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【雑記】キミに献撰

私はぬいぐるみの口に、ほんとうに食べ物を擦り付ける子供だった。

食べ物をぬいぐるみの口の近くにかざして、モグモグなどと声をあてることを以て「食べている」とは信じられなかった。
だって減っていないんだもの。

食物を目の前にして一口も食べられないのだから辛かろうと思ったし、なんなら瞬きもできずに目も痛かろうと思っていた。
ぬいぐるみ達は完全断食の苦痛な時間を過ごしているのではと不安で仕方なかった。
親の目を盗んでは、ボタンの目を水で湿らせたり、食べ物をちょこちょこと口に触れさせたりしていたから、私のぬいぐるみは口の周りが常に汚れていた。

歳を重ねて賢くなって、ぬいぐるみたちは何か…飢えや渇きを超越した、特殊な形で生きている、そういうものだと説明がついて、
後ろめたい気持ちなく、ぬいぐるみと一緒に食事をとれるようになった。

「飢えや渇きを超越し」ていながら、我々と「一緒に食事をとる」、そんな性質を持ったものの最上の例は神仏だ。
偶像の前に食事を供して「一緒に食べた」と見做す心性は、神道儀式における献饌と直会、尊前への供物や飲食供養なんかとまったく同じ。

尊像や御神体は口を開けないし、そなえられる御供物は減らないが、我々は、かの方々がそれを食べ、心慰められたと信じる。
そうして、かの方々をもてなすことができたうれしさ、安心感、同じものを食べる一体感でタテヨコ深くつながるわけだ。

世の中の、ぬいぐるみの超越性を理解した子供たちが、墓参りやご祈祷にどれほど心を寄せるかは分からないが、

推しのアクリルスタンドを立てて、あるいは尊像をモニターにうつして、その前にバースデーケーキを置けば、献撰だ。
平面上の推しは物理的には手をつけないから、てめぇで全量食べる。直会だ。

素朴な神性はそうやってまんまと育まれる。まんまだけにね。
ほら愛しい偶像たちは、我々の信仰を食って、一際輝いているぞ。

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