熟成された死
「死にたい」という感情は
「疲れた」と同じように平常運転。
15年以上、死と向き合ってきて最近思いました。
自分は内臓疾患で産まれてきて、
薬を飲み続けないと普通に死にます。
生きる希望って言うのは、手術すれば復活すると思ったけど、ないものは捻りだせはしない。
僕にとって死は特別ではない。
幼い頃から隣のベットの人がいなくなるなんて普通だったし
おばあちゃん子だったから
仲良しの爺婆が死ぬのも、もちろん親戚の死も、親友の自殺だってある。
ただ、僕は桃源郷にたどりつけなかった。
色々試したけれど、生還した。
そして、閉鎖病棟にぶち込まれた。結構懲りた。
何回死んでも監禁されて、不自由になるだけ。
これ以上繰り返したら、自分で死ぬことすら許されず幽閉生活が続き、終身刑のようになってしまう。
流石にそれは嫌だった。
だから、僕は自殺できない呪いにかかっているのだと思うことにした。
1番他の人より死に易い身体なはずなのに、一向に死ねない。
死神が存在するのだとしたら、僕の寿命はもしかしたら既に決まっていて、それより前は死ねないように出来ているのかもしれない。
僕はそれ以来、公共の場では、「死にたい」と言わなくなった。
医者や訪問看護や親に「死にたい」と一切口にしなくなった。
その方が、動きやすいからだ。
死ぬと言い続けることは、監視されてしまうことに繋がると経験したからだ。
本当に好きな人や信用してる人にだけ、たまに呟くようにしている。
僕は色んなことが長続きしないが、希死念慮だけはずっと続いている趣味だ。
何かをするということだけではなく、思い続けていることも趣味だと、ある小説で聞いた。
美しいじゃないか。
僕だけが知っている。
僕だけの憧れ。
そして、ヒトである限り必ず最期には訪れる。
職場のバス代(または駐輪場)に使う予定です。 貴方のお陰で、少し通勤が楽になります。