬意を表したい。(L)

http://www.toyo-keizai.co.jp/news/hosenka/2013/post_5527.php
1980年代に建設された大規模な商業施設(テナントで入居できる巨大市場?)の模型.貧民街は跡形もない。上下に走るのが高速道路,それと交差するように巨大商業ビルが建設されたようだ.

その後,2000年代に入り,ついに清渓川の再生のプロジェクトが始まる.このプロジェクトがあらためて大きなプロジェクトであったことに気が付いたのは,川沿いのかなり広いエリアの再開発もまとめて行われたことだ.
「交通対策」,「商人対策」というタイトルの展示もあり,交通の流れは大きく変わるし,大々的な再開発も入るのでさまざまな地元調整が必要であったようだ.李明博(イミョンバク)氏が大統領になったのは、これを仕切ったリーダーシップがソウル市民に広く認められたからであったのだろう.

追記 李明博氏の経歴をWikipediaからひも解くと、現代グループを築き上げた実業家であり、土木建設に強い経歴があり、清渓川以外にもいくつもの自然再生プロジェクトを手掛けたことが示されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%98%8E%E5%8D%9A

5km区間の再生エリアの両岸の区画もゾーニングされ,再開発が行われた.
まず高架道路を撤去して…
暗渠の蓋も撤去したら,王朝時代の遺跡が出てきたりして…
こんな姿に.最初の写真にとった場所だ.

…ここまでのビッグプロジェクトであったことを知らなかった.清渓川再生はその周辺エリアまで巻き込んだソウルの一大再開発プロジェクトだったのだな.

帰国してから地形を確認してみたところ、清渓川流域は西から東に傾斜した盆地状になっていることがよくわかる。王宮であった景福宮(現在、青瓦台の官邸がおかれている)は、背後の山の麓に作られており、清渓川は盆地の谷底に集まった水の排水路であったのだ。南大門は盆地の南西側の低い峠道を守る門であったことも分かる。

一通りの常設展示を見終わって一階まで下りてくると,絶滅危惧種(とくに植物)にフォーカスした特別展示をやっていた.生態系サービスや食物連鎖などの概念を踏まえて、植物の機能やその保全が人類の生存に必要であると、かなりストレートなメッセージが込められていた。あくまで印象に過ぎないが、韓国の環境保全意識は、最近の日本よりずっと高そうだ.

植物の機能や,食物連鎖,絶滅危惧種のことなど,丁寧な展示.
清渓川の生態系についての展示.これも素晴らしい出来.

ソウル駅のそばには,1970年代の高架道路を公園にリニューアルした「ソウル路7017」もあり,これも夜ちらっと見てきたのですが,その記事はまた後日.

今回の出張目的であった応用生態工学 日韓セミナーの記事に続く.

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